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三国志  作者: 大田牛二
第二章 群雄割拠

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王允

 呂布りょふは自らが救国の英雄となったと思っていた。そのため己は尊重されるべきであり、皆、己の意見に耳を傾けるべきであるとも思っていた。


 しかしながらそんな彼でも王允おういんのことは尊重している。そのため王允のためになりたいというぐらいの思いはある。その王允に呂布は董卓の部曲を全て殺すように勧めた。


 彼らは必ずやこちらに矛を向けてくる。今のうちに軍を掌握したいという思いもある。呂布としてはしっかりと考えた上での意見である。


 しかし王允はこう言った。


「彼らには罪がないから殺してはならない」


 この言葉は思ったよりも蔡邕を処刑した際の反発が大きかったのだろう。そのため董卓に渋々従った者を許そうという考えになったのである。


 また、呂布は董卓の財物を公卿や将校に分け与えるべきであるとも王允に進言した。しかしながら王允はこれにも従わなかった。


 王允としては董卓の財物は王朝の物。王朝の長である献帝けんていの物であると王允は考えていたようである。


 しかしながら側目から見れば、この行為は王允が独占しているようにしか見えない。


 この辺りの意識は呂布は常識的であり、そこまで間違った意見ではなかった。そもそも王允はかねてから武人として呂布を遇して、政治への関与を嫌っていたのである。そのため呂布の意見がしっかりとしたものであるにも関わらず、王允は聞き入れなかった。


 確かに呂布は董卓暗殺の功労を自負しており、しばしばそれを自慢するなどの傲慢さはあったが、少なくとも王允への敬意はあった。それにも関わらず、王允は自分の意見を聞き入れない。


(私は救国の英雄なのだ)


 王允の待遇に失望した呂布はしだいに不満を抱くようになった。


 ここまで王允の傲慢さが見えたのは、彼の性格が剛直で悪を憎む男であっただけに董卓に節を曲げて従っていたことに我慢していた。それが董卓が殲滅されてからは患難とすることがなくなったと思い、傲慢に振舞うようになったのであろう。


 その姿に大臣たちはあまり帰心しなくなっていたことに王允は気付かなかった。


 王允が士孫瑞しそんずいと議論して特別に董卓の部曲を許す詔を下そうとした。しかし決定後に躊躇し始めた。


「部曲はその主に従っただけだ。今、もしも悪逆の名を与えて赦せば、恐らく深く猜疑させることになる。これは彼らを安んじさせる方法ではない」


 と言い、中止した。


 また、王允は董卓の全ての軍を解散させることを議論した。ある人が王允に言った。


「涼州人は元から袁氏を憚り、関東を畏れています。今、もしも一旦にして兵を解かせて関を開ければ、必ずや人々は危険を感じるようになりましょう。皇甫嵩こうほすうを将軍にして現地で衆を統率させ、そうすることで陝に留めて安撫するべきです」


 この意見を言ったのは本当に誰なのだろうか。少なくとも皇甫嵩というかつての英雄を再び活かすという意味では良い意見である。誰なのか実に知りたいものである。


 しかしながら王允はこう言った。


「それは違う。関東で義兵を挙げた者は皆、私の仲間である。今、もし険阻な地形に拠って陝に駐屯し¥すれば、たとえ涼州を安んじることができても関東の心を疑わせることになるから、そうしてはならない」


 袁紹えんしょう劉虞りゅうぐを擁立しようとしたように関東の諸将が誰もが王朝の味方というわけでは無いのだが、そのことを王允が知っていなかったとは思えない。結局のところ董卓に屈服したところがあった皇甫嵩を信じきれなかっただけであろう。


 このように王允は董卓に従っていた人々を許すといいつつもその内心は許しきっていない。


 そのことは案外、下の者には伝わるものなのか。当時、百姓は、


「涼州人を全て誅殺されることになる」


 と、噂した。


 董卓の旧将校はそれぞれ恐動(恐れて騒ぐこと)し、皆、兵を擁して守りを固め、互いにこう言った。


「蔡邕はただ董公が親厚(信任・厚遇)していただけだったのに、それでも連座した。今、王允は我々を赦すことなく、しかも兵を解かせようといているが、今日、兵を解いてしまえば、明日にはまた魚肉になってしまうだろう」


 蔡邕は董卓の諸将からも慕われていた人であった。その彼が生きていれば、彼を通して董卓の諸将を取り込むこともできたかもしれない。


 しかし、処刑したことで逆に諸将は王允の動向の不穏さに恐怖するばかりであった。


 呂布はじれたっくなった。


(連中は必ずやこちらに敵対することになる)


 彼は李肅りしょくを陝に軍を率いて派遣し、詔命によって牛輔ぎゅうほを誅殺させることにした。


 牛輔はそれを察知して迎撃して李肅と戦った。李肅は敗れて弘農に走った。呂布は彼の敗北を許さず、誅殺した。


 牛輔は勝利しつつもやはり王允は自分たちを殺すつもりだと思い、恐れて平常心を失った。彼は臆病な性格である。


 ちょうどこの時、兵達が突然騒ぎを起こしたため、臆病な牛輔は逃走しようとしたが、左右の者に殺された。


 李傕らが戻った時(李傕等は陳留・潁川方面にいた)、牛輔が既に殺されていたため、頼る所がなく、使者を長安に送って大赦を請うた。


 しかし王允は、


「一年に二回大赦することはできない(本年正月に大赦した)」


 と言って拒否した。応用力に欠ける人である。


 李傕らはますます懼れ、どうするべきか分からず、それぞれ解散して間道から郷里に帰ろうとした。そのように話し合う彼らの間に一人の無表情な男が現れた。


 討虜校尉・賈詡かくである。彼は言った。


「皆さんがもし軍を棄てて単独で行動すれば、一亭長でも皆さんを拘束することができるでしょう。それぞれ兵を率いて西に向かい、長安を攻めることで董公の仇に報いた方が良いとは考えないのですか。事が成功すれば、国家(皇帝)を奉じて天下を正し、もしうまくいかなければ、それから逃走しても晩くはないのではないのですか?」


 李傕らはこの意見に納得して互いに盟を結び、数千の軍を率いて朝から夜まで西に向かった。


 これにより後漢王朝復興の道はほぼ無くなることになったと言えるだろう。『三国志』の注釈を行った裴松之は賈詡のこの進言にこのように述べている。


「悪の権化である董卓が獄門台に曝され、ようやく中原が平和になろうとしていたのに、災いの糸口を重ねて結び直し、人民に周末期と同じ苦難を強いた。これらは全て賈詡の片言に拠るものではないか」


 痛烈な批判である。また、賈詡の列伝が、荀彧じゅんいく荀攸じゅんゆうと並列されていることに対しても、


「賈詡のような人物は程昱ていいく郭嘉かくからの伝と一緒に編入すべきであり、荀彧・荀攸と同列にするのは類別を誤っている」


 とまで言っている。裴松之は『三国志』という淡々と書かれすぎた歴史書に注釈を添えて華やかなものにし、長年愛されることになるものにしたという多大なる功績をもった人である。そんな人に賈詡は随分と嫌われたものである。


 賈詡がこの言葉を聞いた時、どのように返すのだろうか。鼻で笑う程度であろうか?


 王允は李傕らが侵攻しようとしていると聞くと、徐栄じょえいに軍を与え、胡軫こしん楊定ようていが涼州の大人(豪族。または長老、長者)だったため、共に派遣し、誤解を解かせるように言いつつも王允は温和な態度で寛容を示そうとせず、こう言った。


「関東の鼠が何をしようとしているのだ。汝らが行って連れてこい」


 抵抗するようならば、殺しても構わんと言わんばかりであった。


 胡軫と楊定はやがて王允によって自分たちも殺されることになるのではないか。それならば李傕らと共に王允を攻め滅ぼす方が良いのではないか。そう考えた二人は徐栄を殺し、兵を率いて李傕に下った。


 徐栄は曹操、孫堅と戦った名将であった。それにも関わらず、このような最後に終わったのは悲しいことである。

 

 李傕は道中で兵を集めながら進軍していたため、長安に至った時には十余万になっていた。そして、そのまま董卓の元部曲・樊稠はんちょう李蒙りもうらと共に長安城を包囲した。しかし長安城は城壁が高いため攻撃するのが難しかった。


「どうすれば良いのか?」


 李傕は賈詡にそう問いかけた。


「問題はありません。長安はまもなく陥落するでしょう」


 賈詡は淡々とそう言った。


 包囲して八日目呂布軍の蜀出身の兵が謀反を起こした。


 

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