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三国志  作者: 大田牛二
序章 王朝はこうして衰退する

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漢の威令

 152年


 正月、西域長史・王敬おうけいが于窴(国名)に殺された。


 経緯を説明する。


 以前、西域長史・趙評ちょうひょうが于窴におり、癰(腫物)ができて死んだ。


 趙評の子が喪(霊柩)を迎えに行き、途中で拘彌国を通った。。


 拘彌王・成国せいこくは于窴王・けんとかねてから対立があったため、趙評の子にこう言った。


「于窴王が胡医に命じ、毒薬を持って傷に塗らせたために、あなたの父は死に至ったのだ」


 趙評の子はこれを信じ、還ってから敦煌太守・馬達ばたつ(または「司馬達しばたつ」)に告げた。


 ちょうど王敬が代わりに西域長史になったため、馬達は王敬に命じて秘かに于窴の事件を調査させた。


 王敬はまず拘彌国を訪ねた。


 成国はこう言った。


「于窴の国人は私を王にしたいと欲しています。今、この罪を理由に建を誅殺することができます。于窴は必ずや服すことになりましょう」


 王敬は新任で功績を求めていたため、窴国に入ると供具(宴席に使う器具や酒食)を設け、于窴王・建を招いて陰謀を図った。


 ある人が王敬の謀を于窴王・建に告げたが、于窴王・建は信じず、


「私に罪がないのに、王長史がなぜ私を殺そうと欲するというのか」


 と言った。


 翌日、于窴王・建が官属数十人を従えて王敬を訪ねた。席が定まってから于窴王・建が立ち上がって酒を勧めた。


 すると王敬は左右の者に叱咤して于窴王・建を捕えさせた。しかし吏士には于窴王・建を殺す気がなかった。宴に参加した官属は全て包囲を破って逃走した。


 この時、拘彌王・成国の主簿・秦牧しんぼくが王敬に従って宴会に参加していた。秦牧は刀を持って


「大事が既に定まったにも関わらず、なぜ躊躇するのか」


 と言い、前に進んで于窴王・建を斬った。


 この事件を知った于窴の侯や将・輸僰ゆほくらが兵を集めて王敬を攻撃した。


 王敬は于窴王・建の頭を持って楼に登り、


「天子が私に建を誅殺させたのである」


 と宣言した。


「だからどうした」


 しかし輸僰は無視して楼を登り、王敬を斬って首を市に掲げた。


 輸僰はその後、自ら王に立ったが、国人は輸僰を殺して建の子・安国あんこくを立てた。


 王敬の死を知った馬達は、于窴を討つために諸郡の兵を率いて塞から出撃しようとした。しかし桓帝かんていはこれに同意せず、馬達を召還して代わりに宋亮そうりょうを敦煌太守にした。


 宋亮は于窴の民を開募(教導して人を募ること)し、彼ら自ら輸僰を斬るように命じた。


 この時、輸僰が殺されて既に一月が経っていたため、于窴の人は死体の頭を斬って敦煌に送ったが、輸僰が既に死んでいたことは報告せず、自らの手で殺したことにした。


 宋亮は後に偽りを知りましたが、討伐する力はなかった。


『資治通鑑』の訳注をつけた胡三省はこう書いている。


「史書は漢の威令が二度と西域に行き届かなくなったことを語っているのだ」









 153年


 七月、三十二の郡国で蝗害が発生し、河水(黄河)が溢れた。


 百姓が饑窮して路上で流散し、その数は数十万戸に上り、冀州で最も被害が出た。


 それを受けて桓帝は詔を発して各地で窮乏した者を救済させ、民を按撫して住居や家業を安定させた。


 また、桓帝は詔を発して侍御史・朱穆しゅぼくを冀州刺史に任命した。


 冀部(冀州)各県の令長で、朱穆が黄河を渡ったと聞くや印綬を解いて去った者が四十余人もいた。


 朱穆は冀州に至ると諸郡の貪汚の者を弾劾・上奏した。


 弾劾された官吏の中には自殺に追い込まれた者もおり、またある者は獄中で死んだ。


 後に王朝の大きな癌の一角を担うことになる宦官・趙忠ちょうちゅうの父が死んだため、趙忠が故郷の安平に還って父を埋葬した。


 この時、趙忠は身分を越えて玉匣(死者に着せる玉の服。皇帝や王侯が使います)を作った。


 それを聞いた朱穆は郡に命じて調査させた。官吏は朱穆の威厳を畏れていたため、墓を暴いて棺を割き、死体を取り出した。


 この事を聞いた桓帝が激怒した。朱穆を招いて廷尉を訪ねさせ、左校で輸作(労役)させることにした。


「左校」とは官署名で、将作に属して左工徒を管理す。


 胡三省はこの一件にこう述べている。


「趙忠の玉匣を僭(身分を越えた罪)とせず、朱穆が墓を暴いたことを罪とした。昏暗の君にどうして是非の判断ができると言えようか」


 この一件を太学の書生・劉陶りゅうとうが知った。後に宦官と対立することになる彼は数千人の書生と共に宮闕を訪ねて上書し、朱穆のために訴えた。


「伏して見るに、弛刑徒(首枷等の刑具を外された囚人)・朱穆は公事を処理して国を憂い、拝州の日(州刺史を拝命した日)には姦悪を除くことを志しました。誠に常侍(宮中の宦官)の貴寵によって、その父子・兄弟が州郡に散布し、競って虎狼となり、小民を噬食(噛んで呑みこむこと)しておりますので、朱穆は天綱(天の綱紀。国法)を張って正し(張理天綱)、漏目を補綴し(法の漏れを補い)、残禍(暴虐・禍患)を羅取(集めて取ること)し、そうすることで天意を満足させたのです)。そのため、内官(中官。宦官)が皆共に恚疾(怨恨)し、誹謗が絶えることなく発生して、讒言が頻繁に作られ、ついに刑罰に至らせて、左校で輸作することになったのです。天下の有識の者は皆、朱穆が禹・稷(后稷)と同じく勤(勤勉。勤労)でありながら、共(共工)・鯀の戾(刑罰。禍患)を被ったと思っています。もしも死者に知覚があるのならば、堯が崇山で怒り、舜が蒼墓で忿懣することになりましょう」


「今は中官(宦官)・近習(近臣)が国の実権を盗み持ち、手に王爵を握って王法を口にし、運賞したら餓隸(飢えた奴隷)を季孫(魯の大臣)よりも富ませ、呼噏(呼吸。短い時間)によって伊尹・顔回を桀・盗跖と化すようなもので、もはや善人も些細な事ですぐ悪人にされております。しかし朱穆だけは亢然として(頭をあげて。胸を張って)我が身が害されることを顧みませんでした。これは栄(栄盛)を嫌って辱(恥辱。屈辱)を好み、生を嫌って死を好んだからではなく、ただ王綱の不攝(不調。不振)を感じ、天綱が久しく失われることを懼れたため、心を尽くして憂いを抱き、陛下のために深く計ったのです。私は黥首繋趾(顔に刺青をして足を枷で繋ぐこと)して朱穆の代わりに輸作(労役)することを願います」


 上書を読んだ桓帝は朱穆を赦免した。


 朱穆はこの後、家で数年を過ごしてから、改めて朝廷に招かれて尚書になることになる。



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