西園八校尉
八月、霊帝は初めて西園八校尉を置き、小黄門・蹇碩を上軍校尉に、虎賁中郎将・袁紹を中軍校尉に、屯騎校尉・鮑鴻を下軍校尉に、曹操を典軍校尉に、趙融を助軍左校尉に、馮芳を助軍右校尉に、諫議大夫・夏牟を左校尉に、淳于瓊を右校尉に任命した。
それぞれ蹇碩の指揮下に入った。
「ふん、なぜこの私が宦官の下に付かねばならぬのか」
袁紹は忌々しそうにそう言った。
「全くですな」
それに淳于瓊も同意する。
「必ずや宦官から王朝を取り戻してみせるぞ、私は」
「本初殿ならばできましょうぞ」
袁紹の自信満々の言葉に同じように淳于瓊は称える。
「相変わらずだな、あの男は……」
曹操は袁紹の様子を見ながら呟く。袁紹はいつの時も自信満々である。どこからその自信が来るのか。
(まあ、それが羨ましくもある)
袁紹は良くも悪くも自信満々で行動をする。その姿に曹操は少しだけ嫉妬を覚える時はある。自分はあれほどの自信は持っていない。
「私はいつも迷ってばかりだ」
曹操はそう呟いた。
黄巾が挙兵してから、霊帝は軍事に心を留めているようになった。
今回の西園八校尉を置いたのもその一環である。その中で蹇碩を据えたのは彼が宦官であっても壮健で武略があったためである。霊帝は彼を親任し、大将軍でも領属(附属。指揮下に入ること)した。
ある日、望気の者(雲気・天象を観測する者)が、
「京師で大兵が起きて両宮で流血する」
と予言した。
霊帝はそれを抑えようと欲し、四方の兵を大いに徴発して平楽観の下で講武(武事の講習。閲兵)を行った。大壇を築いてその上に高さが十丈もある十二重の華蓋(豪華な傘、または屋根)を立てた。壇の東北にも小壇を造り、そこにも九重で高さ九丈の華蓋を立てた。
歩騎数万人を並べ、営を設けて陣を構えていった。
霊帝が自ら皇宮を出て軍に臨み、大華蓋の下で止まった。大将軍・何進も小華蓋の下に入る。
霊帝は甲冑を着て甲馬(甲冑を着けた馬)に乗り、自分を「無上将軍」と称した。陣内を三巡してから戻って兵を何進に授けた。
霊帝が討虜校尉・蓋勳に問うた。
「私はこのように講武(閲兵)をしたが、如何か?」
蓋勳はこう答えた。
「私が聞くに、先帝は徳を顕示して兵を閲兵しませんでした。今、賊が遠くにいるのに近くに陣を設けても、果毅を明らかにするには足りません。ただ武を濫用しただけです」
霊帝はこれを聞いてこう言った。
「素晴らしい。君に会うのが晩かったことを恨む。初め(閲兵をする前)群臣にこのような言はなかった」
これを聞いた蓋勳は袁紹に言った。
「陛下は甚だ聡明です。ただ左右の者に耳目を覆われているだけです」
蓋勳は袁紹と共に嬖倖(皇帝の近臣、宦官)を誅殺する策を謀った。しかし蹇碩がこれに気づき、蓋勳を朝廷から出して京兆尹に任命した。
十一月、涼州賊・王国が陳倉を包囲した。
霊帝が詔を発して再び皇甫嵩を左将軍に任命した。その下には前将軍・董卓がつけられた。皇甫嵩は彼を監督し、兵を合わせて四万人で王国討伐を行うことになった。
189年
年が変わった頃に皇甫嵩の率いる軍は涼州に近づいた。そこで董卓が皇甫嵩に言った。
「陳倉が危急なので、速やかに救うことを請います」
董卓にしては珍しい言動である。恐らく自分が先鋒になって手加減することを考えているのかもしれない。
しかしながら皇甫嵩は首を振った。
「それは違う。百戦百勝するよりも戦わずに人の兵を屈服させた方がいい。陳倉は小さいが、城の守りは堅固で備えがあるため、容易には攻略できない。王国は強いが、陳倉を攻めて下せなければ、その下の兵は必ず疲弊する。疲弊してから撃つのが全勝(完勝)の道である。なぜ救う必要があるだろうか」
(そんなに上手くいくとは思えんがな)
董卓からすればもはや陳倉は陥落必死である。
(まあ陥落して困るのはこの男で私では無い)
彼からすれば皇甫嵩が失敗するならば、それで良いのだ。
だが、皇甫嵩の言うとおり、王国は八十余日にわたって陳倉を攻めたが攻略できず、王国の軍は疲弊した。そのため王国は陳倉の包囲を解いて去った。
皇甫嵩が兵を進めてこれを撃とうとすると、董卓が反対した。
「いけません。兵法においては、窮寇(困窮した敵)は追いつめてはならず、帰る兵は追ってはならないものです」
(王国のだらしなさは予想外であったが、王国が潰れれば、涼州の混乱が治まってしまう)
それは董卓にとっては困ることである。
しかし皇甫嵩は、
「それは違う。以前、私が撃たなかったのはその鋭を避けるためだ。今これを撃つのはその衰弱を待ったからだ。撃つのは疲弊した軍であって帰る兵ではない。また、王国の兵は逃走しようとしており、闘志がない。整によって乱を撃つのは、窮寇を相手にするのではない」
と言って皇甫嵩は単独で進撃して董卓を後拒(後援、後衛)にした。
皇甫嵩が連戦して王国を大破し、一万余級を斬首した。
(おのれぇ)
全てが皇甫嵩の言うとおりに物事が進んだ。そのことが忌々しかった。このことから董卓と皇甫嵩の間で対立が生じるようになった。
韓遂らは共に破れた王国を廃し、元信都令・閻忠を脅迫して諸部を督統(統率)させようとしたが、閻忠が病死してしまった。そこで涼州の覇権を誰が握るかで韓遂らは争い始めた。
韓遂は王国が死んだ時点で自ら上に立とうとすればこのような混乱は起きなかったかもしれない。韓遂の悪癖は己自信が主導者になろうとはしないことで、他の者と肩を並べた状態であろうとするところだろう。それであれば、誰かの臣下になれば良いのにそうはしない。それが彼の悪癖というべきところである。




