若虎の産声
今日はいつもよりもちょい長め。切りどころがわからなかったのです。
以前、太傅・馬日磾と趙岐が朝廷の使命を奉じて寿春に行った。
趙岐は志を守って屈することがなかったため、袁術も憚ったが、馬日磾は袁術に求めることが多かったため、袁術に軽視された。
しかも袁術は節(皇帝の符節)を見るために馬日磾から借りると、そのまま奪って返そうとせず、しかも軍中の十余人の名を挙げて、太傅(馬日磾)の官府に招聘するように要求した。
流石に激怒した馬日磾が袁術のもとから去ることを求めたが、袁術は留めたまま帰らせず、しかも軍師になるように強要しようとした。
馬日磾は節を失ったことを憂い、寿春で血を吐いて死んだ。
建安年間に入った頃、朝廷にて彼に礼を加え葬送する議論が起きたが、孔融は馬日磾が上公の位にありながら、袁術如きに媚びて従ったとして反対し、実現させなかった。
哀れな人である。
そんな馬日磾は寿春で礼を用いて上表してある男を懐義校尉に任命した。その男というのは孫策という男である。
孫堅の妻は銭唐の呉氏と呼ばれた家の女性である。後世では主に呉夫人と呼ばれている。彼女の家の先祖は春秋時代の呉の季礼であるとされているがどこまで本当かは不明である。
その呉夫人は早くに父母を失い弟の呉景と共に暮らしていた。そんな中、孫堅は彼女が才色兼備であると伝え聞くと、妻として迎えたいと申し出た。しかし呉氏の親族の者たちは、孫堅が軽薄で抜け目のない者であるとして嫌い、結婚することに反対した。
これを聞いた孫堅は、ひどく侮辱されたと思って恨みを抱いたという。それを知った呉夫人は、
「どうして女一人のためにわざわざ災いを招くような真似をするのでしょうか。もし仮に私が嫁ぎ先で不幸な目に遭ったとしても、それは運命です」
と言い、親族は孫堅からの申し出を受け入れ、婚姻を許した。
そんな経緯で婚姻した孫堅と呉夫人の間で孫策、孫権、孫翊、孫匡と四人の息子と一人の娘が産まれた。
孫堅が黄巾の乱以降、将軍として戦っている間、家族は寿春にいた。
長子の孫策は字を伯符といい、十余歳で知名の士と交わりを結んで、その名声は広く知られていた。
舒に周瑜という者がおり、孫策と同年で、孫策と同じく英達早成であった。しかも二人共美男子である。
孫堅が義兵を興したばかりの頃、周瑜は孫策の名声を聞いて舒から訪ねに来た。
意気投合した両者は誠心によって友誼を結んだ。この二人の友情の深さを後世では断金の交わりと呼ばれることもある。
周瑜は孫策に住居を舒に移すように勧めた。大黒柱である孫堅がいない状況で家族を養うのは大変だろうという思いからの言葉であった。孫策はこれに従い、母を連れて家を移した。
周瑜は道の南の大宅を孫策に譲り、堂に昇って孫策の母を拝した。これは孫策との友情は一生消えずに長く付き合っていくという意思表示でもある。また、足りない物があったら互いに助け合った。
孫策は多くの士大夫と付き合ったため、江・淮一帯の人は皆、孫策に近づいた。
その後、孫堅が戦死した。この時、孫策は十七歳であった。
孫策は曲阿に還って孫堅を埋葬してから、長江を北に渡って江都に住み、豪俊を受け入れて交わりを結び、いつかのために備え時が経った。
丹陽太守・周昕と袁術と敵対していた。
そこで袁術は上表して呉景に丹陽太守を兼任させ、周昕を攻めて丹陽郡を奪わせた。併せて孫策の従兄・孫賁を丹陽都尉に任命した。
孫策はこれを知ると父の兵を取り戻し、志を果たしたいと思った。しかしながら母や弟を守らなければならない立場であったため、家族をどうするかに悩んだ。
(そうだあの人に預けよう)
孫策は広陵の人・張紘のことを思い浮かんだ。彼は若い頃、教典の研究をしその名を知られ、三公に招かれたこともある人であったが、それを断った人として知られていた。
そこで孫策は張紘を訪ねた。しかしながらこの時、張紘は母の喪に服していた。
そのため会うことが難しかったがしつこく孫策は張紘を訪ねた。根負けした張紘が会うと孫策は世務(治政の要務)について問うた。
「今は漢の国運が衰退して天下が混乱しており、英雄俊傑がそれぞれ衆を擁して利益を求め、危機を救って乱を治められる者がいません。父は袁氏と共に董卓を破りましたが、功業が完成する前に、突然、黄祖に害されました。私は暗稚(暗愚幼稚)ですが、秘かに微志を抱いており、袁術から先君の余兵を求め、丹陽で舅氏(呉景)に就き、流散した者を招集し、東は呉・会(呉郡と会稽郡)に拠り、讎に報いて恥じを雪ぎ、朝廷の外藩になることを欲しています。あなたはどう思いますか?」
張紘はこう答えた。
「元から才学がなく、ちょうど喪中に居るので、大計を奉賛(支持)することはできません」
だから去れというものであったが、孫策はここで諦めなかった。
「あなたの高名は遠くに行き渡っており、遠近が心服しています。今日の計略はあなたにかかっています。どうして心中の考えを啓示して高尚な望みに沿おうとしないのでしょうか。もし微志を展開でき、血讎に報いることができるならば、これはあなたの功労によるものであり、私の心が望むところです」
孫策は泣いて涙をあふれさせたが、顔色を変えなかった。
張紘は孫策の忠壮が内心から発せられており、言辞が慷慨(正気が溢れて激昂していること)としているのを見て、その志と言葉に感動した。
「昔、周道が衰退した際、斉・晋が並んで興り、王室が既に安寧になれば、諸侯が貢献しました。今、あなたは先侯の道を継承し、勇猛の名があります。もし丹陽に投じて呉・会で兵を収めれば、荊・揚を一つにでき、讎敵に報いることもできましょう。長江に拠って威徳を奮い、姦悪の徒を誅除し、漢室を匡輔すれば、功業が桓・文(斉の桓公・晋の文公)と等しくなることでしょう。どうしてただの外藩に留まることでしょうか。今は世が乱れて難が多いため、もしも功を成して事を立てるならば、同好(志が同じ者)と共に南に渡るべきです」
孫策は言った。
「会ったばかりにも関わらず、あなたと同符合契(意見が一致して投合すること)でき、共に永固の情義があるため、今、出発することができます。老母・弱弟をあなたに委ねれば、私には回顧の憂がなくなります」
こうして家族を彼に預けると孫策は直接、寿春を訪ねて袁術に会った。
寿春に入った孫策は涙を流して袁術に言った。
「亡父は昔、長沙から入って董卓を討ち、あなた様と南陽で会して、同盟して好を結びましたが、不幸にも難に遭い、功業を完成させることはできませんでした。私は先人の旧恩を感じ、自らあなた様を頼って結ぶことを欲します。あなた様がこの誠意を垂察することを願います」
彼の言葉に出てくる「垂察」とは下の者を観察して理解することである。正直、袁術には縁遠い言葉であるが、術は孫策が常人ではないと思ってとても重視したものの、彼の父の兵を還そうとはしなかったところを見ると今回ばかりはよく見ていた方である。孫策は少なくとも袁術に感謝の気持ちも恩義も感じてはいない。父の兵を取り戻して袁術から離れたいと思っている。
袁術は彼にこう言った。
「私は貴舅(呉景のこと)を用いて丹陽太守にし、従兄の伯陽(孫賁の字)を用いて丹陽都尉にしたばかりだ。あそこは精兵の地である。汝は還って彼らに頼れば、兵を召募することができる」
孫策は舌打ちしたい気持ちであったが、少なくとも自分の兵を持っても良いという許可を得ることができた。ちょっとしたことでくよくよしないのが孫策の良いところである。
当時、徐州牧・陶謙は深く孫策を嫌っていた。二人の間にどういう怨恨があったのかは不明である。陶謙という人は自尊心の強い男だけに以前、孫堅の武勇を見て嫉妬したのかもしれない。相変わらず器は小さい男である。そんな男が劉備にはあれほど寛容であったのから不思議なものである。
孫策の母や弟は広陵郡江都に居り、広陵は徐州に属している。流石に恨みを持たれている相手のところの地に家族を置き続けるわけにはいかない。そこで孫策は友人である呂範および族人の孫河と共に母を迎え、車に乗せて曲阿に移った。
呂範は若い頃に県の役人となったことのある人物で、その要望は美男子と呼べる者であったことも評価された理由である。いつの時代も顔の良さは武器である。
そんな彼が郷里の豪族である劉氏の娘を妻に娶った時、妻の父である劉氏は、呂範の相を見ると彼を只者でない人物と見抜き、呂範が貧乏であったことを気にした母を説得したという。陳平も貧乏で苦労したが、知恵と美貌で結婚を勝ち取ったと同じような話しである。
彼は戦乱を避けて寿春に避難したところそこで孫策と出会った。呂範は見かけと比べると勝気な人で豪快な人である。そんな彼が孫策を見ると、
(これほど美しい男がいるか)
と思った。自分よりも美男子と呼べる男を初めて見たのである。更に話してみれば、孫策の話ぶりは豪快でありながらも決して品性が無いというわけでもなく、清々しささえ感じるではないか。
(この男こそが英雄なのだろう)
そう思った彼はその場に連れてきた食客百人と共に彼へ臣従を申し出た。
孫河は孫家の族人であったが兪家の養子となっていた。そのため彼は兪河と書かれることもある。彼は孫堅の挙兵時から実は参加している人物で、常に孫堅と共に先鋒を務めた。しかしながら孫堅が戦死した戦で重症を負い、しばらく療養していたが、孫策が軍を持つと知ると孫策の元にやってきた。
二人は孫策に深く信頼される臣下となる。
孫策は丹陽太守を勤める呉景を頼り、この機に召募して数百人を得た。
しかし涇県の山賊・祖郎に襲われて孫策は危うく命を落としそうになった。
「戦とはこういうものか」
初陣は苦いものであったが、孫策は兵とは最初から戦える兵では無いということを学んだ。そして、同時に自分は戦の経験が無さ過ぎるとも思った。しかしながらだからといって時間をかけて兵を鍛えようとは思わなかった。
(自分が経験が少ないならば、経験の多い兵を持ち、自分の糧としたい)
だからこそ父・孫堅の兵がますます取り戻したくなった。
祖郎に敗れた孫策は再び袁術に会いに行った。この時、どのような説得を孫策がしたのかは不明であるが、この時の孫策の弁術が優れていたというよりは袁術は孫策をこの時、侮っていたのだろう。
(山賊如きに破れるとはな)
袁術は最初のような警戒心を持たずに孫堅の余兵(残兵。旧兵)千余人を孫策に返した。やはり彼は配下を評価する目というものは持っていなかったようである。
しかしながらこの時の袁術の配下たちである大将・喬蕤や張勳は孫策をほめたたえた。
袁術は彼らの言葉を聞くといつも嘆息して、
「私に孫策のような子をいさせたら、死んでも悔いはないのだがな」
と言ったという。孫策への扱いとは実に乖離した言葉である。
ある時、孫策の騎士が罪を犯して逃走し、袁術の営に入って内厩(営内の厩舎)に隠れたことがあった。
孫策は部下に指示して現地で斬らせ、その後、袁術を訪ねて営内で勝手に人を殺したことを謝罪した。
袁術は言った。
「兵士は叛逆を好むものであり、我々は共にこれを憎むべきだ。なぜ謝る必要があるのか」
この後、軍中は孫策をますます畏れ憚ったという。
さて、この時、袁術は『兵士は反逆を好むもの』であると述べている。この言葉の一端から彼が人を特に自分の配下を信頼していないことがわかる。
袁術は以前、孫策が九江太守になることに同意したことがあったが、後に考えを改めて丹陽の人・陳紀を用いた。
また、袁術が徐州を攻めようとした時、廬江太守・陸康に米三万斛を求めた。しかし陸康が与えなかったため、袁術が激怒した。
昔、孫策は陸康を訪ねたことがあったが、陸康は孫策に会わず、主簿に対応させた。孫策はこの事を常に心中で怨んでいた。
そこで袁術は孫策を派遣して陸康を攻撃させることにした。
袁術が孫策に言った。
「以前、誤って陳紀を用いたが、いつも本意を遂げなかったことを悔いている。今、もしも陸康を得ることができれば、廬江は真に汝が有すことになる」
孫策は勇んで陸康を攻めた。そして、見事に攻略してみせた。父・孫堅の残してくれた兵たちは経験という面で明らかに普通の兵とは強かった。
(兵の強弱とはこれほどに戦へ影響を与えるものなのだ)
孫策は父の兵を取り戻せたことに改めて幸運であったと思った。一方、兵たちはかつての主であった孫策の清々しさが孫堅と似ていることに驚くと共に泣いた。もう一度、あの素晴らしい人の元で戦えるのだと思ったのである。
孫策は攻略できたことを報告した。これで自分の拠点を持つことができるのだと思った。ところが袁術はまた自分の故吏(旧部下)・劉勳を用いて太守にした。
「人に甘い言葉で夢を見せてから失望させることにおいて袁術という人は天才である」
彼は袁術という男を少しでも信用したことを後悔した。そして、袁術という人の本性に気づいた。
天下の人々は袁術を勤王の人であるとしているが、全くといってそうではないのである。
(あの人には期待するだけ無駄である)
孫策は袁術にあまり関わらないようにした。
侍御史・劉繇は劉岱の弟で、以前から盛名があったため、献帝は詔書を発して揚州刺史に任命した。
揚州の治所は寿春であったが、袁術が既に寿春を占拠していたため、劉繇は南に向かって長江を渡ろうとした。
そこで呉景と孫賁が劉繇を迎え入れて曲阿に治所を置いた。
孫策が廬江を攻撃すると、その情報を聞いた劉繇は、呉景と孫賁が元々袁術によって曲阿に置かれていたため、袁術と孫策が自分を兼併するのではないかと懼れた。その結果、対立が生まれて呉景と孫賁を駆逐してした。
呉景と孫賁は退いて歴陽に駐屯した。
劉繇は将・樊能と于麋(「于糜」)を派遣して横江津に駐屯させ、張英を当利口に駐屯させて袁術の勢力を拒んだ。
袁術は自ら故吏(旧部下)・恵衢を用いて揚州刺史に任命し、呉景を督軍中郎将に改め、孫賁と共に兵を率いて張英らを撃たせた。
しかしながら袁術軍は劉繇軍を破ることなく、時が流れることになる。
後に江東の小覇王と呼ばれることになる孫策の出番はもう少し待たなければならない。




