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三国志  作者: 大田牛二
第三章 弱肉強食

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徐州

前話の典韋の逸話は漢文だと全然状況がわからないのがネック。

 馬騰ばとう李傕りかくを攻撃した時、劉焉りゅうえんの二人の子・劉範りゅうはん劉誕りゅうたんは死んだ。


 そんな中、議郎・龐羲ほうぎはかねてから劉焉と関係が善かったため、劉焉の諸孫を求め集め、彼らを率いて蜀にやってきた。


 ちょうどこの頃、天火(自然に起きた火災)が緜竹城を焼いたため、劉焉は治所を成都に遷した。


 このことと息子たちが一気に死んだことで心を病んだ劉焉は背に疽(腫瘍)ができて死んでしまった。


 州の大吏・趙韙ちょういらは、劉焉の子・劉璋りゅうしょうが大人しい性格だったため、それを利用しようと考え、共に劉璋を益州刺史にするように上書した。


 しかし朝廷、いや正確に言えば、李傕がそれを許さず、詔を発して潁川の人・扈瑁こぼうを刺史に任命した。扈瑁が漢中に入った。


 この時、荊州別駕・劉闔りゅうへいが劉璋を攻めた。それに応じるように劉璋の将・沈彌しんび婁発ろうはつ甘寧かんねいが謀反を起こした。しかしながら劉璋は勝てなかったため、逃走して荊州に入った。


 朝廷は劉璋の統治を覆せないと判断し詔を発して劉璋を益州牧に任命した。


 劉璋は趙韙を征東中郎将に任命し、衆を率いて劉表りゅうひょうを撃たせた。











 曹操そうそうが撤退し、目の前に迫っていた危機から脱したことで緊張が解けたためか、安堵したためか徐州牧・陶謙とうけんは病を患い、そのまま危篤に陥った。


「彼を……」


 陶謙はある人物を呼んだ。彼が信頼している人物の一人である別駕・麋竺びじくである。彼は先祖代々裕福な家であり、蓄財を重ねた結果、小作一万人を抱え、莫大な資産を有している人物である。


 そんな彼には不思議な話しがある。


 麋竺がかつて洛からの帰途、家の手前数十里の所で、路傍に一人の婦人を見かけた。彼女は麋竺に車に載せてくれと頼んだため乗せてあげた。数里ほど行くと、婦人は礼をいって立ち去ろうとした。その時、麋竺に向かってこう言った。


「私は天の使いです。いま東海の麋竺の家を焼きに行くところでしたが、あなたが車に載せてくれたのに感謝して、お話します」


 麋竺は驚いた。自分の家が焼かれるというのだから驚かないのも無理は無い。彼は燃やさないで欲しいと彼女に頼んだ。しかし婦人は、


「焼かないわけにはいきません」


 決められたことであるとして断った。しかし、彼女はこう言った。


「今からあなたは馬を走らせて行ってください。私はゆっくり参ります。真昼に火事が起きましょう」


 麋竺はそこで急いで家に帰り、あわてて財宝を持ち出すと、真昼に火事が発生した。しかしながら彼の財産は全て無事であった。しかしながらその婦人の姿はどこにもなかった。


 また、彼は裕福であるが多くの人々を奴隷として養った。奴隷を養うと聞くと人道的では無い扱いをしていると見えるだろうが、実際のところは仕事の無い人に仕事を与えているという認識の方がこの時代としては合っている。もちろん酷い扱いをする者が多くいた。そんな中、麋竺は彼らに対して優しく扱ったためしたわれた。故に彼の奴隷の子孫は彼のことを神として祭り、嫁を得る際にその嫁を神前の前に見せなければ祟られるとまで言ってそれをいつまでも守ったという。


 そんな麋竺に陶謙は言った。


「劉備でなければこの州を安んじることはできない」


 その言葉が彼の遺言となった。陶謙は世を去った。


 陶謙の評価は『三国志』を書いた陳寿ちんじゅとその『三国志』の編集時の資料になったとされている『呉書』を書いた韋昭いしょうでは真逆の評価が与えられている。


 陳寿は感情に任せて行動し、多くの者に迷惑をかけた凡人以下の男と評価しているに対して、韋昭は多くの美徳を有した有能な政治家という評価を与えている。そこまで時代が離れていないにも関わらず、よくもまあここまで食い違う評価が起きるものである。しかも陳寿の方は呉の歴史の編集の際に『呉書』を参考にしているにも関わらず、彼の評価とは全く違う書き方をしている。


 陳寿は『史記』を書いた司馬遷とは違い、歴史書に自分の意思を反映させない文章を書く人で、文章力では司馬遷に比べると数段、劣るが淡々としつつ細かな配慮を行った文章を書いて評価された人である。そのため彼の性格を『三国志』から読み取るのは難しいが、この辺りから読み取ることは可能ではないかと思われる。

 

 陶謙の死後、麋竺は州人を率いて劉備を迎えに行き、陶謙の遺言を伝えた。


 劉備は困惑した。


「陶謙殿には御子息が二人おられるはずです。彼らが引き継ぐべきではないでしょうか?」


 と、劉備は陶謙の息子である陶商とうしょう陶応とうおうのことを持ち出して、州牧の任に就くことを断った。


 これに典農校尉・陳登ちんとうが前に出てきた。彼の父である陳珪ちんけいと共にここ徐州の名家の人物である。老人を労わり、孤児を養育するなど、民衆のためになる統治を行なうことでその名が知られた。その後、飢饉が勃発すると、陶謙に推挙されて典農校尉となり、どのような作物がその土地に育つのかよく調べ、堀を造り灌漑を整備していったことで稲が豊かにするなど有能な政治家である。


 その彼が劉備に言った。


「今は漢室が陵遅(衰退)して海内が傾覆(転覆。動乱)しています。功を立てて事を起こすのは今日しかございまえん。我が州は富裕で、戸口が百万もいます。あなたが身を屈して州事を治めることを欲します」


 劉備は続いてこう言った。


「袁公路(公路は袁術えんじゅつの字)は近く寿春にいます。この方は四世にわたって五人の三公を出し、海内が帰しているため、州を預けては如何でしょうか?」


 陳登は愚かなことを言わないでもらいたいとばかりに言った。


「袁公路は驕慢横柄で、治乱の主(乱を治める主)ではありません。今、あなたのために歩騎十万を合わせようと思います(集結させようと思います)。そうすれば上は主を正して民を救い、五霸の業を成すことができましょう。一方に割拠して境を守り、竹帛に功を書くことができます。もしもあなたが同意しないのなら、私もあなたの意見を聴くことはできません」


 陳登は民衆に寄り添う政治を行う人である。民衆の安全を守ることが第一であると考えており、そのためにも陶謙の息子たちでは実力的に徐州の民を守ることには不足であると考えている。袁術に関しては彼の政治のあり方が滅茶苦茶であり、民を守る人物ではない。彼からすれば論外というべき人物である。


 そんな彼の言葉に対しても劉備は徐州牧になることを渋った。


「なぜ、なろうとしないのか」


 陶謙からも認められていることから引き継ぐのはなんらの問題も無いにも関わらず、断る理由が陳登にはわからなかった。


「それが良いところに見えました」


 一方、麋竺はそこが劉備の良いところだと思った。このようなことに簡単に頷く方が信用がならないというのが麋竺の感覚であった。


「それで機を逃すことでは意味がない」


 陳登にとって優先事項は民の安寧を守ることである。そのために早く徐州の主を定めたかった。そのため彼は北海相・孔融こうゆうにこの件を伝えた。すると孔融は劉備に書簡を送った。


「袁公路がどうして国を憂いて家を忘れられる者なのでしょうか。墓中の枯れた骨(四世五公の名声に頼っているだけの者)が、どうして意に介すに足りましょうか。今日の事は百姓が賢能の者に与えたのです。天が与えたことを取らなければ、後悔しても及びません」


 孔融と劉備は実は徐州に来る前に関わったことがある。


 孔融が治める北海に黄巾賊が殺到したことがあった。孔融という人は儒教の大家である孔子の子孫であり、生粋の儒者である。そのためあまり戦で腕を振るう人ではなく、包囲されている状況で自ら指揮を振るわず、それどころか矢が降り注ぐ中で教典の内容について議論する人である。


 そんな人である彼のために太史慈たいしじが包囲から脱出して当時、平原にいた劉備に援軍を求めた。劉備はそれを受けて孔融を救ったことがあるのである。その恩義のために彼は劉備を徐州牧に推薦したのである。


 それでも劉備はすぐに答えを出さなかった。


「どうしてそれほどに躊躇するのです?」


 関羽かんうは劉備に問いかけた。皆がくれるというものをもらわない劉備に疑問を覚えたためである。


「簡単に手に入れたものは簡単に失いやすいものだ」


 劉備はそう呟いた。


「それに私は民を助けるためにここにやってきたわけではない。そのことは陶謙殿を助けることを決めた時にあなたに言っただろう」


「ええ、それでも多くの方々があなたに徐州牧になってほしいと願っています。その言葉に答えられ、志を掴むべきではありませんか?」


 劉備は溜息をついた。


「嫌だなあ」


(なぜ、この人はこれほどに躊躇するのか)


 なんの犠牲も払わずに徐州を手に入るというのに、劉備はここまで躊躇している。それはなぜなのだろうか。


(この人は力で手に入れたものでなければ自分のものではないとでも考えるのか?)


 そういう一種の傲慢さは劉備には感じられない。


(ならば、なぜ?)


 この人は上に行くことを望まないのだろうか?


『私はね。この木のようになりたいのです』


 桑の木の下でそう言った彼の姿を思い出した。それを思い出しながら関羽は劉備にこう言った。


「今、あなたという大樹の元に逃げてきた方々がいます。そんな方々をあなたは無下になさるのですか?」


 関羽の言葉に劉備はにっこりと笑った。


「そうか……そうだね。君の言うとおりだ」


 劉備は笑う。


「よし徐州牧になろうかな」


 ついに劉備は徐州牧になることを決断した。その姿を見ながら関羽は思った。


(少しだけこの人のことを知れたような気がする)


「やっと決めて下さったか」


 決断が遅いと思いながら陳登は袁紹えんしょうに使者を送ることを進言した。


「では、孫乾そんけんにその使者を任せる」


 孫乾は鄭玄じょうげんの弟子であった男で、鄭玄の推薦で劉備に仕えた。推薦で仕えたと言うとよく聞こえるが、鄭玄から弟子として学問を極めることができないと判断されての推薦と見ることはできる。


 そのため孫乾は暗い雰囲気を与える人であった。そんな彼を劉備は使者として出すことにした。使者として鄭玄の弟子という名声が良いということと、陳登らは内政面で出すわけにはいかないということと言った理由がある。


 孫乾は袁紹の元に向かいこう言った。


「天が災難を降し、禍が鄙州に至り、州将(陶謙)は殂殞(死亡)して、生民に主がいなくなりました。姦雄が一旦にして隙に乗じ、盟主(袁紹)に日昃(終日)の憂を及ぼすことを恐懼したため、共に元平原相・劉備府君を奉じて宗主とし、百姓に主が誰であるかを周知させました。今は寇難が縦横しており、甲冑を解く暇もありません。よって謹んで下吏を奔らせ、執事(執政者。袁紹)に報告します」


 袁紹はこう答えた。


「劉玄徳は高雅で信義がある。今、徐州が喜んで推戴したのは、誠に私の望みにそうものである」


 こうは言うがどこまで劉備を評価した言葉なのかは不明と言わざるおえない。


 しかしながらこのような外交によって徐州を保つことに劉備は成功した。


「取り敢えずは危険は今のところはないけど、気をつけなければならないのは袁術だな」


 袁紹と好を通じるということは袁術と敵対を示すことになる。袁紹から援軍を期待することができない以上、独力で徐州を守らなければならない。


「まあ、頑張るとしますかね」


 劉備はそう言った。


 


 

麋竺の逸話の婦人は最初、クトゥグアかミ=ゴ辺りにしようとしてやめました。突然のSANチェックはやめないとね。そのため麋竺の性格はまともに(最初は劉備の狂信者として出そうと思っていた)

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