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三国志  作者: 大田牛二
第一章 数多の戦旗

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趙苞

 護烏桓校尉・夏育かいくが上書した。


「鮮卑が辺境を侵しており、春以来三十余回になります。幽州諸郡の兵を徴発し、塞を出てこれを撃つことを請います。一冬二春で必ず禽滅(捕縛消滅)することができましょう」


 以前、護羌校尉・田晏でんあんが事件を起こして刑を受けることになったが、赦免されていた。しかしながら田晏はこのことに対して功績を立てて報いようと欲していた。そのため今回の件を受けて、自分が将に立てられるように働きかけるよう、中常侍・王甫おうほに請うた。


 そこで王甫は、兵を派遣することと、田晏に夏育と協力して賊を討たせることを議論に上げた。


 その結果、霊帝は田晏を破鮮卑中郎将に任命した。


 しかしながら大臣の多くが出征に賛同しなかったため、霊帝は百官を招いて朝堂で議論させた。


 蔡邕さいようが意見を述べた。


「殊類(異民族)の征討は由来を久しくしますが、時機には同じことも異なることもあり、形勢にも征討できる時とできない時があり、謀には得失があり、事には成敗があり、同一視ができないのです。前漢でも武帝の神武と将帥の良猛、財賦の充実をもって広遠な地を包括しましたが、数十年の間に官民が共に窮乏し、やはり後悔を抱くことになりました。今は人も財も共に欠乏していますので、事は往時より更に劣っていえましょう」


 後悔云々の箇所は輪台の詔のことを指している。


「匈奴が遁逃してからは鮮卑が強盛になり、その故地を占拠して兵十万を称し、才力が勁健(強健)で意智(計謀)がますます生まれています。加えて関塞が厳しくなく、禁網(禁令)に多くの漏れがあるため、精金良鉄は全て賊に所有されており、漢人が逃亡して彼らの謀主になっています。鮮卑の兵利馬疾(武器が鋭利で馬が速い様子)は匈奴を越えていると言えましょう」


「昔、段熲だんけいは良将で、兵(戦。または兵法)に習熟して戦を善くしましたが、西羌に兵を用いてなお十余年も要しました。今、夏育と田晏の才策(才能・謀略)は段熲を越えているとは限らず、鮮卑種衆(族衆)は往事より弱くありません。それにも関わらず、いたずらに計って二年とし、自分では成功すると思っていますが、もしも戦禍が続いて兵を連ねることになれば、どうして途中で止められるでしょう。再び衆人を徴集して、転運(物資の輸送)が止まなくなるに違いありません。これは諸夏(中華)を耗竭(消耗)させて蛮夷のために尽力することです。辺垂の患とは手足の疥搔(皮膚病)であり、中国の困窮は胸背の瘭疽(可膿性の炎症。または悪性の腫瘍)です。今は郡県の盗賊もまだ禁じることができないにも関わらず、どうしてこの醜虜を伏すことができましょうか」


「昔、高祖は平城の恥を忍び、呂后は慢書の詬(恥)を棄てました。今においたらどちらが重大でしょうか。天は山河を設け、秦は長城を築き、漢は塞垣(営塞障壁)を起こしました。これは内外を別けて殊俗(違う風俗)を異ならせるためであり、とりあえず䠞国内侮の患(国が逼迫されて内地が侵される憂患)がなければそれでいいのです。なぜ蟲螘のような虜の往来の数を気にするのでしょうか。あるいはこれを破ったとしても、どうして殄尽(殲滅)できましょう。そもそも、今は鮮卑がいるために陛下は多忙で食事の時間も遅くなっているのでしょうか?」


「昔、淮南王・劉安が越討伐を諫めてこう言いました。『もしも遠征したために越人に死を冒して漢将に逆らわせることになり、廝輿(労役)の卒が一人でも不備によって帰らなければ、たとえ越王の首を得たとしても、やはり大漢の恥になります』平民によって醜虜に換えようと欲し、皇威が外夷によって辱められるのは、夏育らの進言の通りであったとしても、なお危険な事です。得失を量ることができないのならなおさらです」


 しかしながら霊帝はこの意見に従わなかった。


 八月、朝廷が護烏桓校尉・夏育を高柳から出撃させ、破鮮卑中郎将・田晏を雲中から出撃させた。匈奴中郎将(使匈奴中郎将)・臧旻ぞうびんも南単于を率いて雁門を出た。それぞれ一万騎を指揮して三道から塞をて、二千余里を進んだ。


「来たか……まああの程度ならば私はいらんな」


 檀石槐だんせきかいは三部大人(檀石槐は国を三部に分けているそれらの長)に命じ各自の衆を率いて迎撃させた。


 夏育らは大敗して節伝(符節)や輜重を失い、それぞれ数十騎を率いて逃げ帰った。死者は十分の七、八に及ぶほどであった。


 惨敗である。


 三将は檻車で朝廷に召されて獄に下されたが、金銭で贖罪して庶人になった。


 遼西太守・趙苞ちょうほうは若くして威厳があるとして尊敬されていた人であった。


 彼は着任してから使者を送って母と妻子を迎え入れようとした。


 母と妻子は遼西郡の近くまで来て柳城を通った。


 ちょうどこの時、鮮卑の一万余人が塞に入って寇鈔(侵略・略奪)した。趙苞の母と妻子は鮮卑に捕えられて人質になった。


 鮮卑は趙苞の母と妻子を車に載せて遼西郡を攻めた。


 趙苞は騎二万を率いて陣を構え、鮮卑と対峙した。


 鮮卑が母を連れ出して趙苞に見せると、それを見た趙苞は悲痛号泣して母にこう言った。


「息子として罪深いことです。微禄(少ない俸禄)によって朝夕に奉養しようと欲したにも関わらず、図らずも母上に禍を作ってしまいました。私は昔は母の子でしたが、今は王臣になっております。義によって私恩を顧みるわけにはいきません。忠節を損なえば、万死に当たるだけであり、罪を塞ぐことができません」


 母が遠くから言った。


「威豪(趙苞の字)よ、人にはそれぞれ命(天命)があります。どうして私を顧みて忠義を損なうことができましょうか。汝はこれに勉めなさい」


 趙苞は即時進軍して賊をことごとく撃破した。しかし母と妻も殺害された。


 趙苞は自ら朝廷に上書し、故郷に帰って埋葬することを請うた。


 霊帝れいていは使者を送って弔慰(弔問慰労)し、鄃侯に封じた。


 しかしながら趙苞は埋葬が終わると郷人に、


「禄を食しながら難を避けるのは忠ではない。母を殺して義を全うするのは孝ではない。私は不忠ではありませんが、不孝を選んだ。何の面目があって天下に立てるか」


 と言い、血を吐いて死んでしまった。




 

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