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三国志  作者: 大田牛二
第三章 弱肉強食

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三城

 陳宮ちんきゅうの策により、兗州の郡県が全て呂布りょふに応じたが、荀彧じゅんいく程昱ていいく夏侯惇かこうとんが鄄城を守り、范と東阿も動じず堅守していた。この三城以外は呂布になびいたということである。陳宮の策略の凄まじさがこれである。


 そんな中、呂布軍から降った者がこう言った。


「陳宮は自ら兵を率いて東阿を取ろうとしており、また氾嶷はんぎょくに范を取らせようとしています」


 これを聞き、東阿の人である程昱に荀彧はこう言った。


「今、州を挙げて皆が叛し、この三城だけが残った。陳宮らは重兵で臨んでおり、我々が心を深く結ばなければ、三城が必ず動じることになるだろう。あなたは民の望であるため、宣撫に行くべきだ」


「あいわかった」


 程昱は帰郷する途中で范を訪ね、県令・靳允きんいんを説得してこう言った。


「呂布があなたの母、弟、妻子を捕えたと聞いています。孝子ならば、誠に我慢できないことでしょう。しかしながら今は天下が大いに乱れ、英雄が並び起ちましたが、必ず命世の才(当世において卓越した才)を有して天下の乱を終息させられる者がおり、これは智者が詳しく択ぶべきところです。このような主を得た者は栄え、主を失った者は滅びるものです。今回、陳宮は叛逆して呂布を迎え入れ、百城が全て応じました。彼らは大事を成し遂げられそうです。しかしあなたがこれを観るに、呂布とはどのような人物でしょうか。呂布は粗暴で親しい者が少なく、強情で礼がない匹夫の雄に過ぎません。陳宮らも形勢によって仮に一つになっているだけで、君臣の立場を定めることはできていません。よって、その兵がたとえ多くても、最後は必ず成功できないでしょう。曹使君は智略が不世出(めったに世に現れないこと)で、まるで天から授かったようです。あなたが必ず范を固め、私が東阿を守れば、田単の功を立てることができます。忠に違えて悪に従い、母子ともに亡ぶのと、どちらが優れているでしょう。あなたの熟慮を願います」


 靳允は涙を流して言った。


「敢えて二心を抱くことはありません」


 この時、氾嶷が既に県内にいた。靳允は氾嶷に会いに行き、伏兵を使って刺殺した。その後、帰って兵を整え、范の守りを固めた。


 それを見届けた程昱は別騎(騎兵の別働部隊)を派遣して倉亭津を絶った。


 陳宮が黄河まで来たが東阿を攻めるために東進しようとした時に倉亭津が絶たれていたため渡れなかった。ここが彼の弱点というべきところで陳宮は自分の策に自信がありすぎて油断して行動が遅く、予想外のことが起きると更に行動が鈍くなる。


「勝てると思っている者ほど、隙が多いものだ」


 程昱はそう呟きながら東阿に至った。東阿令・棗袛そうていが既に曹操のために吏民を率厲(統率・激励)し、城に拠って守りを堅めていた。


「忠義の人よのう」


 程昱は彼に会って共に東阿を守ることにした。


 こうして鄄城、范、東阿は最後まで城を守って曹操を待った。


 その後、曹操が帰還してきた。


 彼はすぐに程昱に会い、彼の手を取ってこう言った。


「汝の力がなければ、私は帰る所が無くなっていたことでしょう」


 曹操は上表して程昱を東平相に任命し、范に駐屯した。


張邈ちょうぱく、陳宮……」


 二人がまさか裏切るとは思っていなかった曹操は最初、その報告を受けても信じなかった。


  それでも現実はこれである。


「なぜ、裏切ったのか」


 二人共深く信頼していただけに裏切った理由がわかない。


「報告します。呂布は鄄城を攻めていましたが、攻略できず、西に移動して濮陽に駐屯しました」


「そうか……」


 曹操は諸将に向かって言った。


「呂布は一旦にして一州を得たが、東平を占拠して亢父と泰山の道を断ち、険阻な地を利用して私を邀撃することができず、濮陽に駐屯した。私には彼が成功できないと分かる。さあ、呂布を打ち破るぞ」


 曹操は進攻を開始した。


 




 五月、朝廷は揚武将軍・郭汜かくしを後将軍に、安集将軍・樊稠はんちょうを右将軍に任命し、共に官府を開いて三公と同等にした。


 二人が将軍府を開いたため、李傕りかくと三公を合わせて六府が並存することになり、それぞれが選挙(人材登用)に参与するようになった。更にこのあと、鎮南将軍・楊定ようていが安西将軍に任命され、三公と同じように官府を開くことになるため、全部で七府となる。


 李傕らはそれぞれ自分が推挙した者を用いたいと思い、もし一人でも違えたら怨恨憤怒した。


 尚書はこの状況を患い、序列に則って彼らが推挙した者を用いることにした。


 まずは李傕から始まり、次は郭汜、その次は樊稠の意見が採用され、三公が推挙した者は用いられなくなっていった。


 河西四郡(武威、張掖、酒泉、敦煌)が涼州の治所から遠く離れており、河寇(河を守りにしている群盗)によって隔たれていたため、上書して別に州を置くように求めた。


 六月、献帝が詔を発し、陳留の人・邯鄲商かんたんしょうを雍州刺史に任命して四郡を典治(管理。統治)させた。


 この年、四月から七月まで雨が降らず、三輔が大旱に襲われた。穀物一斛の値が銭五十万に、豆麦一斛が銭二十万になり、長安中が飢饉に陥って白骨が積み重ねられていった。


 献帝けんていは正殿を避けて雨を請い、使者を送って囚徒を洗わせ(囚人の状況をよくしたということ)、軽繋(刑犯罪者)を赦した。


 献帝が侍御史・侯汶こうぶんに命じ、太倉の米豆を出して貧人のために糜(粥)を作らせた。しかし数日経っても餓死者の数が減らなかった。


 このことから献帝は賦卹(救済。食糧の供給)に不正があるのではないかと疑い、自ら侍中・劉艾りゅうがいに命じて、御前で米と豆の分量を量ってそれぞれ五升を取ってから、試しに糜を作らせた。その結果、充分足りるはずの粥が作られ、不正によって貧民に与える食糧が減らされていると分かった。


 真相を知った献帝は尚書に詔を発してこう言った。


「米豆五升で糜二盆を得られるのに人々が委頓(疲弊。憔悴)している。何故か?」


 献帝が劉艾を送って官員を譴責させたため、尚書令以下の官員が皆、宮門を訪ねて謝罪し、侯汶を逮捕して審問するように上奏した。


 献帝が詔を発した。


「侯汶を理(法官。監獄)に送るのは忍びない。棒打ち五十に処せばよい」


 この後、全ての人が救済されるようになった。


 胡三省はこの件についてこう述べている。


「これを観ると、献帝は昏蔽(情報を遮断されること)で無知だった人物では無い。しかし最後は天下を失うことになった。これは威権が既に去っており、小恵では民心を得るのに足りなかったからであろう」


 産まれる時代を間違えたと言える人である。


 



 


 

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