霊帝
180年
十二月、貴人・何氏が皇后に立てられた。
霊帝は皇后となった何皇后の兄に当たる潁川太守・何進を朝廷に招いて侍中にした。
何皇后と何進は元々南陽の屠家(屠殺業者)の出身であったが同郷の宦官・郭勝の推薦によって掖庭(後宮)に入り、皇子・劉弁を生んだため、皇后に立てられた。
低い身分の者である何進だが、あまり毒の無い人ではなく責任感もある人である。
この年、霊帝が罼圭と霊昆苑を造ろうとした。
司徒・楊賜が諫めた。
「先帝の制では、左(東)に鴻池を開き、右(西)に上林を造るものであり、奢侈にもならず過度な節約もせず、そうすることで礼中(過不足がないちょうど相応しい礼)に符合させてきました。今、郊城の地において規模を増やして苑囿とし、沃衍(肥沃な平地)を壊し、田園を廃し、居民を駆り、禽獣を養おう(畜禽獣)としていますが、これは天子が民に対して赤子を守るようにするという本義ではないと考えます。今は城外の苑が既に五六ありますので十分、陛下の気持ちを満足させて四節に順じることができましょう。夏禹の卑宮(夏王・禹が質素な宮殿に住んだこと)や太宗の露台の意(文帝が露台建設を中止した本意)を思い、平民の辛苦を労わるべきです」
上書が提出されると、霊帝は建設を中止しようとして、侍中・任芝と楽松に意見を求めた。
楽松らが答えた。
「昔、文王の囿は百里でございましたが、人はこれを小さいとみなしました。斉の宣王の囿は五里でしたが、人はこれを大きいとみなしました。今、百姓とこれを共にすれば、政事に対して害がないでしょう」
喜んだ霊帝は新苑の建設を開始した。
蒼梧と桂陽の賊が郡県を攻めた。
楊喬の弟であり、零陵太守である楊琁は馬車数十乗を制作し、排囊(革袋)に石灰を詰めて車に載せ、布索(布で作った縄)を馬の尾に繋げた。また、兵車を作って全ての車上で弓弩を引かせた。
戦闘が開始すると、馬車を走らせた。馬が走ると車に載せた袋が揺れて中の石灰がまき散らされた。
賊は石灰のために漢軍が見えなくなった。
そこで漢軍は馬の尾に繋げた布索に火をつけた。布が燃えたため、馬が驚いて賊陣に奔走突入した。
更に後車の弓弩を乱発して鉦鼓を鳴り響かせると、群盗は驚愕して敗北離散した。
漢軍は追撃・駆逐して無数の者を殺傷し、賊軍の大将の首を斬って晒した。
こうして郡境が平清になった。
ところが、荊州刺史・趙凱が楊琁を誣告する上奏を行った。実際には楊琁自ら賊を破ったのではなく、妄りに功績を自分のものにしているという内容である。
楊琁も朝廷に上奏したが、趙凱には同党の助けがあったため、朝廷は檻車で楊琁を召還した。
楊琁は厳しい監視下に置かれたことにより、冤罪を訴える機会がなかった。そこで腕を噛んで血を流し、衣服に文章を書いて詳しく賊を破った時の状況を述べ、更に趙凱による讒言についても言及した。秘かに親属を宮闕に送ってこれを提出させた。
霊帝は詔書を発して楊琁を赦し、議郎に任命した。
逆に趙凱は誣人の罪を受けた。
181年
交趾の烏滸蛮が久しく乱を為し、牧守では制御できなくなっていた。交趾の人・梁龍らもまた叛して郡県を攻め破った。
そこで霊帝は詔を発して蘭陵令・朱儁を交趾刺史に任命して、討伐させることにした。
彼は会稽の人で、幼い時は早くして父を亡くしたため貧しく、母が内職をして生活を支えた。そんな母への親孝行で評判となり、義を好み財に執着しなかった。それにより、推薦を受けて県の門下書佐となった。同郡の周規が三公の招聘を受けて上洛するにあたり、金品が不足していた。
朱儁はそのことを残念に思い、母の財産をこっそり持ち出すと周規に渡した。母には責められたが、小さな損失が大きな利益につながるのだと弁明すると母親は逆に関心した。
県長の度尚に推挙され、韋毅が太守の時代に郡に仕えるようになり、尹端が太守の時代には主簿となった。尹端は賊の許昭の討伐に失敗し、揚州刺史の上奏により死刑にされそうになったが、朱儁は密かに京師に行き、役人に賄賂を贈り、上奏文の内容を訂正させることに成功したため、尹端は流刑に減刑された。
尹端は刑を減じられたことを喜んだものの、誰の仕業によるものかは知ることはなかった。
そんな朱儁は見事に梁龍を撃って斬ってみせた。
降った者が数万人を数え、交趾は一月足らずで全て平定された。
霊帝はこの功績によって朱儁を都亭侯に封じ、朝廷に召して諫議大夫に任命した。
この年、霊帝が後宮に列肆(並んだ商店。商店街)を造った。
諸采女に販売させたところ、互いに盗んだり争い合うということが起きる有様であったが、そんな中で霊帝は商估(商賈。商人)の服を着て、飲宴して楽しんだ。
また、霊帝は西園で犬と遊び、「進賢冠」を被せて綬を帯びさせた。「進賢冠」とは文官が被るものである。前の高さは七寸、後ろの高さは三寸、長さは八寸である。
更に霊帝は四驢(四頭の驢馬が牽く車)に乗り、自ら轡を操って園内を駆け回った。
京師の人々が次々にこれを真似たため、驢馬の値段が高騰して馬と等しくなった
『資治通鑑』の注釈を行った胡三省は、
「驢というのは、重い物を載せて遠くに運び、山谷を上り下りする野人が使うものである。どうして帝王君子でありながらこれを驂駕(駕御。馬等を操ること)する者がいるだろうか」
と苦言を述べている。
霊帝は私財の貯蓄を好み、天下の珍貨を集めた。郡国が貢献する時はいつも先に中署に送らせて「導行費」と名づけた。
中署は内署(宮廷の内府)で、珍宝器物を管理する職務のことである。霊帝は郡国が貢物を献上する時、先行して別に物品を納めさせた。これを「導行費」という。
これに中常侍・呂強が上書して諫めた。
「天下の財において、陰陽から生まれない物はありません。全てが陛下に帰しているのに、どうして公私があるのでしょうか。しかしながら今は中尚方が諸郡の宝を集め、中御府に天下の繒(絹織物)を積み(中尚方と中御府は少府に属し、天子の私財を管理する)、西園が司農の財を使い、中厩には太僕の馬が集まっています。しかも府(官府。朝廷)に送る時はいつも導行の財があるので、広く徴発して民が困窮しており、費用が多いのに献物は少なく、姦吏がこれを利用して利益を得ており、このために民は疲弊しています」
「また、阿媚の臣は私財を献じることを好んでおり、陛下は阿諛を受け入れて寛大であるため、ここから阿媚の臣が昇進しています。旧典においては、選挙は三府に委任し、尚書は上奏文を受け取って皇帝に報告するだけでした。選ばれた者は試験を受けて任用され、功を成すことを責任とし、見るべき功績がなければ、初めて尚書にわたして弾劾し、尚書が廷尉に下して虚実を審査するように請い、その処罰を行ったのです。だからこそ三公が人材を選ぶ時はいつも掾属と参議し、その行状(履歴、事績)を訊ね、その器能を量りました。しかしながらそれでも職務に対して怠慢で能力がない官員がいて、荒廃して治まらないこともあります」
「今はただ尚書に人選を任せており、あるいは尚書や三公を通さず、詔を発して直接任命することもあります。このようであっては、尚書が人選を行っているため三公には元々責任がなく、皇帝が直接人選してしまえば尚書にも責任がなくなります。失敗しても譴責がなく、成功しても褒賞がないにも関わらず、どうして三公が自ら労苦するでしょうか」
上書が提出されたが、霊帝は省みなかった。
何皇后は嫉妬心が強い人であった。そのため後宮の王美人が皇子・劉協を生むと、酖(毒)で王美人を殺してしまった。
霊帝は激怒して何皇后を廃そうとしたが、宦官たちが尽力してとりなしたため、廃位を止めた。
そんな宦官の長であった大長秋・曹節はこの年、世を去った。
中常侍・趙忠が換わって大長秋を代行することになった。




