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森鷗外「舞姫」(本文・口語訳・評論)20~わが舌人(ぜつじん)たる任務(つとめ)は忽地(たちまち)に余を拉(らつ)し去りて、青雲の上に堕(おと)したり

◇本文

 魯国行につきては、何事をか叙すべき。わが舌人(ぜつじん)たる任務(つとめ)忽地(たちまち)に余を(らつ)し去りて、青雲の上に(おと)したり。余が大臣の一行に随ひて、ペエテルブルクに在りし間に余を囲繞(ゐねう)せしは、巴里絶頂の驕奢(けうしや)を、氷雪の(うち)に移したる王城の粧飾(さうしよく)(ことさら)黄蝋(わうらふ)(しよく)を幾つ共なく(とも)したるに、幾星の勲章、幾枝の「エポレツト」が映射する光、彫鏤(てうる)(たくみ)を尽したる「カミン」の火に寒さを忘れて使ふ宮女の扇の閃きなどにて、この間仏蘭西語を最も円滑に使ふものはわれなるがゆゑに、賓主の間に周旋して事を弁ずるものもまた多くは余なりき。

 この間余はエリスを忘れざりき、否、彼は日毎に(ふみ)を寄せしかばえ忘れざりき。余が立ちし日には、いつになく独りにて燈火に向はん事の心憂さに、知る人の(もと)にて夜に入るまでもの語りし、疲るゝを待ちて家に還り、直ちにいねつ。次の(あした)目醒めし時は、猶独り跡に残りしことを夢にはあらずやと思ひぬ。起き出でし時の心細さ、かゝる思ひをば、生計(たつき)に苦みて、けふの日の食なかりし折にもせざりき。これ彼が第一の書の(あらまし)なり。

(青空文庫より)


◇口語訳

 ロシア行きについては、何を記そうか。通訳としての私の任務は、あっという間に私を連れ去り、外交の場所へ落したのだった。私が大臣一行に随行し、ペエテルブルク(帝政ロシアの首都。現在のサンクトペテルブルク)に滞在した時私を取り囲んだのは、パリ最高の贅沢を、氷雪の中(=ペエテルブルク)に移した王城の装飾と、格別に黄色い蝋燭をたくさん点した光に反射する、数多(あまた)の勲章と肩章、(あたたかい)暖炉の火に寒さを忘れて使う、彫刻技巧を尽くした宮女の扇のひらめきなどで、この時にフランス語を最も流暢に使う者は私だったので、日本側とロシア側の仲を取り持ち、多くの事務処理を行ったのも私だった。

 ロシア外交の旅の間、私はエリスを忘れなかった。いや、彼女は毎日手紙を寄こしたので、忘れることができなかった。私が出発した日には、いつになく一人で灯火に向かうことが憂鬱で、知人の所で夜になるまで雑談をし、疲れるのを待って家に帰り、すぐに寝た。翌朝目覚めた時は、やはり一人で後に残ったことを夢ではないかと思った。ベッドから起き出した時の心細さは、このような思いを、生活費に苦しんで、その日食べるものもなかった時にもしたことはなかった。これが彼女から送られた一通目の手紙の概略である。


◇評論

 「魯国行につきては」以降のロシア宮廷の様子の説明が、とても詳しい。それは、外交の場面のきらびやかさが太田の目を射抜いたことと同時に、やはり太田はこちらの世界に戻りたいのだということを表している。現地での活躍を詳しく述べる様子は、自身の能力を自負していることを表す。太田は、単なる通訳として活躍しただけでなく、「賓主の間に周旋して事を弁ずるものもまた多くは余なりき」と、外交の場面での処理能力の高さも誇っている。つまり、ロシア外交が成功したのは、ひとえに自分がいたからだと言いたいのだ。自分は、日本のために必要かつ有為な人材であるということの証明として、この場面を述べている。だから、情景が詳しくわかるように説明しているのだった。

 当時、外交の場面に用いられる言語は、フランス語だった。ロシア側と日本側のコミュニケーションの成立のためには、それを自由に扱える者が絶対に必要だった。太田は、その適任者だった。


 それにしても、きらびやかな場面だ。「巴里絶頂の驕奢(けうしや)を、氷雪の(うち)に移したる王城の粧飾(さうしよく)」は、世界の流行の最先端を、集めた王城の様子。「(ことさら)黄蝋(わうらふ)(しよく)を幾つ共なく(とも)したるに、幾星の勲章、幾枝の「エポレツト」が映射する光」のまぶしさに、太田の目はしばたたいただろう。「彫鏤(てうる)(たくみ)を尽したる「カミン」の火に寒さを忘れて使ふ宮女の扇の閃き」に眩惑される太田。

 太田は思ったろう。やはり自分がいるべき場所は、ここなのだと。「青雲」の志を持っていたかつての自分。一度はそれを失ったかと思い、消沈していたが、もしかすると自分は復活することができるのではないか。再び、日本を背負う位置に戻り、その役割を果たすことができるのではないかと。太田の心を高揚させるのに十分な、ロシア宮廷の様子であり、そこでの活躍だった。


 高揚する太田の心を現実に戻す役割を果たしたのが、エリスからの手紙だった。もう既にこの時の太田には、この手紙は忌むべきものにすらなっていたのかもしれない。せっかく楽しい浮かれた気分になっているのに、あの薄暗く冷たい場所を明瞭に想起させる手紙。こんな手紙など送って来るなとさえ思ったかもしれない。太田にとってエリスから送られる手紙は、自分の自由を奪い、縛り付ける(かせ)だった。「この間余はエリスを忘れざりき、否、彼は日毎に(ふみ)を寄せしかばえ忘れざりき」からは、それがはっきりとうかがわれる。太田がエリスの存在を忘れなかったのは、毎日送られてくる手紙のためであって、忘れようと思っても忘れられなかったという方が正確だということだ。自分に忘れることを許さない、エリスの手紙。(現在であれば、ストーカーから送られてくる手紙に近いということになるかもしれない) この部分の表現も、もしエリスが知ったならば、ひどく悲しむだろう。なぜならば、愛する太田は、ロシア滞在中に、自分のことなど気にしていなかったということになるからだ。「え忘れざりき」はひどい表現だ。「忘れようにも忘れられなかった」という意味だからだ。エリスから太田への、真心、愛は、まったくの一方通行である。であるならば、太田は自分の気持ちと考えを、ちゃんとエリスに伝えなければならない。しかもできるだけ早く。たとえどれほど非難されようとも、エリスとコミュニケーションをとる必要が、この時の太田にはあった。太田には、既に責任が生じている。エリスのお腹には、ふたりの子供がいる。この責任から、太田は逃れることはできない。本来であれば、太田の思考の立脚地・出発点は、エリスとその子供と自分の未来をどう描くかということにあるはずであり、また、そうでなければならなかった。その責任を、太田は放棄する。そうして、それによって起こった悲劇を、相沢のせいにする。最低な男である。


 太田のもとに毎日送られてくる手紙。この事実を、相沢も天方伯も知らないということはとても不自然だ。特に天方伯は、後に太田に帰国を勧める場面で、「滞留のあまりに久しければ、さまざまの係累もやあらんと相沢に問ひしに、さることなしと聞きて落ちゐたり」と言う場面がある。これは完全に嘘だ。天方伯は知っている。太田にはエリスがいることを。


 エリスから送られた一通目の手紙は、愛する者同士であれば、保存しておくべきものだろう。相手の自分への真心に、感動すべき言葉がつづられた手紙であり、ロシア外交に旅立った太田を心から思うエリスの心情が、素直に飾ることなく吐露されているからだ。満足な勉強も許されなかった貧しい少女は、精一杯の言葉で、自分の気持ちを太田に伝えようとしている。

 これに対して手記を書く太田は、「え忘れざりき」と述べる。太田に、人のあたたかな心というものはあるのだろうか。

 太田が気になるから、「知る人の(もと)にて夜に入るまでもの語りし、疲るゝを待ちて家に還り、直ちにいねつ」という状態だったのだ。いつも隣に寝ている太田の姿がない現実にハッとし、「次の(あした)目醒めし時は、猶独り跡に残りしことを夢にはあらずやと思ひぬ」なのだ。「起き出でし時の心細さ、かゝる思ひをば、生計(たつき)に苦みて、けふの日の食なかりし折にもせざりき」からは、食べるものもないほどの貧困状況であっても、それにも勝る太田の存在ということが分かる。太田と一緒にいられれば、空腹も我慢できるのだ。エリスにとって太田は、自分の命なのだ。太田の不在は、エリスの死につながる。そうしてそれが、現実になってしまう。


 こんな男を、絶対に許してはいけない。評論の中には、これが明治という時代を生きた有能な人物の姿であり、エリスは捨てられても仕方がなかったとか、それは必然だったと、あたかも太田を肯定するような論評があるが、とんでもないことだ。人の真心をどう思っているのだ。子供を作った責任をどうして果たそうとしないのか。こういう人を人でなしという。太田は、血の通った人間ではない。

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