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森鷗外「舞姫」(本文・口語訳・評論)10~彼は優(すぐ)れて美なり

◇本文

 彼は(すぐ)れて美なり。()の如き色の顔は燈火に映じて微紅(うすくれなゐ)()したり。手足の(かぼ)そくたをやかなるは、貧家の(をみな)に似ず。老媼の(へや)を出でし跡にて、少女は少し(なま)りたる言葉にて云ふ。「許し玉へ。君をこゝまで導きし心なさを。君は善き人なるべし。我をばよも憎み玉はじ。明日に迫るは父の(はふり)、たのみに思ひしシヤウムベルヒ、君は彼を知らでやおはさん。彼は「ヰクトリア」座の座頭(ざがしら)なり。彼が抱へとなりしより、早や二年(ふたとせ)なれば、事なく我等を助けんと思ひしに、人の憂に()けこみて、身勝手なるいひ掛けせんとは。我を救ひ玉へ、君。金をば薄き給金を()きて還し参らせん。縦令(よしや)我身は食くらはずとも。それもならずば母の言葉に。」彼は涙ぐみて身をふるはせたり。その見上げたる(まみ)には、人に(いな)とはいはせぬ媚態あり。この目の働きは知りてするにや、又自らは知らぬにや。

 我が隠しには二三「マルク」の銀貨あれど、それにて足るべくもあらねば、余は時計をはづして机の上に置きぬ。「これにて一時の急を(しの)ぎ玉へ。質屋の使のモンビシユウ街三番地にて太田と尋ね()ん折には価を取らすべきに。」

 少女は驚き感ぜしさま見えて、余が辞別(わかれ)のために()だしたる手を唇にあてたるが、はら/\と落つる熱き涙を我手の(そびら)に濺(そゝ)ぎつ。 (青空文庫より)


◇口語訳

 彼女はとても美しい。乳のように白い色の顔は、ランプの明かりに映って薄紅色を帯びている。手足がか細くしなやかなさまは、貧しい家の少女に思えない。老女が部屋を出た後で、少女は少し訛った言葉で言う。「お許しください。あなたをこんなところまでお連れした思慮のなさを。あなたは良い人に違いない。私をまさかお憎みにならないでしょう。明日に迫っているのは父の葬式、頼りに思っていたシャウムベルヒ、あなたは彼をご存じないでしょうね。彼はビクトリア座の座長です。彼に雇われてから、もう二年経つので、簡単に私たちを助けてくれるだろうと思ったのに、人の不幸に付け込んで、身勝手な要求をするなんて。私をお救いください、あなた。お金は少ない給料からお返し申し上げます。たとえ私は何も食べなくても。それも不可能ならば母の言葉に(従うしかありません)」。彼女は涙ぐんで体を震わせた。その見上げた目には、人にダメだとは言わせぬ媚態がある。この目の働きは分かってするのだろうか、または自分では気づかないのだろうか。

 私のポケットには二サンマルクの銀貨があったが、(葬式費用が)それで足りるはずもないので、私は時計を外して机の上に置いた。「これでさしあたり急場をおしのぎなさい。質屋の使いが(私の下宿がある)モンビシュウ街三番地に『太田さん』と尋ねて来た時にはその代金を(使いに)渡そうと思うから」。

 (私の言葉を聞き) 少女は驚き感動した様子で、私が別れを告げるために出した手を唇に当て、はらはらと落ちる熱い涙を私の手の甲に注いだ。


◇評論

 「彼は(すぐ)れて美なり」以降は、エリスの可憐な美しさが述べられる。この場面で太田は、当時受けたエリスの美の感動を、セイゴンの船の上で確認しつつ筆記する。「()の如き色の顔」、しかもそれが、部屋の「燈火に映じて微紅(うすくれなゐ)()し」ている。「手足の(かぼ)そくたをやかなる」様子は、「貧家の(をみな)に似ず」。外はもう暗い。エリスの部屋に点されたランプの明かりが、彼女に陰影を与え、顔の色をより白く映し、そこに微かな赤みを帯びさせる。バレエで鍛えられた手足はか細いがしなやかだ。エリスは貧しい家の少女には見えなかった。生まれ育った環境から来る気品や矜持が感じられるのだろう。


 しかしその「言葉」には、「訛り」がある。「十分なる教育を受け」ていないからだ。母国語を話すドイツ人の言葉遣いに誤りがあると気付く太田の優れた語学力もうかがわれるシーンだ。

エリスは自分の窮状を、一生懸命に太田に説明する。だから太田はこの時のエリスの言葉と様子を詳しく覚えているのだ。


 「許し玉へ。君をこゝまで導きし心なさを。」

 まずエリスは、衝動的な自分の行為を謝罪する。そのような礼儀・たしなみがある人なのだ。


 「君は善き人なるべし。我をばよも憎み玉はじ。」

 初対面の太田に頼らざるを得ない自分の心を素直に表現した言葉。自分にはあなたが「善き人」に思われる。であるならば、自分の軽率さをきっと許してくれるだろう、という思い。ここでエリスは太田にすがるしかないのだ。


 次の部分からは、具体的な説明になる。

 「明日に迫るは父の(はふり)」。「たのみに思ひしシヤウムベルヒ」・「「ヰクトリア」座の座頭(ざがしら)」は、「二年(ふたとせ)」の雇用関係であったから、「事なく我等を助けんと思ひし」のに、「人の憂に()けこみて、身勝手なるいひ掛けせんとは」夢にも思わなかった。

 エリスはビクトリア座のお抱えのバレリーナであり、その雇い主であるシャウムベルヒは、もう2年の付き合いなのに、父親の葬儀という大切な儀式の代金も貸してくれなかった。それだけでなく、「貸してもいいが、その代わりに俺の女になれ」などという不埒な要求をされ、エリスは貞操の危機にあった。

 シャウムベルヒは、気に入っていたエリスを、前々から狙っていたのだ。父の葬式の費用として前借を申し出た時、彼は、これはチャンスだと思ったはずだ。葬式は必ず行わなければならず、絶対に金が必要だ。であるならば、他に頼るものがないエリスは、自分の要求を吞まずにはいられないだろう。だから葬式の費用を貸す代わりにエリス自身を要求したのだ。エリスを手に入れることができる。葬式の費用も、やがては返してもらう。

 人の道を外れた、最低な男だ。


 だからエリスは懇願する。

 「我を救ひ玉へ、君。金をば薄き給金を()きて還し参らせん。縦令(よしや)我身は食くらはずとも。それもならずば母の言葉に」と。

 以前にも触れたが、この時のエリスに、すがる相手はいない。初対面の黄色い顔の外国人だが、もしかしたら金を貸してもらえるかもしれない。そう半ば自分に信じ込ませて、一生懸命太田に頼み込む。

 後は太田が、この申し出にどう応えるかということになる。


 太田はエリスを観察する。船上の太田も、この時のことを思い出している。

 「彼は涙ぐみて身をふるはせたり。その見上げたる(まみ)には、人に(いな)とはいはせぬ媚態あり。この目の働きは知りてするにや、又自らは知らぬにや。」

 薄暗い部屋で、体を震わせながら涙ぐむ美少女。彼女は太田を「見上げ」、その「目」に太田は、「人に(いな)とはいはせぬ媚態」を感じる。

 この「媚態」や、「この目の働きは知りてするにや、又自らは知らぬにや」という表現には、船上の太田の感想が色濃く反映しているだろう。このすぐ後に、「ああ、なんらの悪因ぞ」という嘆きが続くからだ。エリスの「目」の働きによって、この時自分は、思わず彼女に情けを掛けてしまった。それが「悪因」となって、今、苦悩する自分がここにいる。そのように手記を綴る太田は考えている。


 「我が隠しには二三「マルク」の銀貨あれど、それにて足るべくもあらねば、余は時計をはづして机の上に置きぬ。「これにて一時の急を(しの)ぎ玉へ。質屋の使のモンビシユウ街三番地にて太田と尋ね()ん折には価を取らすべきに。」」

 太田は自分の時計をエリスに渡す。エリスはこれを質屋に持っていき、葬儀代を借りる。質屋の使いが自分を訪ねてきたら、その時に時計を買い戻す代金を支払うというのだ。

 当時のベルリンでの葬儀代はどれほどだったのだろう。2、3マルクでは不足で、太田の時計を質に入れた代金として受け取れる金額。太田の時計はどれほどの価値があるものだったのだろう。よほど高級な物でなければ、葬式代はまかなえなかっただろう。

 太田は19歳で大学を卒業し、3年間官吏として働き、洋行。この場面は、それから3年後だ。官吏として6年間働いた者の給料の額および、留学費の補助がどれほど支給されていたのかが知りたいところだ。


 「少女は驚き感ぜしさま見えて、余が辞別(わかれ)のために()だしたる手を唇にあてたるが、はら/\と落つる熱き涙を我手の(そびら)に濺(そゝ)ぎつ。」

 自分の身体を代価として求めずに、無担保で高額な金額を支援しようとする黄色い顔の東洋人。エリスはこの奇跡に感謝の涙を流す。 


 「少女は驚き感ぜしさま見えて、余が辞別(わかれ)のために()だしたる手を唇にあてたるが、はら/\と落つる熱き涙を我手の(そびら)に濺(そゝ)ぎつ。」

 日本人にはないエリスのこの行動により、太田はエリスの体温を感じる。しかもそれが、彼女の「唇」と「熱き涙」という非常にセンシティブなものに依っているため、エリスという存在がここで太田の中にしっかりと「濺(そゝ)ぎ」込まれただろう。

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