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三国志  作者: 大田牛二
第二章 群雄割拠

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遼東の名士たち

明日は投降できないかもしれません。

 董卓とうたくが入関した時、朱儁しゅしゅんを洛陽に留めて守らせた。


 朱儁は秘かに山東諸将と通謀したが、董卓に襲われるのを懼れ、荊州に出奔した。


 それにより、董卓は弘農の人・楊懿よういを河南尹に任命したが、朱儁が再び兵を率いて洛陽に還り、楊懿を撃ち破った。


 朱儁は河南が破壊されて資本とする物がないため、東の中牟に駐屯し、州郡に書を送って董卓討伐の軍を請うた。


 これに徐州刺史・陶謙とうけんが答える形で上書して朱儁を車騎将軍代理に任命し、精兵三千を派遣して朱儁を助けた。余州の郡もそれぞれ兵を送った。


 陶謙は丹陽の人で、字は恭祖という。


 彼は以前、皇甫嵩こうほすうの西羌討伐において彼の下で功績を立てた。しかしながら張温の下に転属されると、その人となりや指揮能力に不満を抱くようになり、ある時、張温から宴席で諸将に酒をついで回るよう命じられたことに怒ると、満座の中で張温を面罵した。そのために張温の怒りを買って、辺境に左遷されてしまった。


 後に、同僚の弁護があって復帰したがこのように剛直な人物である。


 黄巾が徐州を侵した時、朝廷は陶謙を刺史に任命した。


 陶謙は徐州に入ると黄巾を撃ち、大破して走らせた。そのおかげで州境が安寧になった。少なくとも軍人としての手腕と内政手腕は一定以上のものを持っていると言えるだろう。











 劉焉りゅうえんは益州で秘かに独立しようと考えていた。


 それで目を付けたのは張魯ちょうろである。彼は祖父・張陵から代々五斗米道を行っており、蜀に客居しており、張魯の母は鬼道を行っており、しばしば劉焉の家に行き来していた。劉焉はそんな張魯を督義司馬に任命した。


 劉焉は張魯に兵を与えて、漢中太守・蘇固そこを襲撃させ、更に斜谷閣を断絶して漢朝廷の使者を殺害させた。そしてそのまま彼に漢中の地を与え、その上で劉焉はこう上書した。


「米賊が道を断ったため、通じることができなくなりました」


 また、この時、劉焉は口実を探して州中の豪強・王咸おうい李権りかくら十余人を殺し、威刑(厳格な刑)を立てた。


 これらの動きが漢王朝のためではなく、自らの野心のためであると考えた犍為太守・任岐じんきと校尉・賈龍かりゅうが兵を起こして劉焉を攻撃したが、劉焉は二人を撃って殺した。


 劉焉は意気がしだいに盛んになり、乗輿(皇帝の車)・車具千余乗を作るようになった。


 これを知った荊州刺史・劉表りゅうひょうが上書した。


「劉焉には、子夏が西河で聖人(孔子)を真似した時に似ているという議論があります」


 子夏とは孔子の弟子のことである。彼が西河に住んでいた時、西河の人々が子夏を孔子だと思ったことがあった。その故事を元に劉表は、


「劉焉の行動は天子と同じであり、蜀の人々に劉焉が天子だと思わせている」


 と批難したのである。


 当時、劉焉の子・劉範りゅうはんは左中郎将、劉誕りゅうたんは治書御史、劉璋りゅうしょうは奉車都尉で、皆、長安で献帝けんていに従っていた。小子の別部司馬・劉瑁りゅうぼうだけがいつも劉焉に従っていた。


 献帝が劉璋を派遣して劉焉を諭させたが、劉焉は劉璋のことを気に入っていたことから彼を留めて京師に返さなかった。







 公孫度こうそんどの威が海外に行われ、中国の人士で乱を避けた者の多くが帰順するようになっていた。


 北海の人・管寧かんねい邴原へいげん王烈おうれつと言った名声ある者たちが皆、公孫度を頼りに行った。


 管寧は若い頃、華歆かきんと友人になったことがあった。


 かつて華歆と共に畑を耕した時、その地に黄金があるのを見つけましたが、管寧は鋤を振るい続けて顧みようとせず、瓦石を見つけた時と違いがなかったが、一方の華歆は金を手に取ってから投げ捨てた。


 このことから華歆は黄金に心を動かされたが、管寧は心を動かなかったとして、人々はこの出来事から二人の優劣を知ったと言われている。


 邴原は十一歳の時に父を亡くし家が貧しかったため、孤児となった。邴原の隣家に寺小屋があり、邴原はその横を通って泣いた。先生にどうして泣いているのか問われると、


「孤児であると傷付き易く、貧乏であると感じ易いものでございます。第一に勉学ができるものは、必ずや父兄が揃っているものです。彼らは孤児でなく、勉学ができる事を羨ましく思い、涙が流れたのです」


 と言った。先生は哀れに思い、彼のために泣いて、


「勉強する気があれば共に学んでもよい」


 と言うと、邴原が貧乏のため、正直にお金が無いことを伝えると先生は、


「学ぶ意志があるのならば、私は教えよう。金はいらない」


 と言ったため、こうして勉強できる事になった。邴原は年少者の間ではひと際優れ、一冬の間に『孝経』と『論語』を暗誦するほどであった。


 邴原は成長してからある時、遠くに遊学したいと考え、安丘の孫崧の元に赴いたが、孫崧は邴原からの師事を辞退し、


「あなたは郷里の鄭玄を知っているか?」


 と聞いたため彼は「はい」と答えたため、孫崧は、


「鄭君の学問は真に学者の師表である。君は彼を差し置いて、千里を旅して来たが、それは鄭君を隣の丘さん扱いしている事が分からずに知っていると言ったようなものである」


 と諭した。この隣の丘さんというのはかつて孔子に教えを乞おうとした者が孔子はどこにおられるかと聞くと、その孔子という方は知らないが隣に孔丘という人がいると紹介したというものである。もちろんこのような故事は知っている邴原はそれを聞くとこう返した。


「先生のお言葉は、苦い薬、良い鍼とでも言うべきものです。しかしながら、私の気持ちを理解なさっていないようです。人にはそれぞれ志があり、それは同じではないのです。山に登って玉を採るものがあれば、海に入って真珠を採るものもいます。しかし山の者に海の深さは分からず、海の者に山の高さは分からないと言ってはよいのでしょうか。先生は私が鄭君を隣の丘さん扱いしていると思われていますが、先生も私を西隣の愚か者と思われているのでしょうか?」


 これを聞いた孫崧は断わりの言葉を述べて、


「私の知っている人の中で、君程の人はいなかった。書物を分けてあげよう」


 と言い書物を渡した。しかしながら邴原はかつて幼く貧しい自分に学びの手を伸ばしてくれた先生の志に共感したためであり、そういった志の触れ合いこそが彼の学問の真髄だと思っているだけにこのような書物をもらうだけでは意味は無い。それでも彼は孫崧の気持ちを尊重し、書物を受け取って帰った。しかし、家に帰ると書物を全部仕舞い込み、旅に出てしまった。


 遠くに遊学に行き、八、九年してから帰った。


 遊学中の邴原は酒を飲まなかったため、師や友人が米肉を贈った。すると邴原は苦笑してこう返した。


「本来は酒を飲めるのですが、酒は思いを乱して学業を廃すため、これを断っていたのです。今、遠くに別れるため、一宴を設けても差し支えありません」


 邴原は師や友人と共に坐って酒を飲み、終日酔うことはなかったという。

 

 このように管寧と邴原は操尚(高尚な節操。または節操と志向、理想)によって称えられており、公孫度は館舎を空にして迎え入れた。


 管寧は公孫度に会ってから、山谷に廬(家。小屋)を建てた。


 当時、難を避けた者の多くは郡の南に住んでいたが、管寧だけは北に住み、故郷に帰るつもりがないという意志を示した。


 後に管寧に従う者が徐々に増え、一月足らずで邑(村)が形成された。


 管寧は公孫度に会うといつも経典だけを語り、世事には言及しようとしなかった。山に還ったら『詩』『書』に専念し、祭祀について習い、学者以外は会わなかった。


 そのため公孫度は管寧を賢人とみなして安心し、民はその徳によって教化された。実際のところは公孫度を警戒して、彼から遠ざかったのである。


 一方、邴原は性格が剛直で、不合理な事象を批難した。そのため公孫度以下の者は心中で不安になった。これにより、邴原が処罰されると心配した管寧は邴原に言った。


「潜龍とは姿を見せないことで徳を成すものだ。言がその時ではなければ、全て禍を招く道になる」


 管寧は秘かに邴原を逃げ帰らせた。


 公孫度はこの事を聞いたが、追いかけなかった。管寧はこのある意味、猜疑心が強いなどの警戒心の強い公孫度との付き合い方が上手かったと言えるだろう。


 王烈は器業(才能・学識)が常人を越えており、若い頃から名声が邴原や管寧よりも上で、教え諭すことに長けていた。


 郷里に居た頃、牛を盗んだ者がいた。牛の主がこれを捕えると、盗んだ者は謝罪した。


「刑罰は甘んじて受けますが、王彦方(彦方は王烈の字)には知らせないでください」


 これを聞いた王烈は人を送って牛の主人に謝罪し、盗人を釈放させ、盗人に布を贈った。


 ある人が王烈に理由を問うと、王烈はこう言った。


「盗人は私がその過ちを聞くことを懼れた。これは悪を恥じる心があったためだ。既に悪を恥じることを知っているのならば、善心が生まれるだろう。だからこそ、布を与えることによって、善になるように勧めたのだ」


 後にある老父が路で剣を無くした。道を歩いていた者が剣に気づき、傍で見守っていた


 日が暮れてから、老父が戻って来て剣を探し出した。


 老父は知らない者が剣を見守っていた事を不思議に思い、王烈に報告した。王烈が人を送って剣を見守っていた者を探させたところ、その者は以前、牛を盗んだ者であった。


 是非曲直を争って王烈に判決を求めようとした者がいても、ある者は道に就いてから思い直して帰り、ある者は王烈の家を眺め見て帰り、皆、直(実直誠実)を互いに推進して王烈に聞かれないようにした。


 公孫度がそんな王烈を長史に任命しようとしたが、王烈は辞退し、商人になることで自分の身を貶めたため、任官から免れられた。


 


 


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