森鷗外「舞姫」(本文・口語訳・評論)24~君が黒き瞳子(ひとみ)
◇本文
「幾階か持ちて行くべき。」と鑼の如く叫びし馭丁は、いち早く登りて梯の上に立てり。
戸の外に出迎へしエリスが母に、馭丁を労ひ玉へと銀貨をわたして、余は手を取りて引くエリスに伴はれ、急ぎて室に入りぬ。一瞥して余は驚きぬ、机の上には白き木綿、白き「レエス」などを堆く積み上げたれば。
エリスは打笑みつゝこれを指さして、「何とか見玉ふ、この心がまへを。」といひつゝ一つの木綿ぎれを取上ぐるを見れば襁褓なりき。「わが心の楽しさを思ひ玉へ。産れん子は君に似て黒き瞳子をや持ちたらん。この瞳子。嗚呼、夢にのみ見しは君が黒き瞳子なり。産れたらん日には君が正しき心にて、よもあだし名をばなのらせ玉はじ。」彼は頭を垂れたり。「穉しと笑ひ玉はんが、寺に入らん日はいかに嬉しからまし。」見上げたる目には涙満ちたり。
二三日の間は大臣をも、たびの疲れやおはさんとて敢て訪はず、家にのみ籠り居りしが、或る日の夕暮使して招かれぬ。往きて見れば待遇殊にめでたく、魯西亜行の労を問ひ慰めて後、われと共に東にかへる心なきか、君が学問こそわが測り知る所ならね、語学のみにて世の用には足りなむ、滞留の余りに久しければ、様々の係累もやあらんと、相沢に問ひしに、さることなしと聞きて落居たりと宣ふ。其気色 辞むべくもあらず。あなやと思ひしが、流石に相沢の言を偽なりともいひ難きに、若しこの手にしも縋らずば、本国をも失ひ、名誉を挽きかへさん道をも絶ち、身はこの広漠たる欧洲大都の人の海に葬られんかと思ふ念、心頭を衝いて起れり。嗚呼、何等の特操なき心ぞ、「承り侍り」と応へたるは。 (青空文庫より)
◇口語訳
「何階に持っていくんだ」と銅鑼のように叫んだ御者は、既に階段の上に立っていた。
ドアの外に出迎えたエリスの母に、御者を労い下さいと銀貨を渡し、私の手を取り導くエリスに伴われ、急いで部屋に入った。一瞥して私は驚いた。机の上には、白い木綿、白いレースなどがうずたかく積み上げられていたからだ。
エリスは微笑みつつそれを指さし、「どのようにご覧になりますか。この準備の良さを」と言いながら一つの木綿を取り上げるのを見ると産着だった。「私の心の楽しさを想像してください。生まれる子はあなたに似て黒い瞳を持っているでしょうか。この瞳。ああ、夢に見たのはあなたの黒い瞳でした。生まれる日にはあなたの正しい心で、まさか別の名前を名乗らせたりはなさらないでしょう。」 彼女は頭を垂れた。「幼いとお笑いになるでしょうが、教会に洗礼に行く日はどんなにか嬉しいでしょう」 見上げた目には、涙があふれていた。
2、3日の間は(相沢も)大臣も、旅の疲れがあるだろうと思い、あえて訪問せず、自宅にばかり籠っていたが、ある日の夕方、使いの者が来て招かれた。行ってみると格別の待遇で、ロシヤ外交の苦労を慰めて下さった後、「私とともに日本に帰る気はないか。あなたの学問は私の測り知る所ではないが、語学力だけできっと活躍することはできるだろう。(ドイツ)滞在が非常に長いので、さまざまな人間的つながりがあるだろうかと相沢に尋ねたところ、『そのようなことはありません』と聞いて安心した」とおっしゃる。それは、拒否できそうもない様子だ。「ああ(どうしよう)」と思ったが、さすがに相沢の言葉は間違いだとも言いづらく、「もしこの手にすがらなかったら、日本を失い、名誉挽回もできず、自分はこの広々としたヨーロッパの大都市の人の海に葬られるのだろうか」と思う気持ちが、突然起こった。ああ、何という節操のない心だ。「承知しました」と答えてしまったのは。
◇評論
「一瞥して余は驚きぬ、机の上には白き木綿、白き「レエス」などを堆く積み上げたれば。」
エリスは現実を生きている。自分のお腹には赤ちゃんがいる。やがてこの世に生まれ出る準備をしておかなければならない。そうしてそれは、とてもうれしいことだ。貧しいながらも、愛する太田との間にできた子供だからだ。母としてごく当然な感情と行動。
これに対する太田の未熟さ、当然の予測がつかない愚鈍さ。これでは、エリスのことやそのお腹の中にいる子供のことなど、どうでもいいと思っているのだと批判されても仕方がないだろう。ふたりが顧慮の範囲にまったく入っていない。
また、ここは、「驚き」の場面ではない。普通であれば、エリスの準備の良さをほめる場面だ。しかし太田はそうしない。
「エリスは打笑みつゝこれを指さして、「何とか見玉ふ、この心がまへを。」といひつゝ一つの木綿ぎれを取上ぐるを見れば襁褓なりき。」
エリスの「心がまへ」は母となる者として当然のことだ。これと、父となるはずの太田との鋭い対比。
産着の準備がエリスはとても「楽し」い。産着を仕立てながら、彼女はこの世に生まれ出る子を想像する。「産れん子は君に似て黒き瞳子をや持ちたらん」と。この子は、父となるべき太田の「君が黒き瞳子」を受け継いでいるはずだ。ここで彼女は、「この瞳」と言いながら、太田の目をじっと見つめる。
しかし次にはやはり不安が心を掠め、「産れたらん日には君が正しき心にて、よもあだし名をばなのらせ玉はじ」と、「彼は頭を垂れ」る。
そうしてまた気を取り直し、「穉しと笑ひ玉はんが、寺に入らん日はいかに嬉しからまし」と「見上げたる目」には涙が満ちている。
エリスは「青く清ら」な瞳の持ち主だ。彼女は太田と出会った時に、太田の「黒き瞳子」によって見つめられた。それ以来、エリスにとって「黒き瞳子」が太田の象徴となっているのだろう。ふたりは互いに、見つめ、見つめられることによって心の交流ができていたはずだった。
エリスの太田への愛情表現は、いつも全力で、しかも真心がこもっている。そこには嘘が全くない。自分が愛し頼ることができるのは、あなただけだという思いを繰り返す。
そうであるならば、やはり太田は、それに応えなければならなかった。自分の気持ちを説明し、二人で話し合わなければならなかった。このディスコミュニケーションが悲劇の元となる。
エリスの真情あふれるまなざしによって自分の目がじっと見つめられた時、太田は何をどう考えていたのだろう。しかしそれは、この後に述べられない。次の話題は、また突然、天方伯に移る。ここでもエリスの愛は肩すかしにあう。
数日後、天方伯に呼ばれて対面する場面で、伯は太田に矢継ぎ早に話す。
・ロシヤ外交の慰労
・帰国の勧誘←太田の語学力を認めたから
・ドイツ滞在が非常に長いことによる人間的つながりの心配→相沢の否定の返事を聞き、安心
この場面を確認しておきたい。
場面がまとめて述べられてはいるのだろうが、それにしても、間に太田の返事や反応をはさませない形で、天方伯は一方的に話しているように受け取られる。ここで天方伯はわざとそうしている。自分の考えを矢継ぎ早に太田に伝えることによって、太田に考える余裕を与えない形にし、是が非でも自分たちの側に取り込もうとしているのだ。太田を懐柔する手管が巧妙だ。
詳しく見ていくと、
1.格別の待遇
2.ロシヤ外交の慰労
この2つにより、太田のこころをなごませる。そしてその後で突然、
3.帰国の勧誘
自分と一緒に帰国しようとは、今後も自分のもとで働いてくれないかという意味だ。太田は、突然の出来事に対応することができない男だ。そこを見抜いた上での突然の勧誘を天方伯はわざとしている。 太田を一旦安心させ、そこに 突然の心の動揺を与える。 しかもその提案は、太田が望んでいたことだった。 次に天方伯は、太田が有為な人材であることを高く評価していると続ける。
4.語学力だけで活躍できる
そうしてこれに続く内容が実は今回の面談の主目的だった。エリスとの別れを決断させることだ。
5.「太田には、ドイツに別れがたい人はいるか」と相沢に尋ねたところ、「そのような者はおりません」と聞いて安心した。
ここには天方伯の狡猾さがはっきりと現れている。まず天方伯は太田本人に、別れがたい人物はいるかと直接聞いていない。それはわざと聞いていないのだ。目の前にいる太田本人に聞くのではなく、その友人である相沢に聞くという設定にすることによって、太田の 反論を許さない形にしている。目の前にいる太田本人に確認すれば、すぐ正確に情報を得ることができるはずである。しかし天方伯はわざとそうしていない。
そうしてこれに続き天方伯は、「 君の友人から別れがたい人はいないのだという返事を聞いて安心した」と述べる。友人であれば嘘をつくはずがない。「君の友人から、こういうふうに聞いたよ」という形にわざとしているのだ。 太田は友人の発言を否定することができない人間であることを十分に認識した上での話し方だ。「流石に相沢の言を偽なりともいひ難」いのだ。天方伯は太田を自分たちの側に取り込もうとしている姿勢が明白だ。この画面での太田は蛇に睨まれたカエルと同じである。太田の性格と将来の望みは、天方伯と相沢に完全に見透かされている。以前に大田自身が告白していたが、この時の太田の命運を握る者は天方伯だった。
自分が頼む気持ちを持っている相手から自分の才能を認められ、さらに「安心した」とまで言われてしまった太田のできる返事は、ただ一つしかないだろう。大田は急な展開についていけない男なのだ。彼の本性は「弱き心」である。
天方伯は、最後のダメ押しを、態度で示す。
6.「其気色 辞むべくもあらず」 天方伯は、言葉ではなく、存在で圧をかける。
「あなやと思ひし」ならば、一旦 判断を保留にすることもできたはずだ。それなのに大田はとっさに、承知しましたと、相手の提案をうけがってしまう。この後に述べられるが、太田はやはり、立身出世を望み、天方伯側に移行する希望があったということを表している。
続く場面には、太田という人物の、弱さ、卑怯さ、自分勝手さがもっとも明瞭にあらわれる。
「若しこの手にしも縋らずば、本国をも失ひ、名誉を挽きかへさん道をも絶ち、身はこの広漠たる欧洲大都の人の海に葬られんかと思ふ念、心頭を衝いて起れり。嗚呼、何等の特操なき心ぞ、「承り侍り」と応へたるは。」
「本国」に家族は待っていない。エリスとともにドイツにおり、その語学力を生かして「名誉を引き返す」道は、本当に無いのか? またその語学力があれば、「広漠たる欧洲大都」の「海」も自在に泳ぐことは可能ではないか?
そう考えると、太田はやはり、貧しさ、寒さ、困難さから逃れたかったのだ。それよりも、今目の前にぶら下がっている糸にすがる手軽さを求めたのだ。ただそれにすがるためには、エリスと子どもを振り捨てなければならない。
(以前にも述べたが、この物語では、エリスとともに帰国する選択肢は想定されていない)
これらを「思ふ念」が、「心頭を衝いて起」った時、太田は「承り侍り」と応える。そうすることしかできない男なのだ。 完全に天方伯の術中にはまっている太田。太田は、「嗚呼、何等の特操なき心ぞ」と自戒するが、この感情が、この当時のものなのか、手記を認める船上でのものなのかがはっきりしない。当時のものであれば、この後でもまだ改めることはできた。船上での感想であれば、読者にとっては、何を今さらということになる。
結果として太田は、留学中の寂しさを紛らすため、また、一時の快楽のためにエリスを妊娠させ、自分の出世のためにその子も残したまま帰国したバカ男ということになる。
先走って言うと、発狂したエリスと子どもを前にした時、自らの罪と責任を認め、彼女たちとともにドイツでの生活を続けることも太田にはできたはずだ。彼は、わずかな生活費だけをエリスの母に渡し、いま、セイゴンの船上にいる。




