陶謙
徐州刺史・陶謙と前揚州刺史・周乾、琅邪相・陰徳、東海相・劉馗、彭城相・汲廉、北海相・孔融、沛相・袁忠、泰山太守・応劭、汝南太守・徐璆、前九江太守・服虔、博士・鄭玄らが朱儁に奏記(意見を述べた文書)を提出し、朱儁を太師に推した。
併せて各地の州牧に檄を届け、共に李傕らを討伐して天子を東方に迎えようとした。
「どうするべきか?」
李傕が太尉・周忠や尚書・賈詡に問うた。
「朱儁一人を招けばよろしいでしょう」
賈詡は特に悩まずにそう言った。
「来るか?」
「皇甫嵩は来たのですから、彼も来ますよ。まあ、少し工夫しましょうか」
賈詡は朱儁を招く書簡の他に献帝に近い人物の書簡を交えた。そこに献帝を守るために朝廷で李傕に対抗してもらいたいという内容を書いた。
これにより、朱儁は陶謙の議を辞退して招きに応じ、再び太僕に任命された。しかしながら李傕は彼にほとんど実権を与えない状態にした。
陶謙は舌打ちしたい気持ちになっただろう。彼は袁紹とも袁術とも違う第三勢力を作ろうとして失敗したのである。
彼は自尊心が強く誰かに頭を下げることを好まないのである。
現在、公孫瓉が再び兵を派遣して袁紹を撃ち、龍湊に到ったが、袁紹に返り討ちにあったため、公孫瓉は幽州に還り、この後、敢えて出撃しなくなっている。袁紹の勢力が明らかに強まっている。
その前に自分の勢力が強固なものにしたいにも関わらず、今回の件である。
陶謙の悩みは大きかった。
この頃、揚州刺史・陳温が死んだ。そこで袁紹は袁遺に揚州刺史を領させるために派遣した。しかし袁術はこれを嫌い、軍を派遣して撃破した。袁遺は逃走して沛に到ったところで、兵に殺された。
袁術は下邳の人・陳瑀を揚州刺史にした。
193年
荊州牧・劉表が袁術を逼迫して糧道を断ったため、袁術は軍を率いて陳留に入り、封丘に駐屯した。
黒山別部や匈奴単于・於扶羅らが全て袁術に附いた。
袁術は将・劉詳を派遣して匡亭に駐屯させた。そこに鄄城に駐軍している曹操が出陣し、劉詳を攻撃した。
袁術は救援に趣いた。曹操如きなど怖くないと袁術は思っていた。彼の曹操への認識は反董卓連合時の敗戦した時で止まっている。しかしながら曹操はあの時の曹操では無い。以前とは違い、成熟した強さをもった将である曹仁が先鋒を努め、その下で戦う兵は長年曹操と戦い続けて新たな力となった青洲兵である。
「袁術に勝てるか?」
曹操が曹仁に尋ねる。
「もちろんです」
曹仁は自信満々に答える。曹操は愉快そうに頷き、出撃の激を放った。青洲兵は一斉に袁術軍に向かっていった。
彼らは黄巾賊として各地で戦ってきた経験は袁術軍の経験よりも完全に上である。今まで袁術は孫堅に頼り過ぎたところもある。
その結果、袁術軍は曹操軍に大破された。
袁術は退いて封丘を守った。曹操は素早く包囲を開始したが、包囲が完成する前に袁術は襄邑に走った。
曹操は追撃して太寿に至り、渠水(水路。運河)を決壊させて城に水を注いだ。恐れた袁術は寧陵に走った。曹操は袁術を追撃して連勝した。
袁術は九江に走った。揚州刺史に任命した陳瑀ならば、助けてくれるという思いがあっての行動である。しかし、陳瑀は袁術を拒否した。
袁術は退いて陰陵を守り、淮北で兵を集めてから再び寿春に向かった。陳瑀は恐れて故郷の下邳に逃げ帰った。袁術はこれにより揚州を領し、併せて徐州伯を称した。
李傕はここで袁術と結んで外援にしたいと欲したため、袁術を左将軍に任命して陽翟侯に封じ、符節を与えた。
袁紹は公孫瓉に任命された青州刺史・田楷と連戦して二年が経った。
士卒が疲困してどちらも糧食が尽きたため、互いに百姓から略奪した。その結果、野に青草がなくなるほどであった。
袁紹は子の袁譚を青州刺史に任命した。田楷が袁譚と戦ったが勝てなかった。この時、劉備が田楷の下にいる割には劉備も関羽も張飛も活躍したなどという記録は一言も無い。
「活躍しなくて良いのですか?」
関羽は劉備に訪ねた。
「する必要があるかい?」
劉備はそう答える。
「名を上げるためにもしっかりと戦うべきでは?」
「それで君が満足するならばするだろうね」
関羽に劉備はそう言うのみであった。
この戦いの中、ちょうど趙岐が来て関東を和解させた。そのため公孫瓉が袁紹と和親(婚姻関係を結ぶこと)し、それぞれ兵を退いた。
「まだまだ戦いは続くね」
劉備は関羽にそう言う。
「ええ、そうでしょう」
「まあ、私たちの番はまだだろうけどね」
劉備はそう言って笑った。
そう、彼の表舞台の活躍はまだであろう。しかし、その時は確実に近づき始めていた。
曹操、劉備の運命が交わるまであと少し……




