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三国志  作者: 大田牛二
序章 王朝はこうして衰退する
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貨幣と度遼将軍

 157年


 ある人が上書した。


「民の貧困は貨幣が軽くて薄すぎることが原因です。大銭に改鋳なさるべきです」


 この件は四府(大将軍府と三公府)に下され、群僚や太学の能言の士(独特な見解があり、弁論の能力がある士)が討議に参加した。


 そこで太学生・劉陶りゅうとうが意見を提出した。


「当今の憂いは貨(貨幣)にあるのではなく、民の飢えにございます。窺い見るに、近年以来、良苗が蝗螟(害虫)の口において尽き、杼軸(機織の機械。ここでは布を指す)が公私の求めによって空になっています。民が患いとしているものが、銭貨(貨幣)の厚薄、銖両(一銖一両。貨幣の単位)の軽重でしょうか。たとえ今、沙礫を南金(南方が産出する銅)と化し、瓦石を和玉(卞和の玉。宝玉)に変えたとしても、百姓に対しては渇いても飲む物がなく、飢えても食す物がない状況にさせるだけに過ぎません。これではたとえ皇・羲(天皇氏と伏羲氏)の純徳と唐・虞(堯・舜)の文明(文徳・英明)があったとしても、蕭牆(宮室の入り口の低い壁。臣下が君主に謁見する時に設けられる垣)の内を保つことはできないでしょう。民とは百年にわたって貨(貨幣)がないことは許されますが、一朝において飢えがあることは許されません。食が至急(最も緊迫した問題)になるのです。しかし議者は農殖の本(農業生産が国の根本であるという道理)に達していないため、多くが鋳冶の便(貨幣鋳造の便宜)を語っております。恐らく万人が貨幣を鋳造して一人がそれを奪ったとしても、まだ供給できないのに、今は一人が鋳して万人が奪っているのです(なおさら足りません)。たとえ陰陽を炭とし、万物を銅とし、不食の民(食事を必要としない民)を労役させ、不飢の士(飢えることがない士卒)を使役したとしても、まだ無厭の求(際限がない要求)を満足させることはできないでしょう」


「民を充足させて財を豊かにすることを欲するのならば、要は労役を止めて搾取を禁じることにあります。そうすれば百姓が労することなく充足できましょう。陛下は海内の憂戚(憂愁)を憐憫し、鋳銭斉貨(貨幣を鋳造して資財を集めること)によってその弊(弊害)から救うことを欲していますが、これは魚を沸鼎(沸騰した鼎)の中で養い、鳥を烈火の上に棲ませるようなものです。水・木は本来、魚・鳥が生まれる場所ですが、用いる時を間違えてしまえば、必ずや焦爛を招くことになりましょう」


「陛下が鍥薄(酷薄)の禁を寛大にし、冶鋳(貨幣鋳造)の議を後にし、民庶の謠吟(歌謡)を聴き、路叟(路傍の老人。民衆)が憂いとすることをお問いになり、三光の交耀(日月星の輝き)を観察し、山河の分流(「山分」と「河流」。「山分」は山崩れ、「河流」は洪水や河が枯渇すること)を視ることを願います。そうすれば、天下の心も国家の大事も全て明らかな様子として見ることができ、遺惑(遺漏と疑惑)となるものが無くなります」


「伏して考えますに、当今は地が広いのに耕作されておらず、民が多いにも関わらず、食す物がなく、多数の小人が昇進を競って国の位(高位)を掌握しており、天下に鷹揚(鷹が空を飛ぶように堂々としていること。武威を示すこと)して鳥が飽食を求めるように財貨を奪い、皮膚や骨を全て呑み込んでもまだ満足しません。誠に役夫、窮匠が突然、版築の間に起ち、斧を投げて袖をまくり、高くに登って遠くに叫び、愁怨の民を饗応雲合させることを恐れます。そうなれば、たとえ方尺の銭(一尺四方の大銭)があったとしても、どうしてその危(天下の危機)から救うことができましょうぁ」


 貨幣を改めて鋳造するという意見は却下された。


 158年


 五月、日食があった。


 太史令・陳授ちんじゅが小黄門・徐璜じょこうを通じて桓帝に、


「日食の変における咎は大将軍にあります」


 と述べた。


 これを聞いた梁冀りょうきは雒陽令に示唆して陳授を逮捕拷問させた。その結果、陳授は獄中で死んだ。


「王朝の忠臣が殺されてしまった」


 この事件があってから桓帝は梁冀に対して怒りを抱いた。今まで媚びるほどまでに彼の目を気にしていた桓帝が怒りの感情を持ったのである。







 十二月、南匈奴の諸部がそろって叛し、烏桓、鮮卑と共に縁辺の九郡を侵した。


 桓帝は京兆尹・陳亀ちんきを度遼将軍に任命した


 陳亀は若い頃から志気(志と気力)があり、永建年間(順帝時代)に孝廉に挙げられ、五遷して(五回昇格して)五原太守になった人物である。


 使匈奴中郎将になった時、南匈奴の左部が反した。陳亀は単于が下の者を制御できず、外見は恭順でも内心は離反していると考え、逼迫して自殺に追い込んだ。そのため朝廷に召されて獄に下され、官を免じられることになった。


 後に再び昇格して京兆尹になった。その頃、三輔では強豪な族(豪族)の多くが小民を侵害していた。


 陳亀は着任してから威厳を振るい、怨屈の者(冤罪を訴えている者や怨みを抱いている者)をことごとく公平に審理していった。その結果、郡内の人々は大いに悦んだ。


 ちょうど羌胡が辺境を侵して長吏を殺し、百姓を駆逐略奪した。


 桓帝は陳亀が代々辺俗に詳しいため、度遼将軍に任命したのである。


 陳亀は着任する前に上書して、涼州・并州の民の負担を除き、刺史や太守を選びなおすように進言した。


 桓帝は幽・并二州の刺史を改めて選び、営、郡太守・都尉以下、多くの者を革易(交替)させた。


 また、詔を発して、


「陳将軍のために并・涼の一年の租賦を除き、それを吏民に与えることにする」


 と述べた。


 陳亀が着任してから、州郡が戦慄した。陳亀が削減した経費は年に億を数えたという。どれほどこの時代の官吏が堕落していたのかがわかる。


 桓帝が詔を発し、安定属国都尉・張奐ちょうかんを使匈奴中郎将に任命して匈奴や烏桓らを討伐させた。


 匈奴と烏桓は度遼将軍の門を焼き、兵を率いて赤阬に駐軍した。


 煙火を見た張奐の兵衆は大いに恐れ、それぞれ逃亡しようとした。しかし張奐が帷中で安坐(安定して坐ること)して平然とした態度で弟子に経典を講誦(講義・朗読)したため、軍士が少しずつ落ち着いた。


 張奐は秘かに烏桓を誘って和通した。その後、烏桓を使って匈奴と屠各の渠帥を斬らせ、その兵衆を襲って破った。諸胡が全て張奐に降った。


 張奐は南単于・車児(伊陵尸逐就単于)が国事を統理できないと考えたため、単于を逮捕して左谷蠡王を単于に立てるように上奏した。


 しかし桓帝は詔を発してこう答えた。


「『春秋』は正道を守ることを貴んでいる。車児は一心に向化(帰順)している。何の罪があって廃すのか。車児を送って庭に還らせよ」


 大将軍・梁冀りょうきは陳亀との間にかねてから対立があったため、


「陳亀は国威を損ない、功誉(功績と名誉)だけを求めており、胡虜に畏れられていない」


 と讒言した。


 陳亀は罪に坐して京師に呼び戻された。


 朝廷はその後任に种暠ちゅうこうを度遼将軍に任命した。


 陳亀は引退を乞い、田里に帰りましたが、後に再び召されて尚書になった。後に梁冀の暴虐が日に日にひどくなったため、陳亀が上書してその罪状を述べ、誅殺するように請うたが、桓帝は取り合わなかった。


 陳亀は必ず梁冀に害されることになると知り、七日間絶食して死んだ。


『資治通鑑』の訳注を行った胡三省は、


「東都(東漢、後漢)の臣下で死をもって外戚を攻めたのは鄭弘と陳亀の二人だけである」


 と述べている。


 种暠はかつて曹騰そうとうに見出された人物である。彼が営所に到着するとまず恩信を宣布して諸胡を誘降した。服さない者がいてから討伐を加えていった。


 以前、漢兵に生け捕りにされて郡県の官府で人質になっていた羌虜の者は全て還らせた。


 誠心によって懐柔慰撫し、信賞を明確にしたため、羌・胡が皆、順服(帰順)しに来た。


 そこで种暠は烽燧や候望(見張り台)を除いた。すると辺境が安寧になり、警報がなくなった。


 种暠は後に朝廷に入って大司農に任命されることになる。


 

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