黄巾の乱
184年
この年、後漢王朝に激震が走る事件が起きた。後世において「黄巾の乱」と呼ばれる大乱である。
この大乱を起こした男は鉅鹿の人で張角という。彼は黄・老(道学)を信奉し、妖術を門戸の者に教授して「太平道」と号した。
張角は呪符の水で人々の病を治したという。病人に跪いて自分の罪を認めさせるとある者はすぐに病が治ったため、民衆が共に神のように信じるようになった。
その後、張角は弟子を分派して四方を周行させ、絶えず人々を誑誘(誘惑、勧誘)していった。
十余年の間に徒衆が数十万に上り、青・徐・幽・冀・荊・揚・兗・豫八州の人々がことごとく張角に応じた。ある者は財産を売りはらって張角の下に奔り、信徒が多いため道が塞がるほどであった。張角の下に着くまでに病死した者も万を数えるほどであった。それほどに人々は張角という男に縋ったと言っていい。
郡県は張角の本意を理解できず、逆に「張角は善道によって教化しており、民が帰心するところとなっている」と言う有様であった。
この状況に危機感を抱いた者はいる。太尉・楊賜が司徒だった時、こう上書した。
「張角は百姓を騙して惑わしており、大赦に遇っても悔い改めることなく、その教えが徐々に蔓延しています。今、もし州郡に命じて捕討させれば、恐らく更に混乱させ、その害を速く成させることになります。刺史・二千石に厳令し、流民を簡別(選んで別けること)してそれぞれを本郡に護送させることで、その党を孤立させるべきです。その後、賊軍を誅せば、労すことなく平定できましょう」
しかしちょうど楊賜が司徒の位を去ったため、上書は禁中に留められて実行されなかった。
後に司徒掾・劉陶も上書して再び楊賜の建議を述べた。
「張角らの陰謀はますます甚だしく、四方の私言(秘かな言葉)は『張角らは秘かに京師に入って朝政を窺い見ており、鳥声獣心が隠れて共鳴している』と言っています。州郡はこの事を忌避して報告しようとせず、ただ互いに通知し合うだけで敢えて公文にする者はいません。陛下は明詔を下し、張角らを重賞を懸けて国土を賞とし、敢えて回避する者は同罪にするべきです」
霊帝は張角の事に全く気を留めていなかったため、詔を発して劉陶に『春秋』の條例(道理を述べている事例、または規則)を整理させた。
劉陶は元々『春秋』に精通しており、訓詁(古典の言葉の意義を解釈すること)を為したこともあったため、『春秋』の條例を整理するように命じられたのである。
やがて、張角は三十六方を置いた。大方は一万余人、小方は六七千で、それぞれが指導者を立てた。方は簡単に言えば、将軍とその兵たちという一種の組織という意味がある。
大きな組織は「大方」、小さな組織は「小方」と呼び、それぞれの賊軍も「大方(大将軍)」「小方(小将軍)」と呼んだようである。
張角は彼らを前に話した。
「大地の子らよ」
張角は彼らをそう呼ぶ。
「大地の子らよ。汝らは大きな屋敷に住みたいと望んだことがあっただろうか。数多の金品を得たいと願ったことはあっただろうか。必要以上の何かを得たいと思ったことはあっただろうか」
人々は無言であった。しかしその目にはそこまで望んだことは無いという意思があった。
「皆、そこまで望んだことはなかったはずだ」
張角は彼らが思っていることへの理解者である。
「ただ腹を空かせることの無い程度の食を得られることを望んでいたはずだ。少しでも不自由の無い生活ができる金品があればと望んだこともあっただろう。何よりも我が子と共に暖かな生活を送ることが誰もが望んでいただろう」
そこで張角は無言になる。彼らの怒りが、悲しみが膨らんでいくのを邪魔しないための無言である。
「しかし、天上の者たちは我らのその慎ましい願いをただただ踏みにじるだけであった。己の我欲のために我々の願いを、愛しき子らを踏みにじってきた」
張角の大声に人々の怒りは頂点に達する。
「今こそ、天上の者たちを大地にまで引き摺り降ろし、大地の糧としてみせる時である」
彼は手を挙げこう叫んだ。
「蒼天、既に死し、正に黄天が立つべし。歳は甲子にあり、天下、大吉になり」
集められた人々は復唱するように叫ぶ。
「蒼天、既に死し、正に黄天が立つべし。歳は甲子にあり、天下、大吉になり」
「蒼天、既に死し、正に黄天が立つべし。歳は甲子にあり、天下、大吉になり」
「蒼天、既に死し、正に黄天が立つべし。歳は甲子にあり、天下、大吉になり」
「蒼天、既に死し、正に黄天が立つべし。歳は甲子にあり、天下、大吉になり」
これはある種のスローガンのようなものである。これを歌うことで、集団の意思統一を図ったのである。
この騒ぎの中、無言であった男がいた。関羽である。
「この一挙に正義はあるか……?」
彼がこのように呟くには張角が王朝を倒すために行っている手段に問題があると感じているためである。関羽はある種の潔癖癖がある。
張角はこの後、京城の寺門(官署の門)や州郡の官府(の門)に全て白土で「甲子」という文字を書かせた。
更に彼はまず大方・馬元義らに荊・揚州の数万人を招集させ、集合する期日を決めて鄴で挙兵する計画が立てさせた。
馬元義はしばしば京師を往来し、中常侍・封諝、徐奉らを内応にして、三月五日に内外から共に蜂起することを約束した。
この宦官と手を結ぶというやり方に関羽は不快に感じたのである。
(宦官こそが天下を混乱にもたらしている害悪ではないか)
関羽にとって張角の行う戦が聖戦であったもらいたい。いや、自分が行う戦は聖戦であるという思いが彼の中にあるのだろう。彼は己の正義と世の中の正義を妥協させることを拒否している節がある。
宦官と手を組む行為は関羽にとって妥協するべきものとは思わなかった。
しかしながら張角はそれだけ本気で王朝を叩き潰そうとしているとも言えなくはない。彼は宦官と組んででも今の王朝を滅ぼそうとしているのである。
この本気についていけないと思った者も張角の弟子の中にはいた。弟子の唐周が上書して張角らの計画を密告したのである。
朝廷は馬元義を逮捕して洛陽で車裂に処した。
続けて霊帝は三公と司隸に詔を発し、禁中の直衛から百姓におよぶまで張角の道(太平道)に仕えた者を調査させ、千余人を誅殺した。
また、冀州に命じて張角らを追求・逮捕しようとした。
「そう簡単に行くとは思っていない」
張角は別に事が知られても決して動揺はしない。
「我らがやるべきは何一つ変わっていない」
張角は事が既に露見したと知るや、昼夜、使者を派遣して諸方に一斉蜂起の命令を伝えた。
皆、黄巾をつけて標幟(標示。目印)にしたため、時の人は「黄巾賊」と呼んだ。
二月、張角は天公将軍を自称し、張角の弟・張宝が地公将軍を、張宝の弟・張梁が人公将軍を称した。
黄巾はそれぞれの所在地で官府を焼き払い、聚邑を劫略(侵犯・略奪)した。
張角は彼らの怒りの示し方を止めはしなかった。その怒りこそが王朝を滅ぼすための力であると信じているのだろう。
州郡は拠り所を失い、長吏の多くが逃亡した。
一月足らずで、天下が響応して京師を震動(震撼)させた。
この状況に関羽は苦々しい表情を浮かべる。
「弱き者を助ける聖戦のはずではなかったのか」
そのつぶやきに答えるように遠くから見ている黄色い服の男が呟く。
「関羽よ。関羽よ。綺麗すぎるな。後に神となった所以はそれなのか。その分、張角の覚悟は凄まじい。手段を選ばずに事をを行おうとしている」
彼は仮面の男を見る。
「さて、倒れつつある王朝は張角という強敵にどう戦おうのかな?」
愉快そうにそう言った。




