蹇碩
前年、張純と丘力居が青・徐・幽・冀四州を侵して略奪を行った。
霊帝は詔を発して騎都尉・公孫瓉に討伐させた。
公孫瓉は属国の石門で彼らと戦って大勝した。張純らは妻子を棄て、塞を越えて逃走した。公孫瓉は張純らが奪った男女を全て取り返した。
「さあ、追撃だ」
公孫瓉は追撃して深入りした。しかしながら後続がなかったため、逆に遼西管子城で丘力居らに包囲されてしまった。
二百余日後に食糧が尽きて軍が壊滅し、士卒の死者が十分の五、六に及んだ。ほぼ全滅というべき大敗である。
幽州牧・劉虞は州部に着いてからこの事態を知ると使者を鮮卑に送って利害を説き、張挙と張純の首を送るように要求した。代わりに厚く褒賞を加えることを約束した。
丘力居は烏桓の大人で、劉虞の恩信を感じたことがあったため、彼が来たと聞いて喜び、それぞれ訳(通訳)を派遣して自ら帰順した。
劉虞は朝廷に上書して諸屯兵を解散させたが、公孫瓉だけを留め、歩騎一万人を率いて右北平に駐屯させた。
三月、張純の客・王政が張純を殺し、劉虞を訪ねて首を届けた。張挙がこの後どうなったのかは分からないが、張純の起こしたこの戦いは一先ず集結した。
しかし、面白くは無いのは公孫瓉である。彼は今回の戦いで、烏桓を掃滅しようと志していたが、劉虞が恩信による招降を欲していたため、両者の間に対立が生まれるようになった。
朝廷において動きがあった。宦官・蹇碩が大将軍・何進を嫌い、諸常侍と共に霊帝を説得し、何進を派遣して西の韓遂らを撃たせようとしたのである。
霊帝はこれに従おうとした。
しかし何進は秘かにその謀を知った。
(これで私が何もしないと思っているのか?)
何進は袁紹を派遣して徐・兗二州の兵を集め、袁紹の帰還を待ってから西に向かうと上奏して、出征を先延ばしにした。
(やけに露骨な遠ざけだな)
何進は決して鈍い人では無い。この蹇碩の動きに何らかの理由があるように感じた。
「断固として朝廷から離れるわけにはいかないようだ……」
彼はそう呟いた。
霊帝は息子は二人しかいない。他の息子たちは皆、若くして病死している。そのため何皇后が生んだ子・劉弁は皇宮から出して道人(道術の士)・史子眇の家で養わせた。そのため劉弁は「史侯」と呼ばれている。
王美人が生んだ子・劉協は董太后に預け、彼女が自ら養った。そのため劉協は「董侯」と呼ばれている。
その二人の息子しかいない中、群臣は太子を立てるように霊帝に求めていた。霊帝は劉弁に関しては性格に軽率さがあり、威儀がないと思い、劉協を立てたいと思った。しかし躊躇して決められないまま、霊帝は病を患って重症になった。
(私が死ねば、劉協はどうなるだろうか)
何皇后は劉協のことを嫌っているため、必ずや害をもたらすだろうと考えた霊帝は寵臣の蹇碩に劉協を託した。
蹇碩は義理堅さを持っており、霊帝に託されたことは喜びであった。そのため彼はなんとしても劉協を帝位に即けたいと思った。
(陛下のお命はもう長くはない……)
そのため彼は何進を朝廷から遠ざけ、何進が西方に出兵している間に霊帝が死に、そのまま劉協を即位させるおうとしたのである。だが、何進は未だに朝廷を離れていない。
そしてついに霊帝が南宮嘉徳殿で死んだ。三十四歳という若さである。
霊帝への評価は桓帝よりは恐らく君主としての質はまともと言えなくはない。諡を逆にしてもいいぐらいである。しかしながら宦官や学者など政治経験の無い者の意見ばかりを政治に反映されたりとやはり君主としては問題があると言わざるをえない。
ただ、彼は学者の他、芸術家もよく用いた。ある意味、後の建安文学への流れの下地を作ったとも言えなくはないかもしれない。
霊帝が死んだ時、蹇碩は宮内にいた。
「ここで動かねば」
蹇碩は何進を誅殺して劉協を立てようと思い、何進と事を計る必要があるという理由で人を送って何進を迎え入れさせた。
何進は霊帝が死んだことに驚き、すぐに車を向かわせようとした。しかし蹇碩の司馬・潘隠が何進と旧交があったため、何進を迎え入れた時、目で合図を送った。
「そうか」
罠であると気づいた何進は車を駆けさせて儳道(近路)から営に帰ると、兵を率いて百郡邸(各郡国の官員が上京した時に住む邸宅がある場所)に入り、その地に駐留したまま病と称して入宮を拒否した。
その結果、霊帝の息子で長子である劉弁がそのまま皇帝の位に即いた。年は十四歳で、諡は無いが、後世では主に少帝と呼ばれている。
何皇后を尊んで皇太后とし、何太后が摂政を行うことになった。劉協は勃海王に立てられた。この時まだ九歳である。
後将軍・袁隗を太傅に任命し、大将軍・何進と共に尚書の政務を主管させた。
黄巾の乱の混乱からほどなく霊帝が死んだことで、乱世は更なる混沌へと突入していくことになる。




