歴史の裏側の住人たち
データが吹っ飛んだ。
四月、董卓が長安に入った。
公卿が皆、出迎えて車の下で拝した。董卓はそんな中に御史中丞・皇甫嵩の姿を見つけると彼の手をとってこう問うた。
「義真(皇甫嵩の字)よ、私を怖れるか?」
皇甫嵩はこう答えた。
「あなた様が徳によって朝廷を輔佐するならば、大慶が至るため、何を怖れるのでしょうか。もしも妄りに刑を用いて満足しようとするのならば、天下が皆懼れます。どうして私だけのことなのでしょうか?」
董卓は彼の言葉に笑い、以降、皇甫嵩を恨まなくなった。
董卓の配下が董卓を尊んで太公(西周の功臣・呂尚)と同等にし、「尚父」という尊称を使おうとした。
董卓が蔡邕に意見を求めると、蔡邕は止めた。
「あなた様の威徳は誠に巍巍(高大な様子)としていますが、太公と比べまるに、愚見ではまだ相応しくありません。関東を平定し、車駕が旧京に還るのを待って、その後にこれを議すべきです」
董卓はあきらめた。
蔡邕は遷都によって、関東の地が漢王朝の支配の手を離れるだろうと考えており、董卓の力を使ってでも関東の支配権を取り戻すべきだと考えたのだろう。
董卓が司隸校尉・劉囂に命じ、吏民の中で、「人の子でありながら不孝な者」「臣下でありながら不忠な者」「官吏になりながら清廉ではない者」「弟でありながら不順な者」を登記させました。
全てその身が誅殺され、財物は官に没収された。
この後、人々は互いに誣告し合い、冤罪で死んだ者が千を数えた。
百姓は囂囂(喧噪、または怨恨や誹謗の様子)とし、道で会っても敢えて話をせず、目で相手を見るだけになるという有様であった。
「全く、末期という有様ねぇ」
貂蝉はそんな町並みを眺めながら呟く。
「まあ、見飽きた景色に興味は無いけどね……そんなことよりもあれを中々見せないのよねけ」
項羽の小剣を董卓が持っていることはわかっているが、その小剣を一度足りとも董卓は見せようとしないのである。
「女であることを使ってどうにか……」
そこまで考えてから彼女は董卓の部屋から出てくる男に目を細めた。
「あれは……」
至って普通の男に見えるが、その気配は散々感じたことのあるものであった。
「仙人がなんで……私を始末しにきた?」
明らかに仙人界にいたことのある者の気配を感じたが、自分を討伐しに来たにしては弱いと感じる。
「まあ確かめましょ」
そう言って彼女は暗がりの中に隠れた。そして、男が暗がりに近づいた時に彼を引き込み、首元に剣と化した手を当てる。
「あんた何者?」
貂蝉が男にそう囁く。
「あなたは……」
男は貂蝉を見て、怯えたような声を出す。男は貂蝉の正体にすぐに気づいたのである。
「そう、わかるわよね。仙人だもんね。でも、そんなあんたが、なんで董卓の部屋を出入りしていたの?」
「私は医者なので……」
男はそう言ったため貂蝉は眉をひそめる。
「仙薬でも渡しているの?」
「いや、そのような特別なものではありません。私は普通の薬草から作ることのできる医薬しか作りません」
「ふうん」
貂蝉は男から離れた。
「それで、仙人で医者の真似事をしているあんたの目的は何?」
「真似事ではなく、実際に医者でございます。名は張機と申します」
彼は後世では張仲景と姓と字で呼ばれる方が有名である。
「医者よりも仙人の方がいいんじゃないの、下界に降りてまでやることかしらね」
「多くの人々を医術で救うにはあそこにいてはできないことですので……」
彼はそう言ってからこう続けた。
「あそこで永遠に学び続けることも確かに有意義ではあったものの、それだけでは下界の者と関わらなければこれ以上の成長は無いと感じる者が多くなっていたのです」
「あんただけじゃないの。降りてきたの?」
「ええ、華佗、董奉といった私と同じように医学を学び、それを世の中に活かしたいと思った者たちやその他の者たちも降りてきています」
彼とその二人を合わせて後世においては建安の三名医と呼ばれることになる人物たちである。
「なんで、そんな状態になっているの?」
「それは……あなたもご存知の方の影響もあります」
「誰?」
「黄石公です」
「あれがあ?」
あれに影響されるとは、こいつらは相当毒されているんじゃないかと貂蝉は思った。
「人の世に拘り続けるあの方の姿勢に多くの者が共感し、下界に降りる道を選んだのです」
「ご苦労なことねぇ」
貂蝉とすれば、あの黄色い服の男に影響される理由が全くと言ってわからない。
「まあ、取り敢えず、私に関係して出てきたってわけではないのね?」
「はい、少なくとも私はそうです……」
「私に関係しそうなやつも出てきているの?」
「それはわかりません。何人かは危険な思想をもって出てきた者もいます。于吉や費長房は少し危険かもしれません。まあ于吉の方は手を出さないと思いますが……」
「その二人はどんな考えを持っているの?」
「費長房は妖魔退治の過激派です、仙人たちが消極的であるに対して、彼は徹底的に滅ぼすべきと申していますので……」
「そいつ雷震子みたいなやつね」
かつて雷を落としながら襲いかかってきたため返り討ちにしたやつを思い出しながら貂蝉は呟く。
「于吉はあまりいい噂を聞かない男です……なんでも彼は盗跖の研究を行ったりしていたとか……」
貂蝉は眉をひそめた。
「取り敢えず、あんたが知る限り降りてきたやつを教えなさい」
「はい、わかりました」
張仲景は左慈、甘始、葛玄、大費、皇象、厳武、宋寿、曹不興、鄭嫗、呉範、劉惇、趙達とその妹、張衡の妻などを挙げた。
「大費……」
貂蝉はその名だけは違和感を持っていた。昔そんな名を使っていたことのあるやつがいたからである。しかしながらその者は既に世を去っているはずである。
「大費ってやつはどんなやつ?」
「あまり存じ上げませんが、地形と生物について学んでいた男であると聞いています」
「ふうん……」
まあ知っているやつではなさそうである。
「そいつらの中で危険なのはいないのね」
「ええ、恐らくはですが……」
「まあ、教えてくれたから見逃してあげる。一応、董卓は悪人だからあまり関わらない方がいいわよ」
「私は悪人であろうと善人であろうともできる限りならば救うだけなので、ご忠告感謝します」
張仲景は頭を下げてから立ち去っていった。
「全く、わざわざ降りてくるなんて、物好きな連中よね」
貂蝉はそう呟いてから自室に戻っていった。
仙人の座から降りてきた彼らだけではなく、名の上がらなかった者たちによって、この時代、民間を含めて、道家思想は広く浸透し、一種の流行となっていくことになるのは、別の話である。
雲海が広がる川岸にて、二人の男がいた。黄色い服の男と仮面の男である。
「天の道の悠々足るかな」
黄色い服の男は雲海を眺めながらそう呟いた。
「かつてここである男がそう呟いたそうだ」
「そうですか……それでなぜこのような場所に?」
「何、ちょっと見ときたいものがあってな」
黄色い服の男がそう言って進むとある石碑が見えた。
「この石碑は?」
「この世でもっとも歴史の深淵を除き、深淵の中に隠れてしまった男のものさ。なあそうだろう?」
黄色い服の男がそう声をかけた先に、真っ白な服、真っ白な髪の男が歩く姿が見えた。
「乱世という暗闇を歩く者のための輝きとしてあの書物を残した男だと言うのに、儒家の大家の言葉を伝えやすくした男でもあるというのに、この石碑の文字はほとんど読めはしない。全く、人ってやつは感謝の心を知らないものだな。そうは思わないか?」
「励ましておいでですか?」
男がそう問いかける。
「いや、からかっているだけさ。左元放」
「そうですか……変わった御人だ」
左元放……左慈は無表情で答える。
「やれやれ真面目なやつはからかい概が無いなあ」
「なぜ、私を見る?」
黄色い服の男の視線に仮面の男は呆れるようにいう。黄色い服の男はそれに肩をすくめると再び左慈に言った。
「それで実際に見て、どうだ?」
「特に何も……ただ……年月が経ったとはいえ、無常な世であることを感じるのみです」
左慈は哀れみを込めた表情で石碑を眺める。
「これからお前はどうするんだ?」
「取り敢えず、しばらくはこの時代の者たちの輝きを見届けようと思います。それでは……」
左慈は一度、石碑に拝礼を行ってから雲海のところに向かい、どこぞへと消えていった。
「彼とこの石碑はどのような関係が?」
「なに、ただの先祖への墓参りさ」
黄色い服の男はそう呟いた。
元仙人組の中に管輅も入れる予定だったのですが、生没年がはっきりしていたために没に。
葛玄は蝦蟇仙人という方が知られている人。葛洪の叔父。
大費はまあ知っている人は知っているあの人。一応、後の『捜神記』書くあの人の師匠になるという設定の人。
趙達の妹は中国史上初の女性絵描きさん。
于吉、華佗、左慈は本筋に関わることになる人たちですが、他の人たちは果たして関わることになるのかは不明です。




