屋根上の散歩者
※江戸川乱歩先生の作品とは無関係です。
五階建てのビルの屋上。風が吹き、長い、輝くような金髪がなびく。屋上から落ちないようにするための転落防止柵を乗り越え、私は下を見る。裏通りに面した下の道路には誰もいない。巻き添えの心配は無い。
「さよなら。」
身体をゆっくりと宙へ投げ出す
「フイー、サヨナラ。愚かな警官共よフハハハハハハハ。」
消え入りそうな女の声と矢鱈テンションの高い男の声が重なり、身体が一瞬引き戻される。
「アナタも消えたいの?」
おっかなびっくり、いつの間にか後ろから来たアフリカ系の大男にそう尋ねる。
「アー、確かに、誰にも気づかれないように消えたいねー。全く騒がしいったら無い。」
「そうね、静かになりたいわ。もう逃げたい。」
「あー、やんなるよなー。オレも静かなトコまで逃げていきたい。」
「味方は何処にもいないし。」
「敵はあんなに居るのになー。」
驚愕的に、奇跡的に、会話がこれ以上なく、滞りなく、噛み合って進んでいる。が、実際に噛み合ってはいない。この会話は噛み合っていない。
「何処へ行ってもつらいことばかり」
「世間って酷いことするよねー。みーんな敵敵敵。」
この女性、名前はサリーと言う。彼女の職場は酷いものだった。給料は不法レベルで少なく、休みも無い。仕事に少しでも気に入らないと、女性だろうと拳で殴られる。虐めは苛烈そのもの。給料は安い。その上辞めることを決して許さない。
かと言って実家には継母しか居ない。元々、あの女から逃げて来たのだから、私にはもう逃げ場は無い。
そう、彼女は今、自殺をしようとしていた。
会社の屋上から飛び降りを図ろうとしていたら、屋根伝いに街を飛び回って逃走していたコリーと遭遇。今に至る。
どうやら彼女は会話の神によってコリーが自分と同類であると勘違いをしているようなのであった。
「もう、アタシには生きている居場所も価値も無いのよ。」
「居場所?価値?んー?」
ここに来てやっと会話のミラクルに気が付いた。会話の神は敗れた。
「生きる価値や居場所はあるもんじゃねぇ。作るもんさ。」
どっこい、会話の神は神合わせる。
「価値が無いなら作ればいい、まー、もし、無くたって別にオレらは商品じゃないんだし、それならそれでいいだろ。」
「それに、価値なんて他人の勝手な価値観だ。お前のモンじゃない。言いたい奴に言わせとけ。」
「もしそんな事言うヤツが嫌なら、逃げっちまえ。古今東西にて「逃げるが勝ち」「三十六計逃げるに如かず」「戦力的撤退」「逃げるが勝ち」「逃げ恥」って言われててな。逃げることはちゃんとアリって昔のエライ人が言ってんだ。」
その後も彼は続ける。
「それに、居場所なんて『此処に居させてください。』って言って其処に居る訳じゃねー
んだ。まぁ、家借りてんなら別だがよ。」
「じ、じゃぁ、私は何のために生きているんですか?何でこんな思いして生きているんですか?もう苦しいです。辞めたいです。消えたいんです!」
私は叫ぶ。見ず知らずの男の人に、髪を振り乱し、声を荒げ、涙を浮かべて、叫ぶ。
「決まってんだろ?お前の為だよ。」
男は目の前の私を 何を言っているのだろう? と言わんばかりの困惑した表情で見る。
「確かに、生きててキッツイこともあるぜ。机を燃やされたり、名簿から消されそうになったり、重要書類を渡されないで危うく不祥事で消されかかったり、最悪、同僚の間男役に仕立て上げられて刺されそうになったことも有ったり。あと…」
目の前の男はそれをまるで面白い噺かのように話す。
「でもよぅ、そんな悪いことあったけど、その後さ、スッゲー面白い、俺以上のクレージー暴威に遭ったんだぜ!ありゃ人生最大級モンの面白現象だ。」
ナハハハハッハハハッハハハハハハハハハ!男は顔に似合わぬ甲高い、それでいて間抜けな笑い声で笑う。
「アッホみてーにひでー事ばっかの後にもしかしたら意外と面白いことが有ったりすんのよ。」
ゲームだって一発逆転が最後にあったりスンだろ?
「で、でももし、もし良いことなんて無かったら、悪い事しか無かったら、どうするんですか?」
男は即答する。
「知ってるか?「この世に良いことが無い」って証明と「この世に良いことがある」って証明。確率の話をすると「良いことがある」方が可能性は高い。まぁ、一応言っとくと、良いことが何処であるか分からねーからヤバい時には逃げてみんのも得策だゾ。」
不在の証明、悪魔の証明。ってヤツだ。
「だからよ、勝負しようぜ。お前に良いことあったら俺の勝ち、無けりゃお前の勝ち。勝ったら俺がお前からなんか貰う。」
「私が買ったら…」
男は真っ白な歯をニィ、と輝かせながら笑っていった。
「何でも言うこと聞く。か、お前の人生を良いことだらけにしてやる。」
良いことだらけ…か。
「プッ」
思わず吹き出してしまった。笑ってしまった。彼は多分そんなつもりないのだろう。だが、今のはどう聞いたって…
「プロポーズみたい…クク、ククク…ハ、ハハ、アハハハハハ」
「ョオ!初めて笑ったじゃねーの。そっちの方が可愛いぜ。」
白い歯を見せながら笑う。
ビルの屋上に二つの笑い声が響き渡った。
「アハハハ、あー、ありがとう、あなたのお陰で悩んでたのがバカみたいになってきたわ。いいわ。受けましょう。その勝負!」
「そうかい、そりゃ良かった。」
「…そう言えばあなた、見ない顔ね?新人さん?」
余裕が出来たお陰で今まで気にならなかったことに気になれる余裕が生まれた。この陽気な男性は誰だろう?
「ぉ?あぁ、他の会社の者だよ。ちょっと休憩して…な。」
急に歯切れが悪くなった。おかしい。
「このビル、今は私の所の会社しか入ってないんだけど?」
「あれー?アハハハハハハハハハハハ…。」
ウーンウーンウーン
遠くからパトカーのサイレン音が聞こえて来た。そういえば…
「あなた、さっき言ってたわよね?『愚かな警官共よ。』って。」
「え?そうだっけっけ?」
「そうよ。!あなた、いったい何者よ?」
急に疑心暗鬼が加速する。
「…、それじゃ。」
男は素早く身を翻し、屋上の反対、階段のある小屋の方へ逃げていく。
「あっ!ちょっと!」
「まぁ見てな。お前の人生。数分後に色々起こっから! それではさらば!」
捨て台詞を吐いて小屋の裏に消えていく。
「待ちな…」
男はいつの間にか消えていた。
「…何だったの?」
彼女は狐につままれたような気分になった。が、しかし、彼女は直ぐに晴れやかな顔をして階段を下りて行った。
そう、彼女にはもう追求するつもりなどなかった。
そんなことをする必要が無かった。もう彼女の心は、屋上の男によって晴れていた。死ぬ意味も無かった。
さぁ、戻ろう。
しかし、彼女が階段を降りて見た光景は彼の言う通り、「色々起こった」ものだった。
彼女の会社に警察のガサ入れが来たのだ。どうやらさっきのサイレンはこの会社の責任者を連行したパトカーのものだったらしい。
なんでも、脱税や横領、挙句に公文書偽装…私の居たところは犯罪のオンパレードだったようだ。
社員は自動的に全員クビ、私は無職になるもようだ。
「あーあ、また私の人生は悪い事ばっかりしか起こらないのかなぁ。」
私の心はさっきの屋上の男の以前に戻ったような気分だった。私の勝ちになりそうね。
しかし、あの妖精はミラクルを起こした。
「ミシェルさん!バネッサ=ミシェルさんはいらっしゃいますか?」
建物内を行き来する中の一人の警官が私を呼んだ。
「はい。私がミシェルです。」
警官は私を見つけると、安堵したように何かの封筒を渡してきた。
「良かった。彼方宛てにとある方から預かりものが有ったんです。私もついさっき渡されたばかりで、見つかって良かったです。」
警察の方から私に…?見当もつかない。
しかし、封筒の渡し主は私のよく知る、否、知ったばかりの相手だった。
ビリビリと封筒を破き、中を見ると、2枚の紙が有り、1枚目の紙にはこうあった。
『人生何が有るか分からない。失職したり、再就職先が直ぐ見つかったり。 By屋上の男』
驚きを隠せなかった。
更にもう一枚。
『ノーラスケール商会』
カフェの求人がそこには有った。
彼女は今は知らない。
運命の女神はここに、奇妙な運命を神合わせたことを。
知らなかった。
屋根の上を闊歩するのは一度やってみたいな。なんて思っていますが怖がりなので一生無理だな。