蔡邕
董卓を暗殺した司徒・王允は尚書の政務を主管し、使者・張种を派遣して山東を撫慰を行った。
また、呂布を奮威将軍に任命して符節を与え、儀礼を三公と同等とし、温侯に封じた。
王允と呂布が共に朝政を主持する体制がここに構築されたのである。しかしながら王允は呂布に何らの政治力を期待はしていない。彼は董卓暗殺を行うための存在でしかなく、彼を尊重しつつもそこまで政治に関わらせるつもりは無い。
(陛下をお守りし、漢王朝を復興させる)
それが王允の願いである。そのためにも自分にとって邪魔な存在は排除しなければならない。
董卓が死んだ時、左中郎将・高陽侯・蔡邕が客として王允の家にいた。
彼が董卓が殺されたと聞いて驚嘆したため、王允が勃然(憤怒の様子)として叱責した。
「董卓は国の大賊であり、危うく漢室が滅ぶところであった。君は王臣として共に憎むべきであるのに、個人的に遇されたことを懐かしみ、逆に傷痛(悲痛)している。これは共に反逆を為すのと同じではないか」
王允は蔡邕を捕えて廷尉に送った。
蔡邕は謝罪してこう乞うた。
「この身は不忠でございますが、古今の大義は厭きるほど聞き、常に口ずさんでいます。どうして国に背いて董卓に向くことがありましょう。黥首刖足(顔に刺青をして脚を切断する刑)に処されて、継続して漢史を成すことを願います」
蔡邕はかつて朔方に移された時、徒中(囚人の中)で上書して『漢書』諸志の続きを作ることを乞うていた。『漢書』の続きを書くことは彼の夢の一つであったと言っていいだろう。
彼は多くの士大夫に慕われており、彼らは憐憫して蔡邕を助けようとしたが、王允は彼らの意見を聴こうとしなかった。
(やつは逆臣だぞ)
王允からすれば、董卓のやることを支持しここまで王朝を混乱させた一人であると思っている。
そんな中、太尉・馬日磾が王允に言った。
「伯喈(蔡邕の字)はこの世にまたとない逸材であり、漢の故事を多く知っていますので、後史を継続して完成させるべきです。これは一代の大典となります。しかも坐したのは極めて小さいことなので、これを誅したら、人望を失うことになります」
王允はこう返した。
「昔、武帝が司馬遷を殺さなかったため、謗書(漢の皇帝を批難する書)を作らせて後世に流すことになった。今は国運が中衰し、軍馬が郊にいるのだから、幼主の左右で佞臣に筆を取らせてはならない。そのようにしてしまえば、聖徳に対して益がなく、また我々も批難を蒙ることになる」
王允にとって董卓の排除は正義を実行であり、今後、漢王朝を復興させていき、己は王佐の才を有した名臣として不朽の者となるのである。それにも関わらず、董卓に同情的な蔡邕の国史など残されては己の正義が汚されてしまうことになる。そのようなことはあってはならないのである。
馬日磾は退出してから人にこう言った。
「王公には後代がないだろう。善人は国の紀(準則。模範)であり、著作は国の典(法典。経典)である。紀を滅ぼして典を廃しながらどうして久しくできようか」
蔡邕は獄中で死んだ。
彼は董卓による漢王朝の改革に希望を託した人である。董卓は暴力的ではあるが、名士を尊重する心を持っていると蔡邕は思ったからこそ、彼の暴虐性を抑え、漢王朝の改革を成し遂げてもらいたいと思ったからこそ彼を支えた。しかしながら董卓には漢王朝の改革を成し遂げるほどの理想はなかった。そのため蔡邕は失敗し、死ぬことになった。
それでももし彼が生きながらえ、『漢書』の続きを書くことができれば、当時の状況をもっと知ることができ、後世に多大なる貢献を果たしたであろうことを思えば、悲しいことである。
彼の遺品である膨大なる書物は娘の蔡琰に引き継がれることになる。彼女は才媛であると言われており、このような話がある。
蔡琰がまだ幼い頃、夜に蔡邕が琴を演奏していた。演奏の最中に琴の二番目の弦が切れ、別室で父の演奏を聞いていた蔡琰は、
「第二弦が切れました」
と言った。蔡邕が出鱈目に言ったなと思い、わざと四番目の絃を切ると、またも、
「第四弦が切れました」
と蔡琰は言った。蔡邕は信じず、
「たまたま言い当てただけであろう」
と言うと、蔡琰はこう返した。
「昔、呉の季札は音楽を聞いて国の興廃を知り、師曠は律管を吹いて楚軍が戦に負けることを知りました。彼らのような音楽家がいたのです、どうして私が切れた弦を聞き分けられないと申しましょうか」
それを聞いた蔡邕は大いに笑った。
彼女は蔡邕が死ぬ前に嫁いでいたが、嫁いでいた先の夫が先立ってしまったため、実感に戻っていた。父の死に悲しみながらも彼女はこのあと、数奇な運命に巻き込まれていくことになる。
牢獄で囚われの身となっていた荀攸は開放された。しかしながら彼は王允の状況を見て、長くはないと思った。
「明らかに驕っている」
董卓を暗殺しただけでまだ、彼自身の願いである漢王朝の復興はまだ成し遂げていないにも関わらず、彼はもはやそれも成し遂げたと言わんばかりの態度である。
「この人も王佐の才などという評価をもらっていたな」
王佐の才。荀彧も、もらっているその評価は荀攸からすれば呪いの言葉ではないかとさえ、思うほどにあの言葉は業の深い言葉であった。
「張良は偉かった」
張良は己の業の深さを誰よりも理解しており、そのことを誇らず、天下統一後は慎ましくしていた。
「王允は夢の中で埋没していくことになるだろう」
もはや彼は空想の中で生きている。その空想が破れる時が近い。しかしながらその空想に一人で溺れるのであれば、問題は無いが巻き込まれては堪らない。
荀攸は益州の蜀郡太守となることを乞うて許されると洛陽を離れた。益州には劉焉が支配しており、入れないため荊州に滞在することにした。
そう簡単に張良と並ばせないぞという意図の元に書かれていて、別に王佐の才は呪いの言葉ではないんですけどね。鄧禹? あの人は光武帝補正もらっているから良いのだ。




