表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
三国志  作者: 大田牛二
第二章 群雄割拠

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

89/372

魏武の強

 長安を脱出して、呂布りょふは武関を出て東に向かい、南陽に奔った。勤王の人であると評判の袁術えんじゅつに期待してきたのである。袁術は甚だ彼を厚遇した。


 袁術は孫堅という戦の逸材を失っただけに戦に強いとされている呂布を今後使おうと思ったのだろう。


 しかしながら呂布は董卓を殺して袁氏の仇に報いたと考えており、兵の略奪をほしいままにさせるなど、すき放題した。


 袁術はこの呂布の態度に不満を持つようになった。それを知った呂布は不安になり、袁術を去って河内の張楊ちょうように従うことにした。


 李傕らは賞金を懸けて呂布を求め、追及を厳しくしたため、呂布はまた逃走して袁紹えんしょうに帰順した。


 もう少し独立心が呂布にあれば、それ相応の土地で勢力も築けたかもしれないにも関わらず、この時の呂布は人に使われる道を選んでいた。


 英雄になりたいという願望を持っていながら彼自身の本質は走狗に過ぎない。


 その頃、献帝けんていは詔を発し、太傅・馬日磾ばじつてい、太僕・趙岐ちょうきに符節を持って関東を鎮撫させることにした。正確に言えば、李傕りかくの政権に従えということである。


 李傕は自らを車騎将軍・領司隸校尉(司隸校尉兼任)となった。


 また、郭汜かくしを後将軍に、樊稠はんちょうを右将軍に、張済ちょうせいを驃騎将軍に任命し、全て封侯した。


 李傕、郭汜、樊稠が共に朝政を行うことになったが、張済は政治に関わるのを嫌い、京師を出て弘農に駐屯した。


 以前、董卓が入関した時、韓遂かんすい馬騰ばとうを説得して共に山東を図るように誘った。韓遂と馬騰は衆を率いて長安に向かった。二人は董卓にならば従っても良いと思ったところから案外、董卓という人は親しみを覚えるところはあるのかもしれない。


 しかしちょうど董卓が殺されてしまった。


 李傕らは韓遂を鎮西将軍に任命して金城に還らせ、馬騰を征西将軍に任命して郿に駐屯させることにした。遠ざけたと言っていいだろう。二人はこれには反感を抱くことになった。










曹操そうそうは青州の黄巾賊を追撃して済北に至った。この戦いにおいてもっとも活躍したのは曹仁そうじんであろう。彼は騎兵隊を率いて黄巾賊を翻弄し、勝利し続けた。


「我が軍の牙爪である」


 曹操は彼の活躍を喜んだ。曹仁は独立しようとしただけに自分で考えて戦うということが身についているところがある。その辺り、まだ曹操旗下にいる諸将はまだ経験が薄い。


 敗北が続いた黄巾賊は投降を乞うた。


 曹操は全ての投降を受け入れ、兵士三十余万、男女百余万口を得た。その中から精鋭を収めて青州兵と号した。これを持って「魏武の強」これより始まると称されることになる。


 曹操は陳留の人・毛玠もうかいを招聘して治中従事に任命した。彼は字は孝先という。若い頃は県の役人となり、公正さで評判となった。戦乱を避けて荊州へ避難する事を考えたが、刺史である劉表りゅうひょうの政治がいい加減なものであるという噂を聞いたため、故郷から離れていなかった。そこに曹操から招かれたため、曹操に従ったのである。


 毛玠が曹操に言った。


「今は天下が分裂崩壊して皇帝が流亡し、生民が業を廃して饑饉流亡しており、公家には経歳の儲(年を越える蓄え)がなく、百姓には安固の志(安定・平安を求める意志や希望)がないため、このような状況は長く続きません。兵とは義の者が勝ち、財によって位を守るものです。天子を奉じることで不臣(臣服しない者)に号令し、農業を整えて軍資を蓄えるべきです。このようにすれば、霸王の業を成すことができましょう」


 胡三省は曹操が群雄を除くことができた理由を、


「天子を迎えて許を都とし、屯田によって穀物を蓄えたためである。この二事は毛玠が謀を発したのである」


 と解説しており、毛玠のこの進言による功績の大きさを説明している。


 曹操は毛玠の言を採用し、使者を派遣して河内太守・張楊ちょうようを訪ねさせた。張楊に道を借りて西の長安に使者を送ろうとした。しかし張楊は同意しようとしなかった。


 その時、定陶の人・董昭とうしょうが張楊の元にいた。彼は元々袁紹の元にいた人物である。


 界橋の戦いの時、鉅鹿太守の李邵りしょうや郡の上級官吏は、勢いの盛んな公孫瓚こうそんさんに味方しようとした。董昭は袁紹の命令で鉅鹿太守を兼ね、計略を用いて公孫瓚に従おうとする鉅鹿郡を平定し、袁紹に称賛された。


 魏郡でも反乱が起きて太守が殺害され、またしても董昭が袁紹の命令で魏郡太守を兼ねた。魏郡には万単位の賊がいたが、董昭は離間計を用いてこれを鎮圧した。


 そのように実績を示し続けてきた人であるが、彼には弟がおり、その弟が張邈ちょうぱくの幕下であった。張邈と不仲になった袁紹は讒言を聞き入れ、董昭を処罰しようとした。


(全く……)


 袁紹に失望した董昭は出奔し長安の朝廷に仕えようとした。この辺りこの人の独特な感性があると言っていいだろう。彼はわざわざ危険な長安の朝廷に乗り込もうとしている。それだけ自分の才覚に自信があるのか。勤王精神が豊かなのか。


 そんな彼を張楊が引き止めた。


「今、長安は危険だ。ここに残った方が良い」


 その言葉を聞いて彼はとどまっていたのである。そこに曹操の使者がやってきたことを知り、董昭は張楊を説得して言った。


「袁・曹は一家になっていますが、久しく連合してはいないでしょう。曹操は今は弱小ですが、実は天下の英雄なので、機会を探して結ぶべきです。今は縁(道を借りようとしたこと)があるのでなおさらです。使者が朝廷に上書する道を通じさせ、併せて上表して曹操を推薦するべきです。もし事が成れば、永く深分(深い交情)になりましょう」


 実のところ張楊は外交的に孤立している。そのことを踏まえて考えても彼の進言は納得できるものであった。そのため張楊は曹操の使者が上書する道を通し、更に上表して曹操を推薦した。


 董昭も曹操のために書信を書いて李傕、郭汜らに送り、それぞれの軽重(地位の高低)に合わせて丁重に礼物を贈った。これらのことを後に曹操は知ると彼に感謝し、重用することになる。後の魏の礎を彼は作っていくことになる。


 李傕と郭汜が曹操の使者に会った。


 しかし李傕らは関東が自ら天子を立てることを欲しており、今回、曹操の使命(命を受けた使者)が来たものの、誠実ではないと考え、使者を拘留することを議論した。


 そこに黄門侍郎・鍾繇しょうようが李傕と郭汜を説得して言った。


「今は英雄が並び起ち、それぞれ矯命(偽の命令)によって専制しておりますが、兗州刺史・曹操だけは王室に心があります。それなのにその忠誠に逆らうのは、将来の望にそうことではありません」


 李傕と郭汜はこれを持って曹操に対して厚く答礼した。鐘繇は鐘皓の曾孫である。


 子供の頃にこのような逸話がある。昔、族父に連れられて洛陽に行ったとき黄色い服の人相見に出会った。その人相見に、鐘繇には出世の相と水難の相があることを告げられた。まもなく溺れそうになったため、人相見の言葉が当たっていると判断した族父は彼が高貴な身分になると思い、鍾繇への援助を惜しまなくなったというものである。


 このように曹操の朝廷への接触に陰ながら援助してくれる者たちにより、曹操は大きな力を持つことになる。


 









評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ