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三国志  作者: 大田牛二
第三章 弱肉強食

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劉虞

 九月、朝廷は儒生四十余人を試験し、上第(成績が優秀な者)に郎中の位を、次の者に太子舍人の位を下賜した。下第者(成績が劣る者)は退けた。


 しかし、献帝けんていは詔を発した。


「孔子は『学んでも講じない(研究しない。道理を明らかにしない)』と言って嘆いた。『不講(深く研究しないこと。または復習しないこと)』であれば、知識は日々忘れてしまうものである。今、耆儒(老齢の儒者)は年が六十を越え、故郷から去って離れているが、糧資(生活の糧)を求めて専業できずにいる(学問に専念できないでいる)。結童(髪を結ったばかりの児童)にして入学し、白首(白髪)になって空しく帰っても、長く農野を棄てており、永遠に栄望(仕官して栄誉を得る希望)が絶たれている。私はこれを甚だ憐憫している。よって、試験の結果、退けられた者も太子舎人になることを許可する」


 当時、長安でこういう歌が流行った。


「頭髪は純白になり、食事も充たされず、衣服を包んで裳をまくり、故郷に帰ることになった。しかし聖主が憐憫し、全て用いて郎にした。布衣(平民の服)を棄てて玄黄(彩色の絹織物。貴人の服)を着ることになった」














 大司馬・劉虞りゅうぐ公孫瓉こうそんさんの関係はますます悪化していた。


 当時、公孫瓉はしばしば袁紹えんしょうと攻撃し合っており、劉虞がこれを禁じても止められなかったため、劉虞は公孫瓉が出征した時の稟假(食糧等の供給)を徐々に削減するようになった。


 怒った公孫瓉は頻繁に指示に背き、しかも百姓を侵犯するようになった。


 劉虞は公孫瓉を制すことができないため、上奏文を持った駅使(早馬の使者)を朝廷に派遣し、暴掠の罪を陳述した。


 一方の公孫瓉も劉虞による稟糧(食糧の供給)が行き渡っていないことを上書した。


 二者の上奏が交互に馳せて提出され、互いに誹謗中傷したが、朝廷は是非の判断ができなかった。


 公孫瓉は薊城東南に小城を築いてそこに住むようになった。公孫瓉も薊県に居たが、劉虞から別れて小城を拠点にしたのである。


 劉虞がしばしば公孫瓉に会見を請うたが、公孫瓉はいつも病と称して応じなかった。


 劉虞はいずれ公孫瓉が乱を為すのではないかと恐れ、自分の管轄下にある兵合計十万人を率いて討伐することにした。


 この時、公孫瓉の軍は袁紹と戦うために外に分散していた。公孫瓉は急いで東城(東南の小城)の壁に穴を開けて逃走しようとした。


 しかし劉虞の兵には軍の編成や規則がなく、戦にも習熟していなかった。また、劉虞が民の廬舍を大切にしたため、放火を禁止する命令を出して、軍士を戒めた。


「他の者を傷つけてはならない。伯珪(公孫瓉の字)を殺すだけだ」


 この命令のため兵たちは相手の兵と戦うことができず、城を壊すことさえできない。そのため劉虞は城を包囲攻撃しても攻略できなかった。


 相手の動きが可笑しいことがわからないような公孫瓚は調べ、この命令のことを知った。


「馬鹿な男だ」


 そう嘲笑った公孫瓉は鋭士数百人を募集し、風に乗じて火を放ってから直接突撃した。


 劉虞の兵衆が大壊滅し、劉虞は官属と共に北の居庸に奔った。


 公孫瓉は劉虞を追撃して居庸を攻め、三日で攻略した。劉虞と妻子を捕えて薊に還り、その後も劉虞に州の文書を管理させた。


 ちょうど献帝が詔を発して使者・段訓だんくんを派遣し、劉虞の封邑を増やして六州の政務を監督させようとした。また、公孫瓉を前将軍に任命して易侯に封じた。


 公孫瓉はこの機に、


「劉虞はかつて袁紹らと共に尊号を称すことを謀った」


 と誣告し、段訓を脅迫して劉虞と妻子を薊の市で斬らせることにした。あくまでも朝廷の命令によるものというずる賢い行為である。


 多くの人民が劉虞の助命を嘆願したが、公孫瓚は市場で劉虞を曳き回しにした上、


「皇帝になれるほどの人物ならば、天から雨を降らせることができるのであれば、処刑を辞めよう」


 と言った。結局、雨が降らなかったため、劉虞は処刑された。


 元常山相・孫瑾そんきん、掾・張逸ちょういつ張瓉ちょうさんらが互いに劉虞を庇い、口を極めて公孫瓉を罵ったため、一緒に殺された。


 公孫瓉は劉虞の首を京師に送った。しかし故吏(旧部下)の尾敦おたいが道中で首を奪い、帰って埋葬した。


 劉虞は恩厚によって衆心を得ていたため、北州の百姓は流民も古くから住んでいる者も皆、痛惜した。涙の雨は降った。













 


 以前、劉虞が使者に上奏文を持たせて長安に派遣しようとしたが、相応しい人材がいなかった。


 衆人が皆、


「右北平の人・田疇でんちゅうは二十二歳で、まだ年が若いですが、奇才がございます」


 と言ったため、劉虞は礼を備えて田疇を招き、掾に任命した。


 田疇が車騎を準備して出発しようとした時、劉虞にこう言った。


「今は道路が断絶して寇虜が縦横しているため、官員が命を奉じて使者になったと称してしまえば、衆人の標的になります。私人として行動することを願います。ただ到着できることを望むだけですので」


 劉虞はこれに同意した。


 そこで田疇は自ら家の賓客二十騎を選び、共に西関に登って塞を出て、北山に沿って直接、朔方に向かった。その後、間道から長安に入って使命を伝えた。


 献帝は詔によって田疇を騎都尉に任命した。


 しかし田疇は天子が蒙塵(砂塵を被ること、流亡を意味する)してまだ安んじていなかったため、栄寵を受けてはならないと考え、固く辞退した。


 田疇は朝廷の回答を得てから幽州に馳せて還ったが、到着した時には劉虞が既に死んでいた。


 田疇は劉虞の墓を謁祭(拝謁祭祀)し、章表(章報。上奏文に対する回答)を述べて報告してから哭泣して去った。


 それを知って公孫瓉は激怒した。奨金を懸けて田疇を捕え、


「汝は章報を私に送らなかったがなぜか?」


 と問うた。すると田疇はこう答えた。


「漢室が衰頽し、人々が異心を抱いていますが、ただ劉公だけは忠節を失いませんでした。章報が語っている内容は、将軍に対しては賛美していないため、恐らく喜んで聞くところではないと思い、お伝えしませんでした。そもそも、将軍は既に無罪の君を滅ぼしました。また、義を守る臣を恨めば、私は燕・趙の士が皆、東海に走って死に、将軍に従う者がいなくなるのではないかと恐れます」


 公孫瓉は田疇を釈放した。


 田疇は北の無終に帰った。


 田疇は宗族や附従した者数百人を統率し、地を掃いて盟を立てた。


「君の仇に報いなければ、私は世に立ってはならない」


 その後、徐無山中に入った。


 田疇は深険な場所で平坦な地を選んで住居を造り、自ら耕作して父母を養った。すると百姓は田疇を慕い、彼に帰順し、数年の間に五千余家が集まるようになった。


 そこで田疇が父老に言った。


「今、衆が都邑を成しましたが、互いに統一しておらず、また法制によって治めてもいません。これは恐らく久安の道ではありません。私に愚計があり、諸君と共にこれを実施することを願います。よろしいでしょうか?」


 皆、「可」と言って同意した。


 そこで田疇は約束(規則)を作った。


 殺傷、犯盗(強盗、窃盗)、諍訟(争いの訴訟)は軽重に従って処罰し、重い者は死刑に至るとした。合計十余條の規則ができた。


 また、婚姻嫁娶の礼(婚姻の礼制)と学校の講授の業(学校の授業内容)を制定し、民衆に公開して実施した。人々は皆これらの制度に理解しやすかったため、しっかりと守り、道に落ちている物も拾って横領しなくなった。


 北辺がそろって田疇の威信に服し、烏桓や鮮卑もそれぞれ使者を送って礼物を届けた。田疇は全て慰撫して受け入れ、田疇の村落を侵犯させないようにした。






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