徐州への侵攻
徐州の治中・王朗と別駕・趙昱が刺史・陶謙を説得してこう言った。
「諸侯の支持を求めるならば、勤王に勝ることはありません。今、天子は西京に到っているので、使者を送って奉貢するべきです(貢物を献上するべきです)」
陶謙は趙昱を派遣し、上奏文を持って長安を訪ねさせた。
献帝は詔を発して陶謙を徐州牧に任命し、安東将軍を加えて溧陽侯に封じた。また、趙昱を広陵太守に、王朗を会稽太守に任命した。
当時、徐州の百姓は殷盛(富裕)で、穀物が甚だ豊かだったため、流民の多くが帰順した。しかし陶謙が讒邪を信用して忠直を疎遠にしたため、刑政が治まらず、徐州はしだいに乱れて行った。
許劭が災難を避けて広陵に移ってきた。
この時、陶謙は甚だ厚い礼で許劭を遇したが、許劭は弟子に、
「陶恭祖(恭祖は陶謙の字)表面は声名を慕っているが、内は真正ではない。私を厚く遇しているが、将来必ず薄くなる」
と言って去っていった
果たして後に陶謙が諸寓士(寄居の士)を逮捕し始めた。人々は許劭の先識(先見の明)に感服したという。
下邳の人・闕宣が衆数千人を集めて天子を自称したが、陶謙はこれを撃って殺した。
この闕宣を当初、陶謙は支援していたという内容のことを史書に書かれているが、胡三省は、
「陶謙は徐州を拠点にしており、義を理由に勤王していたため、闕宣の数千の衆のために合従する必要はない。陶謙の別将と闕宣が共に曹嵩(曹操の父)を襲ったため、曹操がこれを陶謙の罪にして討伐の理由としたためであろう」
と述べており、事実では無いとしている。
袁紹が自ら出撃して朝歌鹿腸山に入り、于毒を討った。五日間包囲攻撃して破り、于毒とその衆一万余級を斬った。
袁紹はそのまま山に沿って北行し、諸賊の左髭丈八らを攻撃して全て斬った。
また、劉石、青牛角、黄龍左校、郭大賢、李大目、于氐根らを攻撃し、数万級を斬った。それらの屯壁(営壁)は皆殺しにされた。
最期に黒山賊・張燕および四営の屠各(匈奴の一種)、雁門の烏桓と常山で戦った。
張燕は精兵数万、騎兵数千頭を擁していた。
そこで袁紹は呂布と共に張燕を撃ち、十余日にわたって連戦した。張燕の兵で死傷する者が多数出たが、袁紹の軍も疲弊したため、共に撤兵した。
この戦いで袁紹は不快になった。呂布の将士の多くが凶暴横柄だったためである。この袁紹の悪感情を感じて呂布は洛陽に還ることを求めた。
袁紹は承制(皇帝の代わりに命令を発すこと)によって呂布に司隸校尉を兼任させ、壮士を派遣して呂布を送り出した。しかしながら、実際は秘かに呂布を害そうと考えた。
この袁紹の謀に気がついた呂布は帳の中で人に鼓箏(箏を演奏すること。箏は弦楽器です)させ、その間に隠れて逃走した。
夜、呂布を送った壮士が起きて帳被(帳や寝床)を斬り、全て破壊した。
明朝、袁紹は呂布がまだ生きていると聞いて懼れを抱き、城門を閉じて守りを固めた。
呂布は軍を率いてまた張楊に帰順した。
元太尉・曹嵩は難を避けて琅邪にいた。曹操は自分が兗州刺史となったことから自分の元にいた方が良いだろうと思い、泰山太守・応劭に命じて迎えに行かせた。
曹嵩の輜重は百余両(輌)もあった。そのため曹操は全て移動させることに時間がかかるだろうなあと思っていた。
当時、陶謙の都尉・張闓が陰平を守っていた。しかしながら彼の性質はろくでなしといってよく、曹嵩の財宝のことを知ると自分の物にしようとし、曹嵩と少子・曹徳が華・費の間にいる際、襲撃を仕掛けた。
曹嵩の家族は応劭が迎えに来たと思っていたため備えを設けておらず、彼らがやってきた時、迎えが来たと思い、曹徳が迎え入れて出てきたところで、殺害された。
懼れた曹嵩は後垣(裏の壁)を穿って先に妾を外に出そうとした。しかしその妾が太っていたため、すぐには脱出できなかった。曹嵩は厠に逃げたが、妾と共に害され、闔門(家族。一家)も皆、殺されてしまった。
この事態を知った応劭は懼れて官を棄て、袁紹の元に逃げた。本来であれば、彼は曹操に曹嵩が殺されたことを説明する義務があるため、ここでその義務を放棄したのは問題がある。
しかしながら彼は『漢官儀』、『漢官礼儀故事』、『状人紀』、『中漢輯序』、『風俗通』、『漢書』の注釈を行うなど、多くの当時の礼儀や風俗などを知ることができる文献を残した人だけに後に曹操が冀州を平定した時には、応劭が世を去ったことを知った曹操は悲しんだ。
曹操の元に父や弟、一門が殺害されたことが知らされた。
流石の曹操も悲しんだ。そして、詳細を知り、
(陶謙は配下への教育はどうなっているのか)
問題の大部分は陶謙側にあるとし、曹操は抗議文を陶謙に送った。
しかしながら陶謙は自尊心が強く、宦官の孫の曹操を下に見ていた。そのため彼への謝罪を行わなかった。
「私を愚弄するのか」
これほど愚弄され、悪意を向けられて曹操として我慢がならなかった。
「陶謙を討つ」
曹操はそう宣言し、兵を率いて徐州へ侵攻した。青洲兵の加入により遥かに強力になった曹操軍は大進撃し、十余城を攻めて攻略してみせた。更に彭城に至ったところで陶謙軍の本軍とぶつかった。それも打ち破った。
敗北した陶謙は郯に走り、守りを固めた。
以前、京・洛陽の民は董卓の乱に遭ったため、民が東に流出して多くの人が徐州の地を頼っていた。しかし今回、曹操の進攻に遭い、避難していた男女数十万口が泗水で皆殺しにされ、水が流れなくなるほどであった。
曹操は郯を攻めたが、陶謙の守りは硬く、攻略できなかった。元々この戦い事態が突飛的に起こったことであるため、準備不足であったことも影響した。
「次は必ずや陶謙を殺してやる」
曹操は退却することにした。しかしながら慮、睢陵、夏丘を攻め取って虐殺しながら対局した。鶏や犬も全て殺され、廃墟となった邑には歩く人がいなくなった。
曹操のこの虐殺は曹操の配下内でも賛否が別れていたが、それを表に出せないほどに曹操は怒り狂っており、配下は誰もそれを曹操に言うことはなかった。
事実、この時の曹操は陶謙討伐のことだけしか考えてなかった。このことが後の彼の困難をもたらすことになる。




