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三国志  作者: 大田牛二
第一章 数多の戦旗

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売官

 宋皇后が霊帝の寵愛を受けられなかったため、後宮の幸姫(寵愛を得ている妃嬪)が共に宋皇后を讒言誹謗を行うようになった。


 勃海王・劉悝(桓帝の弟)の妃・宋氏は宋皇后の姑(父の姉妹)だったため、中常侍・王甫おうほが、


「皇后は自分を怨んでいるのではないか」


 と恐れていた。彼の讒言によって劉悝と妃妾十一人、子女七十人、伎女二十四人が殺されているためである。


 そこで彼はこの状況を利用することにした。


「宋皇后が隠れて左道(邪道。方術)を使って祝詛(呪詛)している」


 と讒言を行ったのである。


 これを信じた霊帝れいていは策書によって宋皇后を廃し、皇后の璽綬を没収した。


 宋皇后は自ら暴室に入り、憂死した。


 宋皇后の父・不其郷侯・宋酆と兄弟も併せて誅殺された。


 十月、日食があった。


 尚書・盧植ろしゅくが上書した。


「凡そ諸党錮においては、多くの者に罪がないので、寛恕を施して冤罪を解くべきです。また、宋后の家属は全て無辜(無罪)にも関わらず、遺骸を棄てられて死体を横たえており、斂葬(死体を回収して埋葬すること)できずにいます。回収を命じて遊魂を安んじるべきです。また、郡守や刺史が一月にしばしば遷っています。昇降の制度に則って能否を明らかにし、九年が無理でも三年は満たすようにするべきです」


 古代においては「三考(三回の試験)」の制度があった。堯の法で、三年に一回試験を行い、三考によって能力を明らかにしていた。因みに三考は九年を要する。


「また、請謁希求(請託・要望)は一切禁じてその道を塞ぐべきです。選挙の事は主管する者に責任を全うさせます。また、天子の礼は、理において私積(個人の蓄え)がないものですので、大務(重大な政務)を重視して、細微(些細なこと。金儲け等の賎しいこと)は廃除するべきです」


 霊帝はこの意見に取りあわなかった。


 霊帝が中尚方に詔を発し、鴻都文学・楽松がくしょう江覧こうらんら三十二人のために図象を描いて賛辞を配させた。学者を励ますためである。


 これに尚書令・陽球ようきゅうが諫めた。


「私が考えるに、楽松、江覧らは皆、微蔑の出身で、斗筲の小人(斗も筲も小さい容器。「斗筲の小人」は度量が狭く能力がない小人という意味)なのに、世戚(代々の親戚。皇族)に頼り、権豪に附いて請託し、俛眉承睫(眉を伏せて睫毛を承る。顔色を見て阿諛、迎合するという意味)したおかげで、幸いにも本朝に進むことができました。しかしある者は一篇の賦を献じ、ある者は鳥篆(篆書の一種)で簡(木簡、竹簡)を満たしただけで、位が郎中に昇り、肖像を描かれることになりました。また、ある者は筆が牘(文を書く木片)に文字を書けず、言葉で考えを表すことができず、他の者に文章を書いてもらい、荒唐無稽な事が続出しています。しかしながら殊恩(特別な恩寵)を蒙らない者はなく、蝉がまるで泥から這い出て殻を脱ぐように賎しい者が這い上がっております。そのため、有識の者は口をかくして笑い、天下が嘆息しています。私が聞くに、図象を設けるのは、勧戒(奨励すべきことと戒めるべきこと)を明らかにして、先人の前例を教訓にさせるためです。豎子小人が偽って文頌(功徳を称賛する文章)を作ったことで、妄りに天官(朝廷の官位)を窺えるようになり、素(白い絹)に肖像を描き留めた(垂象図素)とは聞いたことがありません。今は太学、東観によって聖化を宣明するに足りています。鴻都の選を廃止し、そうすることで天下の謗を除くように願います」


 上書が提出されたが、霊帝は省みなかった。








 この年、初めて西邸(西園に邸舍(店や倉庫)を開いたため西邸という)を開いて官位を売った。いわゆる売官である。


 官位の金額にはそれぞれ差があり、二千石は銭二千万、四百石は銭四百万とされた。但し徳次(徳行の序列)によって選ばれるべき者は半額、あるいは三分の一にした。


 金銭を蓄えるために西園に倉庫が建てられた。


 ある者が宮闕を訪ねて上書し、県の令長の職を求めたため、その県の好醜(美醜、優劣)、豊約(「豊」は富裕、「約」は貧困です)によって金額を決めた。


 富者は先に金銭を納め、貧者は官に就いてから倍の額を払った。


 また、霊帝は個人的に左右の者に命じて公卿(三公九卿)の地位も売らせた。公は千万、卿は五百万である。


 霊帝は諸侯だった頃、常に貧困に苦しんでおり、即位してからも、桓帝が家居(家の蓄積)を作れず、私銭がなかったことをいつも嘆いていた。そこで売官によって金銭を集めて私藏(個人の貯蓄)にした。


 そんな霊帝が侍中・楊奇ようきに、


「私と桓帝を比べたらどうだ?」


 と聞いたことがあった。


 楊奇はこう答えた。


「陛下と桓帝の関係は、舜と堯の徳を比べるようなものです」


 霊帝は桓帝よりも自分が優れていると思っていたため、桓帝と同じだと言われて不快になった。楊奇が敢えて聖人・堯舜を引用したことにも皮肉が込められている。


 不機嫌なまま霊帝が言った。


「卿は強項である(「強項」は首が強いことで、強者に屈しないことを表す)。真に楊震の子孫であるな。死後、必ずやまた大鳥を招くだろう」


 楊奇は楊震の曾孫である。楊震には五子がおり、長子・楊牧が富波相になった。楊奇は楊牧の孫に当たる。


 楊震は冤罪のために自殺したが、後に大鳥が現れたため、順帝によって冤罪が晴らされたことを言っている。



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