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三国志  作者: 大田牛二
序章 王朝はこうして衰退する

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三互法

 175年


 三月、霊帝れいていが詔を発して諸儒学者に『五経』の文字を正させた。


 整理された経文は、議郎・蔡邕さいように古文、篆書、隸書の三体で書き記すように命じ、石に彫刻して太学の門の外に建てた。後に儒学を学ぶ者には皆これを基準とさせた。


 石碑が建てられたばかりの時、見物に来た者や模写に来た者の車が一日千余輌に上り、街陌(街路)を埋るほどであった。


 太学は雒陽城南の開陽門外にあり、講堂は長さ十丈、広さ二丈というものであった。堂の前に四十六枚の『石経』があり、西に『尚書』『周易』『公羊伝』合わせて二十八碑、南に『礼記』十五碑、東に『論語』三碑があった。


 以前、州郡が互いに徒党を組み、私心・親情によって結びついていたため、朝議で制度を作り、婚姻関係にある家や二州の人士は互いの州を監臨(監督)することができないようにした。


 この頃(桓帝・霊帝時代)には更に「三互法」が作られ、禁忌が厳密になり、官員の選用が困難になったため、幽・冀二州では久しく刺史が空位になったまま補われなかった。


「三互法」について「婚姻関係の家および二州の人は互いに官に就くことができない」というものであるとされているがこれだけだとはっきりとした内容はわからず、いくつか説もある。その中でもわかりやすい説について説明する。


 漢代の地方官の任用に関しては、主に戸籍における制限があった。武帝より前はまだこのような制限がなかったが、武帝の中期以降、地方の長官は明らかに本籍を回避し始め、明確な法令はないものの事実上は本籍の人を用いなくなった。例えば州の刺史は本州の人を用いず、郡国の守相は本郡・本国の人を用いず、県の令長や丞尉は本県だけでなく本郡の人も用いなくなっていった。但し前漢時代の司隷校尉、京兆尹、長安令、丞尉には例外があった。


 また、郡県の属官佐吏は、三輔以外では全て本籍の人を用いた。郡の督郵も本郡の人を用いたが、監督する諸県の人は避けた。州が管轄する郡の従事も本州の人を用いたが、担当する郡の人は避けた。


 後漢時代になると、地方長官の戸籍に対する制限がますます厳しくなり、京畿も例外なく本籍の人を避けるようになっていった。


 更には二州をまたいで婚姻関係を結んだ家も互いの州を監臨できず、二州の人士が互いの州を監臨することもできなくなった。例えば荊州の者が徐州で刺史になれば、徐州の者は荊州で刺史になることができない。


 このような制度が「三互法」に発展した。先の例を元に言うのであれば、荊州の者が徐州で刺史になり、同時に荊州の者が益州で刺史になれば、益州の者は荊州でも徐州でも刺史になることができなくなった。三州で婚姻関係を結んだ家も同じである。


 実際の例で言えば、史弼しひつは陳留考城の人で、妻は山陽巨野の人であったため朝廷は史弼を山陽太守に任命したが、三互法を理由に平原相に遷している。


 因みに漢代は宗室、外戚、宦官に対しても制限があった。


 宗室、外戚、宦官は皇帝と特殊な関係にあり、往々にして政権に対して大きな影響力を持ったため、皇帝は彼らに対して意識的に制限を加えていた。例えば劉歆が河内太守になった時、宗室が三河を管理するのは相応しくないという理由で五原太守に遷された。漢代は河東、河内、河南三郡を三河といい、天下の重地としていたので、宗室が帝位を窺うことを防ぐため、「宗室が三河を管理するのは相応しくない」とみなしたのである。これが宗室に対する制限である。


 また、「王舅(皇帝の母の兄弟)は九卿に備わるべきではない」「后宮の家は封侯されて政治に関与してはならない」等の外戚に対する制限や、「旧典によると、宦官の子弟は牧人の職(民を治める職)になってはならない」「旧典によると、中臣の子弟は権勢を持つ位に居てはならない」等の宦官に対する制限もあった。


 但し、これらの法規は徹底することができていると言えず、皇帝も彼らとの関係から抜け出すことができなかったため、宗室の権勢が衰落すれば外戚が興隆し、外戚の権勢が衰落すれば宦官が隆盛するという状況になった。


 蔡邕が上書した。


「伏して見るに、幽・冀は旧壤(古い地)で鎧・馬を産出しますが、連年の兵饑(兵禍と飢饉)でしだいに空耗(空虚消耗)しています。今では刺史が欠員になって時を経ており、吏民が首を延ばして待ち望んでいます。しかし三府の選挙は月を越えても決定しておりません。これを怪しんでその理由を問いますと、三互を避けているといいます。十一州に禁(禁令)があるのに、この二州だけが該当しています。また、この二州の士は、あるいは歳月(年齢。経験年数)を制限の理由にされ、人選が躊躇して停滞したままになっています。そのため、両州が懸空(空虚)になり、万里が蕭條(静寂零落な様子)として管繋(管轄・管理)する者がいません。愚見としましては三互の禁とは最も軽い禁令であり、重要ではない禁令であると考えます。今は威霊を顕示し、憲令を明らかにさえすれば、互いの州を担当させても、畏懼して私利を計ることがありません。いたずらに重要ではない三互の禁令を設けて、自ら停滞・隔絶を生む必要があるのでしょうか。昔、韓安国は徒中(囚人の中)から起用され、朱買臣は幽賎(微賎)の出身でした。どちらも才宜(才能が相応しいこと)によって、本邦に還って守ることになったのです。どうしてまた三互を顧みて遵守し、末制(重要ではない制度)に拘るのでしょうか。私は陛下が上は先帝に則り、近禁(新しい禁制)を蠲除(廃除)して、諸州の刺史で能力があって換わることができる者は日月や三互に拘らず、相応しい者を派遣することを願います」


 しかしながら朝廷はこの意見に従うことはなかった。



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