森鷗外「舞姫」(本文・口語訳・評論)13~掌上の舞をもなしえつべき少女
◇本文
公使に約せし日も近づき、我 命はせまりぬ。このまゝにて郷にかへらば、学成らずして汚名を負ひたる身の浮ぶ瀬あらじ。さればとて留まらんには、学資を得べき手だてなし。
此時余を助けしは今我同行の一人なる相沢謙吉なり。彼は東京に在りて、既に天方伯の秘書官たりしが、余が免官の官報に出でしを見て、某新聞紙の編輯長に説きて、余を社の通信員となし、伯林に留まりて政治学芸の事などを報道せしむることとなしつ。
社の報酬はいふに足らぬほどなれど、棲家をもうつし、午餐に往く食店をもかへたらんには、微かなる暮しは立つべし。兎角思案する程に、心の誠を顕して、助の綱をわれに投げ掛けしはエリスなりき。かれはいかに母を説き動かしけん、余は彼等親子の家に寄寓することゝなり、エリスと余とはいつよりとはなしに、有るか無きかの収入を合せて、憂きがなかにも楽しき月日を送りぬ。
朝のカツフエエ果つれば、彼は温習に往き、さらぬ日には家に留まりて、余はキヨオニヒ街の間口せまく奥行のみいと長き休息所に赴き、あらゆる新聞を読み、鉛筆取り出でゝ彼此と材料を集む。この截り開きたる引より光を取れる室にて、定りたる業なき若人、多くもあらぬ金を人に借して己れは遊び暮す老人、取引所の業の隙を偸みて足を休むる商人などと臂を並べ、冷なる石卓の上にて、忙はしげに筆を走らせ、小をんなが持て来る一盞の珈琲の冷むるをも顧みず、明きたる新聞の細長き板ぎれに挟みたるを、幾種となく掛け聯ねたるかたへの壁に、いく度となく往来する日本人を、知らぬ人は何とか見けん。又一時近くなるほどに、温習に往きたる日には返り路によぎりて、余と倶に店を立出づるこの常ならず軽き、掌上の舞をもなしえつべき少女を、怪み見送る人もありしなるべし。 (青空文庫より)
◇口語訳
(帰国するか、ドイツにとどまるかの判断を伝えると)公使に約束した期限も迫り、私の運命は窮迫した。もしこのまま日本に帰れば、学問も成就せず、汚名を負ったまま落ちぶれるしかないだろう。だからといってドイツにとどまるにしても、学資を得る方法がない。
この時私を助けてくれたのは、今同行している相沢謙吉だった。彼は東京にいて、既に天方伯の秘書官であったが、私の免官が官報に掲載されたのを見て、某新聞社の編集長を説得し、私をその新聞社の通信員としてベルリンにとどまらせ、政治や学芸のことなどを報道させるように図ってくれた。
新聞社の報酬はわずかだったが、住まいを移し、ランチを食べるレストランも変えれば、質素な生活は可能だろう。(私がこのように)あれこれ考えていた時に、真心を尽くして私を援助してくれたのはエリスだった。彼女はどのように母親を説き伏せたのだろう、私は彼女たち親子の家に身を寄せることになり、エリスと私は、いつともなくわずかな収入を合わせて、つらい中にも楽しい日々を送った。
朝食後、彼女はレッスンに行き、それがない日は家におり、私はキヨオニヒ街の間口が狭く奥行きだけがとても長い休憩所に行き、あらゆる新聞を読み、鉛筆を取り出してあれこれと情報を集める。この切り開いた引き窓から採光する部屋で、定職に就かない若者、わずかな金を人に貸して自分は遊び暮らす老人、取引所の仕事の暇を盗んでは休憩する商人などと同席し、冷たい石机の上で、せわしなく記録し、ウエイトレスが持ってくる一杯のコーヒーが冷めるのも気にせず、空いている新聞が細長い板に挟んであるのを、何種類も掛けてある一方の壁に、何度も行き来する日本人を、(事情を)知らない人はどう思って見ただろう。また1時近くなると、レッスンに行った日には帰り道に寄り、私と一緒に店から立ち去る、このとても軽く、手のひらの上でダンスすることもできそうな少女を、不審に思って見送る人もいただろう。
◇評論
前回も触れたが、太田の考え方はとても固定的で、思い込みが激しいように感じる。太田は、このまま帰国すると失敗者として汚名を着せられると考え、またドイツにとどまろうとしても学資が得られないとする。それ以外の選択肢が思い浮かばないし、探そうとしない男なのだ。このすぐ後に友人から通信員の職を斡旋されるが、そのような就職活動をなぜ自らしないのだろう。
そもそも彼がこの時求めるべきものは、「学資」ではなく生活費だろうし、エリスの存在が考えの外にある。太田はやはりエリスを大切には思っていない。これでは、ドイツにいる間だけの歓楽・享楽の相手としか見ていなかったのだと言われても仕方がない。
さらに言えば、もう既にエリスと深い関係になったのだから、今後について、エリスを中心に考えるべきではないか。自分の取った行動の責任を果たそうとしない太田。自分の人生についてだけ悩むのではなく、エリスとの人生を考えるべき場面だ。
帰国してもバカにされるみじめな自分の姿しか浮かばない。かといってドイツにいてもわびしい生活しかできないだろう。これまでエリート街道をひた走って来た大谷には、そのような未来は耐え難かった。だから、なんとか「身の浮かぶ瀬」がないものかと、諦めきれずにいる。
この時太田の窮状を救ったのは、大学時代からの友人である相沢謙吉だった。相沢は、太田のために精力的に動く。太田の免官が官報に出たのを見て、すぐに「某新聞紙の編輯長に説き」、太田を「社の通信員となし」、「ベルリンに留まりて政治学芸の事などを報道」させるようにした。停滞する太田に対して、活動する相沢という対比。しかも相沢の行動は、友人を思う好意から来ている。友を助けるための活動なのだ。だから太田は相沢に逆らえない。自分の本意を察し、自分に代わって動いてくれているからだ。そうしてこの関係は、物語の最後まで続くことになる。
先走って言うと、だからエリスを破滅させて帰国する太田は、この手記の末尾で、「ああ、相沢謙吉がごとき良友は世にまた得難かるべし。されど我が脳裏に一点の彼を憎む心今日まで残れりけり」とつぶやくことになるし、そうすることしかできない。
秘書官について。
秘書という職名が初めて公式に用いられたのは,1872(明治5)年10月13日の海軍省の職制であり,海軍省秘史局に秘書官,権秘書官,大秘書,小秘書,秘書副がおかれた。1886(明 治19)年には,内務省,外務省にも秘書官がおかれるようになったが,これらは大臣級の高官に属して機密を扱い,文書事務,日程管理などをその任務とし,今日的な秘書の職能にも通じるものが見て取れる。つまり,近代日本の秘書は,官僚組織の中から生まれたといえるであろう。
(安田女子大学紀要38,223-237 2010. 日本における秘書職能の史的考察 徳永彩子・大友達也)
新聞社の通信員としての報酬はわずかだったので、これまでと同じ生活レベルは保てない。太田が思案する中、一緒に暮らす手立てを調えてくれたのはエリスだった。彼女はまず母親を説得して同居の許可を得、ふたりの収入を合わせれば3人の生活は成り立つという算段もする。
太田とともに歩む人生を決断しているエリスは、太田との生活を具体的に進める。そのために、住みかと収入という、生活に重要な土台を確立するのだ。つまり、エリスは、太田との人生の制度設計をしっかりイメージしているのだ。貧しいながらも、3人で生きることはできる。太田とともに暮らすエリスの心には、喜びがある。これに対する太田の不甲斐なさは言うまでもない。
太田は、友人相沢のおかげで収入を得、エリスのおかげで住みかを得る。他者の働きにより、太田はドイツにとどまることが可能となったのだった。ここで太田は、自分では何もしていないに等しい。普通であれば、その恩を、ふたりに返さねばならぬ。
「憂きがなかにも楽しき月日を送りぬ」について。
帰国の船の上で過去を記述する太田は、この言葉をどのような気持ちでつづったのだろう。太田にとっての「憂し」は、エリートコースから外れ、新聞社の通信員という思ってもみなかった職に就いている当時の自分についての憂鬱だろう。エリスにとっては、経済的な苦労だけが課題だったろう。ふたりの「辛い」中身は違うのだ。
続く、「この切り開きたる」以降の文の長さが目立つ。当時の自分の仕事の内容を思い出しながら筆記する太田の姿が浮かぶ。それは、辛い環境で、大して興味もない作業を延々とさせられていたことを表している。
「この常ならず軽き、掌上の舞をもなしえつべき少女」について。
この時エリスは17,8歳だが、その身の軽さやダンスの素質が感じられる表現だ。また、太田は実際にエリスを抱きしめた時に、このことを実感しただろう。抱きしめた後に感じるエリスの体の線の細さ。それは、抱きしめる前の想像を裏切るものだったのだろう。
これまで貧困にあえいできた儚い少女。彼女は、父親が死に、劇場主からとんでもない要求をされ、途方に暮れていた。その体の細さは、彼女の人生をも表しているようだ。
庇護すべき人が目の前にいる。エリスとの関係を深めた太田には、彼女を守る義務と責任があった。
次回の部分に触れると、それなのに太田は、「我が学問は荒みぬ」と嘆くのだ。
何なのでしょう、この男。




