界橋の戦い
公孫瓚が袁紹へ侵攻していたため、袁紹は自ら出征して公孫瓉を防ぐことにした。両軍は界橋の南二十里の地で戦うことになった。これが後の界橋の戦いである。
公孫瓉は三万の兵を率いており、士気が盛んで勢いがあった。また、彼は長年、北方の異民族と戦ってきただけに彼の奇兵隊は協力であった。
袁紹は麴義に命じ、精兵八百・強弩千張を統率して先鋒にした。麴義は大盾を並べ、弩が公孫瓚側から見えないように隠しながら陣形を取った。
「ふん、あれぐらいの数で我々の騎兵を止められるか」
公孫瓉は麴義の兵が少ないのを見て軽視し、騎兵を放って疾駆させた。
「ぎりぎりまで、矢を放つなよ良いな」
麴義の兵は楯の下に伏して動かず、公孫瓉の騎兵との距離が十数歩を切った時、
「放てぇ」
一斉に弩を発した。叫び声が地を動かし、公孫瓉の騎兵隊は崩壊した。
「さあ、一気に押し込んでやれぇ」
公孫瓚軍はその影響により、大敗することになった。公孫瓉が置いた冀州刺史・厳綱が斬られ、袁紹軍は兵の首千余級を獲た。
麴義は更に追撃して界橋に到った。
公孫瓉が兵を集めてから引き返して戦ったが、また破れた。一度、敗れると何度も破れるものである。
麴義は公孫瓉の営に至って牙門に建てられた旗を抜いた。牙門とは大将の旗が建てられた門で、この旗を「牙旗」という。これを取るということは相手からすれば、最大の屈辱であり、本陣が落とされたことを意味する。
公孫瓉の残った兵は皆、逃走した。
以降、公孫瓚軍は袁紹軍に圧倒され続けることになる。
以前、兗州刺史・劉岱と袁紹、公孫瓉は連和しており、袁紹は妻子を劉岱がいる所に住ませていた。
公孫瓉も従事・范方を派遣し、騎兵を指揮して劉岱を助けさせていた。
前年、公孫瓉が袁紹軍を撃破した時、公孫瓉が劉岱に対して袁紹の妻子を送るように伝え、同時に范方にもこう命じた。
「もし劉岱が袁紹の家族を送らなければ、騎兵を率いて還れ。私が袁紹を平定してから劉岱に兵を加えよう」
劉岱はどうするべきか官属と討議したが、連日決定できなかった。
ちょうど東郡の人・程昱に智謀があると聞いたため、程昱を招いて意見を求めることにした。
程昱という人物について少し話さなければならない。
身長は八尺三寸(約191cm)という巨漢で、見事な髭を蓄えている人である。初めは程立という名前でこの時、本来であれば程立と書くのが正しいが、彼が後に泰山に登り両手で太陽を掲げる夢を見たため、立の上に日をつけて、程昱と改名した。この程昱という名の方が有名であるため、以降、程昱と表記する。
黄巾の乱の際、東阿県丞の王度が賊に同調し、放火や略奪を働き、県令は城壁を越えて逃走し行方知れずとなり、官吏や民衆は家族を連れて東の山に避難していた。
程昱は王度の様子を見て、彼が城を保つことができず、外に駐屯していることが分かった。そこで程昱は豪族の薛房らに対し、
「逃亡した県令を探し出し、城を堅守すれば勝てる」
と勧めた。薛房らは同意したが、東の山に避難した官吏と民衆は協力しようとしなかった。程昱は、
「愚民は事を計れない」
と呟くと、官民に裏手から賊がやってきたと嘘を言って城に戻るように誘導した。程昱は逃亡した県令の所在も探し当て、ともに城を守った。王度が攻撃してきたが、程立は官吏と民衆を率いて城から出撃し、これを敗走させた。これにより東阿県は安全となった。このことから彼は今まで無名だったにも関わらず、その名を知られるようになったのである。
その程昱は劉岱にこう言った。
「もしも袁紹という近援を棄てて公孫瓉という遠助を求めれば、これは越に人を借りて溺れた子を救うというものです。公孫瓉は袁紹の敵ではありません。今は袁紹軍を破りましたが、最後は袁紹の擒になりましょう」
劉岱はこれに従った。
范方が騎兵を率いて帰りましたが、到着する前に公孫瓉が敗れた。
このことで程昱を評価した劉岱は程昱に自分に仕えるように誘ったが、程昱は断った。
曹操は頓丘に駐軍していた。
その時、于毒らが武陽を攻撃した。しかし曹操は兵を率いて西の山に入り、于毒らの拠点を攻めた。
諸将が皆、兵を還して武陽を救うように請うたが、曹操はこう言った。
「孫臏は趙を救うために魏を攻め、耿弇は西安を走らせようとして臨菑を攻めた。賊に我々が西行していると知らせてから、賊が還れば、武陽は自ずから包囲が解かれるだろう。還らなければ、我々がその拠点を敗ることができる。いずれにしても賊が武陽を攻略できないのは間違いない」
曹操は西に向かった。
果たしてそれを聞いた于毒は武陽を棄てて還ってきた。そこで曹操は賊の将の一人である眭固を邀撃し、また、匈奴の於扶羅を内黄で撃ち、どちらも大破した。
曹操は着実に戦の経験を積み、実力を磨いていた。
そんな中、董卓が世を去ろうとしていた。




