異民族との戦い
155年
二月、司隸と冀州が饑饉に襲われた。後漢王朝は面白いほどに天変地異が毎年のように起こっている。そのため後漢王朝期の記述は古代の天候を知る上で貴重な情報源になっている。
桓帝は州郡に勅令して貧民・弱者を賑給(救済)させた。
王侯吏民に穀物の蓄積があれば、朝廷が暫く十分の三を借りて稟貸(救済)の助けにした。
百姓や吏民から借りた分は現金に換算して支払い、王侯から借りた分は新たに租税が入るのを待って返済することにした。
太学生・劉陶が上書して政事について述べた。
「天と帝の関係、帝と民の関係というのは、頭と足の関係のようなものですので、互いに同調して動かなければなりません。ところが陛下の目は鳴條の事(鳴條の戦い。湯王が夏王・桀を滅ぼした戦い)を視ず、耳は檀車の声(兵車の音。「檀車」は兵車)を聞かず、天災が陛下の肌膚を痛めることはなく、震食(地震や日食)が直接、聖体を損なうこともないため、陛下は三光(日月星)の謬(変異)を軽視し、上天の怒を軽んじておられます
「伏して高祖の起(興起)を念じるに、布衣(平民)から始まり、離散した人を集めて負傷した人を助け、帝業を克成(完成。勝ち取ること)し、その勤(勤労、勤勉)が極まりました。高祖が福を伝えて祚(帝位)を継承させ、陛下に至ったのです。しかし陛下は烈考の軌(偉大な先祖(または父)の道、足跡)を増明できず、しかも高祖の勤を軽視しており、妄りに兵権を与えて国柄を授け、醜い刑隷(宦官)の群れに小民(平民)を殺戮させ、虎豹の窟(巣)を麑場(子鹿を飼う場所。「麑」は子鹿)に作らせ、豺狼に春囿(春の園囿)で子を生ませています(「虎豹」と「豺狼」は宦官や奸臣の比喩)。そのため、貨殖の者(商人。裕福な者)は窮冤の魂(冤罪で窮した魂)となり、貧餒の者(貧困で飢えている者)は飢寒の鬼(霊)となり、死者が窀穸(長夜)に悲しみ、生者が朝野で憂愁しております。これが愚臣が長く嘆息する理由です」
「そもそも、秦が亡んだ時は、正しく諫めた者が誅され、阿諛追従した者が賞され、忠臣の口から正しい言葉が出なくなり、国命が讒口から出され、閻楽を咸陽令にし、趙高を車府令に任命したように、権が自分(皇帝)から去っていることを知らず、威がその身から離れても顧みませんでした。古今とも道理は一つで、成敗の情勢は同じです。陛下が遠くは強秦の滅亡を参考にし、近くは哀・平の変を察し、得失を明らかにして禍福を見られることを願います」
「私はこうとも聞いています。危は仁がなければ助けられず、乱は智がなければ救えない。私が窺い見ますに、元冀州刺史・朱穆と前烏桓校尉・李膺は共に正道を歩んで清平であり、高尚な貞節が俗人を超越していますので、中興の良佐(優れた輔佐)、国家の柱臣というべき方です。本朝に還らせて王室を夾輔(補佐)させるべきです。私が諱言の朝(真実を語ることができない朝廷)において敢えて不時の義(時宜に合わない道理)を吐くのは、冰霜が日(太陽)を見るようなものなので、必ず消滅に至ります。私は始めは天下の悲しむべきことを悲しみましたが、今は天下が私の愚惑(愚昧)を悲しんでいます」
上書が提出されたが、桓帝は取り合わなかった。
この時代、周辺の異民族の活動も活発である。
南匈奴の左薁鞬台耆、且渠伯徳らが反して美稷を侵し、東羌も種(族)を挙げてこれに応じた。
安定属国都尉・張奐は着任したばかりで、営壁内に二百余人しかいなかった。
彼は元大尉・朱寵の元で学問に打ち込んだことのある人である。
儒教の教典を解釈する方法の一つに章句の学というものがある。
これは経書を句や章節で区切り、その後に句の意味や章の要旨を講説する形式を持って解釈するというもので、前漢の今文経の博士たちのもとで行われた。しかしながら博士により多くの学説・思想が増殖されたため、一経の章句が百万言に及ぶまでになったものもあったという。このため後漢の古文学からは増長すぎて経書を正確に解釈していないとして批判されるようになった。
その中で『牟氏章句』というのがあった。余計な文句が多く、四十五万字余りという長さの書物であった。張奐はそれを添削して九万字まで減らしたことが大将軍・梁冀の耳に入ったことで彼は用いられるようになった。
さて、変事を聞いた張奐はすぐに兵を指揮して出陣した。
敵わないと判断した軍吏が叩頭して止めたが、張奐は聴かず、兵を進めて長城に駐屯した。因みにこの長城は秦の蒙恬が築いたもので、上郡に位置している。
張奐はそこで兵士を集め、将・王衛を派遣して東羌を招誘した。同時に亀茲県を占拠して南匈奴と東羌の交通を絶った。
東羌の諸豪は相次いで張奐と共に薁鞬らを撃ち、これを破った。
恐れた伯徳は衆を率いて投降した。こうして郡界が安寧にすることができた。
この後の彼の態度は見事なものであった。
羌豪が張奐に馬二十頭と金鐻八枚を贈った。
張奐は諸羌の前で酒を地に撒き(誓いを表す)、こう言った。
「馬が例え羊の群れのように大量になっても、厩舎に入れることはない。金が穀物のように大量になっても、懐に入れることはないだろう」
張奐は馬も金(金鐻)も全て返却した。
張奐以前の八都尉はほとんどが財貨を愛したため、羌人の患苦になっていた。
しかし張奐は身を正して己を廉潔にしたため、悦服しない者はなく、威化(威信と教化)が大いに行き渡るようになった。
後にあの董卓にさえ尊敬されることになることから、よほど上手い威化を行ったのだと思われる。
156年
鮮卑に一人の英雄が現れていた。その英雄の名を檀石槐という。
父の投鹿侯が南匈奴に三年間従軍している間に、彼の妻は男子を産んだ。その男子こそが彼である。
従軍から帰ってきた投鹿侯は自分が留守の間に妻が別の男と交わって産んだ子ではないかと疑い、その男子を殺そうとした。そこで妻が、
「ある時の日中、外を歩いていると雷鳴が聞こえ、天を見上げると、雹が私の口に入ったため、それを飲み込んだところ、身重になり、十ヶ月で子供が産まれました。この子はきっと非凡な力をもつにちがいありません」
と助命をしたが、彼はそれを信じず、妻と離別した。妻はその男子を実家の部族で養育することにした。
その後、檀石槐と名付けられた彼が十四、十五歳くらいになった頃に、別部族の大人である卜賁邑が檀石槐の生母の部族を夜襲し、その牛や羊を略奪した。
母の部族が襲撃されたと聞いた檀石槐は激怒し、一人で卜賁邑を襲撃し、母の部族の牛や羊を取り返してみせた。それ以来、檀石槐の名は諸部族に轟いた。
彼は勇健であると同時に智略もあったため、部落の人々に畏服された。檀石槐は法禁を発布して曲直(是非。正否)を公平にし、訴訟を処理した。その結果、法令を犯す者がいなくなり、檀石槐が大人(鮮卑の長)に推された。
檀石槐は弾汙山(または「弾汗山」)、歠仇水の辺に庭(朝廷。王庭)を立てた。
この後、鮮卑の兵馬が盛んになり、東・西部の大人が皆帰順するようになった。
そこで檀石槐は、南は漢の縁辺を侵し、北は丁零と対抗し、東は夫餘を退け、西は烏孫を撃ち、匈奴の故地を全て占拠した。領土が東西一万四千余里に及んだ。
七月、檀石槐が雲中を侵した。
朝廷は元烏桓校尉・李膺を度遼将軍に任命した。
李膺が辺境に至ると、羌・胡は皆、敬慕畏服し、それまでに奪った男女を全て塞下に送って還した。
太山賊・公孫挙、東郭竇らが衆を集めて三万人に達し、青・兗・徐三州を侵して郡県を破壊しまた。
朝廷が連年討伐しても勝てなかった。
尚書が困難な政務を処理する能力がある者を選んで司徒掾・潁川の人・韓韶を嬴長に任命した。
賊は韓韶の賢を聞くと互いに戒めて嬴の県境には入らないようにした。
他県の流民一万余戸が嬴の県界に入ったため、韓韶は倉を開いてこれを救済した。
倉庫の官吏がこれに反対したが、韓韶はこう言った。
「溝壑の人(山谷に落ちた人。瀕死の人)を長く活きさせて、そのために罪に伏すなら、笑って地に入ろうではないか」
太守はかねてから韓韶の名徳を知っていたため、勝手に倉を開いた罪を問わなかった。
韓韶と同郡(潁川)の荀淑、鍾皓、陳寔も皆、県長になったことがあり、着任した地で徳政によって称えられたため、当時の人々から「潁川四長」と称された。
以前、鮮卑が遼東を侵した時、属国都尉・段熲が管轄の兵を率いて駆けつけた。
しかし段熲は途中で賊が驚いて逃げてしまうことを心配した。そこで駅騎(早馬)に偽の璽書を持たせ、段熲を京師に招かせた。
段熲は途中で偽りの退却を始め、秘かに帰路に兵を埋伏させた。
鮮卑は段熲の退却を信じて入境し、段熲を追った。そこに段熲が伏兵を放ち、鮮卑はことごとく斬獲された。
段熲は璽書を偽った罪に坐し、重刑に伏すはずであったが、功績があったため司寇(二年の徒刑)に処され、刑期が満たされてから議郎になった。
本年、東方の盗賊が旺盛だったため、桓帝が詔を発して公卿に文武の能力がある将帥を選ばせた。
司徒・尹頌が段熲を推挙したため、桓帝は段熲を中郎将に任命した。
段熲は公孫挙、東郭竇らを撃って大破し、二人を斬って首一万余級を獲た。余党は降散した。
桓帝はこの功績を評価して、段熲を列侯に封じた。