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三国志  作者: 大田牛二
序章 王朝はこうして衰退する
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梁冀

 159年


 梁皇后は姉の梁太后と兄の梁冀りょうきの庇護と権勢に頼り、ほしいままに奢侈を極めていた。姉である梁太后は清廉な人であったが、妹の彼女はその性質を持たなかったようである。


 彼女の奢侈のために消費された金品などは歴代皇后の数倍にもなり、しかも寵愛を独占して他の者を嫉妬したため、他の妃嬪が桓帝の寵を受けられなくなった。


 しかし梁太后が死んでからは桓帝かんていの梁皇后に対する恩寵が急速に衰えた。


 梁皇后には後嗣が生まれず、彼女自身の嫉妬心が強すぎることもあり、他の宮人が孕育(妊娠)しても毒殺などの手段を用いたため、全うできた者はわずかしかいなかった。


 桓帝は梁冀を畏れて梁皇后を譴怒できなかったが、稀にしか彼女の元に行かなくなった。梁皇后はますます憂恚を抱いた。


 そんな梁皇后がこの年、死んだ。外戚として彼女を失うことは本来、権力を失うことの方が多いが梁冀は妹を失っても権力は更に強まるばかりであった。


 梁家一門は前後して七侯、三皇后と六貴人、二大将軍を輩出し、夫人や娘で食邑を持って「君」を称した者は七人、公主と結婚した者は三人、その他にも卿、将、尹、校になった者が五十七人もいた。


 梁冀は威柄(威権・権勢)を専断して、凶恣(強暴放縦)が日に日にひどくなるばかりで、宮衛や近侍は全て近親の者を置き、禁省(禁中)の起居(皇帝の動向)は些細な事まで必ず把握していた。


 彼の権威の凄まじく、四方から調発(調達・徴発)した物や、毎年献上される貢物は、いつも先に上第(第一品。最も優れた物)が梁冀に送られ、皇帝はその後にまわさ、官を求めたり免罪を請いたい吏民は貨財を持って梁冀を訪ね、多くの人が道に連なるほどであった。


 また、百官が遷召(異動。昇格・召還)された際は、皆まず梁冀の門を訪ねて恩を謝す文書を提出してから尚書を訪ねて正式に任命を受けた。


 ある日、下邳の人・呉樹ごじゅが宛令になった時、着任する前に梁冀を訪ねて別れの挨拶をした。


 宛の県内には梁冀の賓客が分布していたため、梁冀は賓客の力になるように求めた。


 しかし呉樹はこう言った。


「小人は姦蠹(害虫。姦悪を為す者)なので、家々で誅殺なさすべきです。明将軍は上将の位にいるため、賢善を崇めることで朝闕(朝政の欠陥)を補うべきにも関わらず、梁冀に侍って坐ってから一人の長者を称賛するのも聞いたことがなく、逆に非人(相応しくない人)を多く託しています。誠に聞くに堪えません」


 梁冀は思わず、沈黙したが、心中不快であった。


 呉樹は県に到着してから梁冀の客で人(民)の害となっている者を数十人誅殺した。


 後に呉樹は荊州刺史に任命され、また梁冀に別れを告げに行った。すると梁冀は呉樹に鴆毒を飲ませた。


 その結果、呉樹は梁冀の家を出てから、車上で死んでしまった。


 また、遼東太守・侯猛こうもうは任命された時に梁冀を謁見しなかった。すると梁冀は理由を探して侯猛を腰斬に処した。


 郎中・袁著えんしゃは十九歳で宮闕を訪ね、上書した。


「四時の運(四季の運行)といいますのは、盛んな時に至った後は減退するものです。高爵・厚寵が災いを招かなかったことはほとんどありません。今、大将軍は位が極まり功が成りましたので、特に警戒して、懸車の礼(隠退の礼)を遵守し、高枕頤神(枕を高くして精神を保養すること)するべきです。言い伝えではこう言っています。『実が多すぎる木は、枝が割れて心(中心。幹や根)が害される』もし盛権(盛んな権勢)を抑損(抑制)しなければ、その身を全うできなくなるでしょう」


 これを聞いた梁冀は秘かに人を送って掩捕(不意を突いて突然逮捕すること)しようとした。


 袁著は姓名を変え、病のため死んだと偽り、蒲草を結って人の形を作ってから棺を買って殯送(埋葬)した。


 しかし梁冀はこれを偽りだと知ると袁著を探して捕まえ、笞殺(鞭殺)した。


 太原の郝絜かくけつ胡武こぶは危言(直言)・高論(高尚な談論)を好み、袁著とも親しくしていた。


 二人はかつて連名で三府(三公府)に文書を提出し、海内の高士を推薦したが、梁冀には送らなかった。


 袁著が死んでから、梁冀は遡って怒りを抱き、中都官に勅令した。中都官から移檄(公文書。命令書)を発して郝絜と胡武を逮捕させたのである。


 胡武の家族は誅殺されて死者が六十余人に上った。


 郝絜は始めは逃亡したが、逃げられないと知り、自ら棺を持って梁冀の家に書信を送った。書信を門に入れてから毒薬を飲んで死んだ。そのおかげで家族は助かることはできた。


 安帝の嫡母で耿況の子孫である耿貴人が死んだ時(いつの事かは不明)、梁冀は耿貴人の従子(兄弟の子)に当たる林慮侯・耿承こうしょうに要求して耿貴人の珍玩を得ようとした。しかしそれを拒否されたため、梁冀は怒って耿承と家の者十余人を皆殺しにした。


 涿郡の人・崔琦さいきは文才によって梁冀に称賛されていた。恩寵を受けていることから話しを聞いてくれると思った崔琦は『外戚箴』と『白鵠賦』を作って梁冀を婉曲に諫めた。


 それを聞いた梁冀が怒ると崔琦はこう言った。


「昔、管仲が斉で相になった時は、楽しんで譏諫の言を聞いたものです。蕭何が漢を輔佐した時は、書過の吏(過失を記録する官吏)を設けました。今、将軍は代々国を輔佐する重臣となられ、その任が古の伊尹・周公と等しいのに徳政をまだ聞かず、黎元(民衆)が塗炭(泥や炭火。困難な状況)にいるのに貞良と結納(交際)して禍敗から救うことができず、逆に士の口を塞ぐころにして主の聴(国君の耳)を杜蔽(隔絶。塞いで覆うこと)しようと欲しておられます。玄黄の色を改めて鹿と馬の形を変えるつもりでしょうか」


「玄黄」は黒と黄色で「天地の色」のことである。その色を改めるというのは天と地を転倒させることを意味する。「鹿と馬が形を変える」というのは、秦の二世皇帝と趙高の故事を指す。


 梁冀は返す言葉が無くなり、崔琦を故郷に帰らせた。これは梁冀が崔琦を必要としないようになったことを意味しており、殺す気であると思った崔琦は懼れて逃亡し、身を隠したが、結局、梁冀に捕まって殺されてしまった。


 逆らう者を容赦なく殺し、もはや誰も彼に逆らえない方と見えたが、彼の栄華は突然に終わろうとしていた。



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