各地の乱
今日は二話更新 12時にも更新します。
185年
二月、南宮の雲台で大きな火災があった。火は半月経ってやっと消えるほどの大火災である。
楽成門でも火災が起きた。
更に広陽門の外屋(外側の屋根、または建物)が自然に崩れた。
中常侍・張譲と趙忠が霊帝に進言し、天下の田から一畮(畝)当たり十銭を徴集して、宮室を修築して銅人を鋳造するように勧めた。
楽安太守・陸康が上書して諫めた。
「昔、魯の宣公が畮に税をかけたら蝝災(蝗害。「蝝」は蝗の幼虫)が自ずから生まれ、哀公が賦を増やした時には孔子が反対しました。どうして民物を聚奪(集め奪うこと)して無用の銅人を営み、聖戒を捐捨(損ない捨てること)して自ら亡王の法を踏襲することがありましょうか?」
これに宦官が、
「陸康は亡国の喩えを引用して聖明を比喩しており、大不敬に当たります」
と讒言したため、陸康は檻車で召還されて廷尉に送られた。
しかし侍御史・劉岱が上書して弁解したため、陸康は刑を免れて田里に帰ることができた。
天下の田に一畒あたり十銭の税が課されることになった。
霊帝が詔を発して州郡の材木・文石(模様がある石)を徴発し、京師に送らせた。
ところが、不合格な物品があると、黄門常侍がいつも該当する州郡を譴責させ、それを理由に強制的に値を下げて安く買ったため、元の価格の十分の一二にしかならなかった。
納めた物品が不合格だったた州郡が再び宦官に売っても、宦官がやはり厳しく検査してすぐに受け取らないため、材木が腐って積み上げられ、何年経っても宮室が完成しなかった。
刺史や太守も勝手に賦税を増やしたため、百姓が呼嗟(呼号哀嘆)した。
また、霊帝が西園騶(西園の騎士)に命じて道を分けて督趣(督促)させたため、州郡を恐動させた。西園騶も多くの賕賂(賄賂)を受け取った。
刺史・二千石および茂才・孝廉の任命昇進においては全て「助軍」「脩宮(修宮。宮殿の修築)」の銭を納めさせ、大郡の太守は銭二三千万に及び、その他の官の金額もそれぞれ差をつけて定められた。
官に就く者は西園を訪ねて価格の評定を終えてから赴任できるようになった。
清廉を守る者が任官を辞退しても、全て強迫して派遣した。
当時、河内の人・司馬直が新たに鉅鹿太守に任命された。司馬直には清名があったため、朝廷は額を減らして三百万を要求した。
詔を受けた司馬直は失望してこう言った。
「民の父母となりながら逆に百姓を搾取して時の要求を満足させるのは、私には堪えられない」
司馬直は病と称したが、朝廷は許さなかった。
司馬直は孟津まで来ると当世の失政を述べ尽くす上書を行い、薬を飲んで自殺した。
上書が提出されると、霊帝は暫く「脩宮銭」の徴集を中止した。
黄巾のら乱があってから、各地で盗賊が並び起った。
博陵の張牛角、常山の褚飛燕および黄龍、左校、于氐根、張白騎(張晟、劉石、左髭文八(または「左髭丈八」)、平漢大計、司隸縁城、雷公、浮雲、白雀、楊鳳、于毒、五鹿、李大目、白繞、眭固、苦蝤の徒がおり(これらは多くが綽名)、数えきれないほどの盗賊が各地を荒らした。
大きい集団は二三万人、小さい集団でも六七千人を擁していた。
張牛角と褚飛燕が軍を合わせて癭陶を攻めた。
しかし張牛角が流矢に中ってしまった。張牛角は死ぬ前にその衆に命じて褚飛燕を大将に立てさせ、褚飛燕を張氏に改姓させた。
張飛燕は元々、燕という名であったが、軽勇趫捷(軽快勇猛かつ壮健敏捷)だったため、軍中で「飛燕」と号された。
山谷の寇賊の多くが張飛燕に附き、部衆が徐々に拡大して百万近くになった。これを「黒山賊」という。
河北諸県がそろって害を被りましたが、朝廷は討伐できなかったが、そこに張飛燕が使者を京師に送って投降を乞う上書を提出したため、朝廷は張燕を平難中郎将に任命し、河北諸山谷の諸事を管理させ、毎年、孝廉を推挙する権利を与えて、計吏を朝廷に派遣させた。
司徒・袁隗が罷免され、三月、廷尉・崔烈が司徒に任命された。
当時の三公は往往にして常侍や乳母を通して西園に金銭を納めたため、その官職を得ることができた。
段熲、張温らも功労・名誉があったが、先に貨財を納めてから公位に登った。
崔烈は程夫人を通して銭五百万を納めたため、司徒になることができた。
拝命の日、霊帝が自ら出席し、百僚が集合した。
霊帝が顧みて親幸の者にこう言った。
「官位を与えるのをもう少し渋れば千万銭になったはずだ」
傍にいた程夫人が応えた。
「崔公は冀州の名士です。どうして官を買おうとするでしょうか。私のおかげでこれを得たのに、逆に美事だと思わないのですか?」
この後、崔烈の名声栄誉は急速に衰えた。
涼州の北宮伯玉らが三輔を侵した。
霊帝は北宮伯玉らを討つために、詔を発して左車騎将軍・皇甫嵩に長安を鎮守させることにした。
当時は涼州の兵乱が止まなかったため、天下から際限なく役賦を徴発していた。そのため崔烈が涼州を棄てるべきだと主張した。
霊帝は詔を発して公卿百官を集め、この意見について討議させると議郎・傅燮が厳しい口調で言った。
「司徒を斬らなければ天下は安定しません」
尚書が傅燮を弾劾する上奏を行い、
「朝廷で大臣を侮辱した」
と訴えた。
ここで上奏のまま処罰せずに霊帝は傅燮に理由を問うた。いつもこうであれば、もっと政治は安定していたはずである。傅燮はこう答えた。
「樊噲は冒頓単于の悖逆(正道に背くこと)によって憤激して思いを奮わせ、人臣の節を失わなかったのに、それでも季布が『樊噲を斬るべきだ』と言いました。今、涼州は天下の要衝で、国家の藩衛です。高祖が初めて興きた時、酈商を使って別に隴右を定めさせました。武帝が国境を拡げた時は、四郡を列置(設置)し、議者はこれを匈奴の右臂を断ったとみなしました。今、牧御(刺史の政治)が和を失い、一州を叛逆させていますが、崔烈は宰相でありながら、国のために叛逆を止める策を考えようとせず、逆に一方万里の地を割棄(放棄)しようと欲しているため、私は心中で困惑したのです。もしも左袵の虜(少数民族。「左袵」は向かって左の襟が上になる服装)をこの地に住めるようにすれば、兵士が強く甲冑が堅固であるため、これを機に乱を為すでしょう。これは天下の最大の憂慮、社稷の深憂というべきです。もし崔烈が知らなかったのだとしたら、これは暗愚というべきでしょう。もし知っていて故意に言ったというのであれば、これは不忠です」
霊帝は傅燮の意見を称賛して採用した。




