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三国志  作者: 大田牛二
第一章 数多の戦旗

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宣陵孝子

 177年


 四月、大旱に襲われ、七州で蝗害があった。これにより多くの者が飢え死んだ。


 このことの原因が苛酷貪汚な長吏にあると司空・張顥ちょうこうが訴えたため霊帝れいていは三公に命じて長吏で苛酷貪汚な者を條奏(箇条書きにして上奏すること)させ、罷免していった。


 その命令により、平原相・陽球ようきゅうが厳酷の罪に坐し、朝廷に召されて廷尉に送られた。


 しかし陽球は以前、九江太守として賊を討伐して功績があったため、霊帝は特別に赦して議郎に任命した。


 この陽球という人は字を方正といい、漁陽泉州の人である。家は代々大族の官吏であった。


 陽球は剣撃ができて弓馬を習った。性格が厳格で、申韓の学(法家の学問)を好んだ。


 かつて陽球の母を辱めた郡吏がいたため、陽球は若者数十人と結んで官吏を殺し、その家を滅ぼした。これがきっかけで名が知られるようになった。


 初めは孝廉に挙げられて尚書侍郎の官に就いた。やがて故事に習熟していることから章奏(上奏文)や討議の処理においてしばしば台閣(尚書台)の崇信(尊重と信任)を受けた。


 後に朝廷を出て高唐令になったが、先の母のために官吏を殺すなどの苛烈さや申韓の学を学んだことから酷吏としての様子が道理を越えていたため、郡守が逮捕検挙した。


 しかし、ちょうど大赦があったため赦された。


 その後、司徒・劉寵りゅうちょうの府に招かれて高第(成績が優秀な者)として推挙された。


 九江の山賊が蜂起して月を経ても解決できなかったため、三府が陽球には姦賊に対処する能力があると上書を行い、陽球は九江太守に任命された。


 九江に到着した陽球は方略を設けて凶賊を殄破(撃破殲滅)し、郡中の姦吏を逮捕して全て殺した。


 やがて陽球は議郎に任命された後、将作大匠に遷されることになる。









 数十人の市賈・小民(「商人や庶民」または「市井の民」)が集まって「宣陵孝子」と称した。宣陵は桓帝陵のことであり、そこで老子の名を語ったということである。


 霊帝は詔を発して彼ら全てを太子舍人に任命した。


 太子舍人は秩二百石で、交替で太子宮の宿衛を行う職務である。


 霊帝は文学を好んで、自ら『皇羲篇』五十章を作るほどであった。


 この頃、霊帝が諸生で文賦を為せる者を招き、鴻都門下に集めて待制(待機すること。皇帝の命令を待つこと)させ、後には尺牘(公文書)および鳥篆(篆書の一種)を書ける者(諸為尺牘及工書鳥篆者)も全て召した。合計数十人が集まった。


 侍中祭酒・楽松がくしょう賈護かごは無行趣勢の徒(善行がなく権勢におもねる者)を多数招いてその中に置いた。


 彼らは好んで閭里(街巷)の小事を霊帝に語り、それを甚だ悦んだ霊帝は秩序を越えた破格の官位を与えて厚遇した。


 また、霊帝は久しく自ら郊廟の礼を行わなくなっていった。


 ちょうど霊帝が群臣に詔を発して政要(政治の要点)について述べさせたため、蔡邕さいようが封事(密封した上書)を提出した。以下、その内容である。


「五郊で気を迎え(明帝が59年にやったこと)、清廟で祭祀を行い、辟雍で養老するのは、皆、帝王の大業であり、先代が祗奉(敬奉。恭しく実行すること)してきたことです。ところが有司(官員)がしばしば蕃国(藩国)の疏喪(疎遠な親族の葬事)、宮内の産生(出産)および吏卒の小汙(病や死亡)を理由にして、これらを廃して行わず、礼敬の大を忘れ、禁忌の書を信用し、小故(小事。または取るに足らない前例)を過度に信じて、大典を損なっています。今からは齋制(祭祀の前に行う斎戒の制度)を故典のようにするべきです。そうすれば、風霆(大風や雷)、災妖の異に答えられるでしょう」


「また、古では士を取るために必ず諸侯に歳貢させていましたが、孝武(武帝)の世になって、郡が孝廉を挙げるようになり、また、賢良・文学の選ができ、そこから名臣が輩出し、文武が並んで興隆することになりました。漢が人を得るのは、この数路(孝廉・賢良・文学等の推挙)だけです。書画・辞賦というのは才の小さなものであり、国を正して政事を治めることにおいて、その能力がありません。陛下が即位したばかりの時は、まず経術に触れて、政治の合間に文学作品を読みましたが、それはとりあえずの遊びとして博奕(棋上の遊戯)の代わりにしただけで、教化や取士(人材を選ぶこと)の本(基準)にはしませんでした。しかし今は諸生が利を競い、作者が鼎沸(喧噪)としており、高者(高明な者)は頗る経訓風喩の言を引用していますが、下(低俗な者)は偶俗の語(世俗に迎合する言葉。または「偶」は「俚」の誤りで「俚語と俗語」。「俚語」は民間の粗俗な口語)を連ね、俳優(芸人・訳者)の類もおり、ある者は成文を盗んで他人の氏名を語っています。私が盛化門で詔を受けるたびに、彼らが序列をよって順に採用されており、能力が及ばない者でも、衆人に従って全て拝擢(抜擢任用)されています。既に恩を加えた者を改めて收改(撤回、変更)するのは困難ではございますが、奉禄を守らせるだけで、義においては彼らに俸禄を与えるだけで既に充分です。民を治めさせたり、州郡に居させてはなりません。昔、孝宣(宣帝)は石渠で諸儒と会し、章帝は白虎に学士を集め、経典を解釈してその義を明らかにしました。この事は優大であり、文武の道(西周文王と武王の治国の道)とは従うべきものです。もし小能小善(小さな能力や長所)に見るべきところがあったとしても、孔子は遠くに至るには障害になると考えました。だからこそ君子は大事を志すべきである、小能小善を求める必要はありません」


「また、陛下は宣陵孝子を全て太子舍人にしましたが、私が聞くに、孝文皇帝(文帝)は喪に服すのを三十六日と制定し、たとえ継体の君(帝位を継承した新君)、最も親しい関係にある父子、重恩を受けた公卿列臣でも、皆、情を屈して制に従い、敢えてその期間を越えようとしませんでした。今、虚偽の小人(宣陵孝子)は元々骨肉(家族)ではなく、幸私(寵愛)の恩もないうえに禄仕(仕官して俸禄を得ること)の実もなく、惻隠の心(同情の心。桓帝の死を悲しむ心)は義(道理)において根拠がなく、姦軌(姦悪)の人を許容してその中に入れることになっています。桓思皇后の祖載の時(棺を車に載せて祀った時)、東郡で人の妻を盗んだ者がおり、孝中(葬列の中)に逃亡しましたが、本県(本籍の県)が追捕してやっとその罪に伏しました。このような虚偽雑穢(虚偽の者や雑乱、不純な者)は言い尽くすのが困難です。太子の官属は令徳(美徳)を捜して選ぶべきです。どうして丘墓の凶醜な人(宣陵孝子)だけを取ることができましょうか。これよりも不祥・不吉なことはありません。田里に送り帰して詐偽(詐術虚偽)を明らかにするべきです」


 上書が提出されると、霊帝は自ら北郊で気を迎え、辟雍の礼(養老の儀式)を行った。


 また、詔を発して宣陵孝子で舍人になった者を全て県の丞・尉に改めた。


「やれやれ……それにしても民間に老子かぶれの者が随分と増えたものだ……」











「ありがたやあ、ありがたやあ」


 人々が男の周りを囲み、拝む。


「皆さん、どうか立ち上がってください」


 男はにこやかに言う。


「ありがたやあ張角ちょうかく様ぁ」



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