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三国志  作者: 大田牛二
序章 王朝はこうして衰退する

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竇太后

 170年


 王朝は段熲だんけいを召して京師に還らせ、侍中に任命した。


 段熲は辺境にいた十余年の間、一日も蓐寝(蓆で寝ること。安眠)したことがなく、将士と甘苦を共にした。そのため、将士が皆、喜んで段熲のために死戦し、至る所で功を立てることができた。


 当時において屈指の名将と言って良いだろう。しかしながら彼は辺境に住む、異民族に対する攻撃性が高い人でもある。惜しいかな。その心のあり方さえなければもっと彼の名は不朽のものになっただろう。







 かつて中常侍・張讓ちょうじょうの監奴(奴僕の頭)が家事の管理を任せられており、その威勢は盛んであった。


 扶風の人・孟佗もうたは資産が豊富だったため、監奴を始め、張讓家の多数の奴僕と友人関係となった。


 孟佗は家財を傾けて贈呈し、自分が好きな物でも一つも残さなかった。


 奴僕達は皆、感謝し、孟佗が欲していることを問うた。


 すると孟佗はこう言った。


「私の望みは汝らが私のために一拝することだけです」


 当時、多くの賓客が張讓に謁見を求めており、訪問者の車が常に数百千輌を数えるほどであった。


 孟佗が張讓を訪ねた時も、後から来たため前に進めなくなった。そこで監奴が諸倉頭(諸奴僕)を率いて孟佗を出迎え、路上で拝礼してから、共に輿に載せて門を入った。


 この様子を見ていた賓客達は皆、驚いて孟佗が張讓に厚遇されていると思った。そこで争って珍玩を贈るようになった。


 孟佗がそれを分けて張讓に譲ったため、張讓は大いに喜んで孟佗を涼州刺史にした。


 本年、涼州刺史・孟佗は従事・任渉じんちょくを派遣して疏勒を討たせた。疏勒王の叔父・和得が王を殺して自立したためである。


 任渉は敦煌兵五百人を指揮し、戊己校尉・曹寛そうかん、西域長史・張宴ちょうえんと共に焉耆、亀茲、車師前部・後部の兵合わせて三万余人を率いて疏勒の楨中城を撃った。


 漢軍が楨中城を攻めて四十余日が経ちましたが、攻略できなかったため引き返した。


 この後、疏勒では王が繰り返して殺害されたが、後漢王朝はこれを治めることはもはやできなくなった。


 因みに涼州刺史・孟佗は孟達もうたつの父である。


 171年


 霊帝れいていは竇太后に援立の功(即位を助けた功績)があると考えた。


 十月、霊帝は群臣を率いて南宮で竇太后を朝見した。霊帝自ら食事を進めて長寿を祝った。


 すると黄門令・董萌とうぼうが頻繁に竇太后の冤罪を訴えるようになった。


(陛下のお心を変える良い機会である)


 そう考えたためである。


 霊帝は深く納得して以前よりも待遇を厚くするようになった


 しかしながら面白く無いのは曹節そうせつ王甫おうほである。彼らは董萌が永楽宮(董太后。霊帝の実母)を謗っていると誣告した。


 その結果、董萌は獄に下されて死んだ。






 172年


 正月、霊帝は原陵(光武帝陵)を祀った。


 司徒掾・蔡邕さいようはこの時、同行しており、その時の感想をこのように述べている。


「私は、古代においては墓祭を行わなかったと聞いていたため、朝廷に上陵の礼(陵墓を祀る儀礼)があるものの、始めはその儀式の内容を削減してもいいと思っていた。しかし今、祭祀の威儀を見てその本意を察し、明帝の至孝惻隠(至孝と心痛悲哀)を知ることができた(58年に明帝が原陵を祀ってから、その儀式が慣例になっている)。易奪(改変)してはならない。礼には煩(煩雑)でありながら省いてはならないものがあるが、これを言っているのだ」


 三月、太傅・胡広ここうが死んだ。八十二歳であった。


 胡広は四公(太傅、太尉、司徒、司空)を歴任して三十余年になり、六帝(安帝、順帝、沖帝、質帝、桓帝、霊帝)に仕えてきた。


 皇帝から新任が極めて厚く、たとえ罷免されても一年もせずにすぐまた升進した。


 胡広が招聘した者の多くは天下の名士であり、故吏(自分の元部下)の陳蕃、李咸りいと並んで三公になったこともあった。


 故事に練達(習熟)しており、朝章(朝廷の典章制度)に明解だったため、京師でこう言われた。


「万事で処理できないことがあれば伯始(胡広の字)に問え。天下の中庸(偏りがなく公正なこと)には胡公がいる」


 但し、胡広は温柔(温厚柔和)かつ謹慤(慎重朴質)な性格であったため、遜言(謙虚な言葉。または巧言)や恭色(恭しい態度)によって時世に媚びており、忠直の気風がなかったため、天下に軽視された一面もある。


 長楽太僕・侯覧こうらんが専権驕奢の罪に坐した。突然のことと言ってよく具体的な経緯は不明である。恐らく宦官同士の権力闘争に負けたのだと思われるがどうだろうか。


 霊帝は策書を発して侯覧の印綬を回収した。侯覧はそれにより、自殺した。









 竇太后の母が比景(流刑地)で死んだ。竇太后は憂愁して病を患うようになり、そのまま雲台で世を去った。


 宦官たちの竇氏へ対する怨みが積もっていたため、衣車(衣服を運ぶ車)に太后の死体を載せて城南の市舍(市中の客舎)に数日置いた。曹節と王甫は貴人の礼で殯(埋葬前の一定期間、霊柩を安置すること)を行おうとしたのである。


 しかし霊帝はこう言った。


「太后は自ら私の躬(身)を立てて大業を統承(継承)させたのだ。どうして貴人として終わらせることができようか」


 霊帝は喪を発して太后としての礼を成した。


 曹節らは竇太后を桓帝と別葬させて、馮貴人(桓帝の貴人)を桓帝に配祔(合祀。合葬)させたいと欲した。


 霊帝は詔を発して公卿を朝堂に集め、中常侍・趙忠ちょうちゅうに議論を監督させた。


 太尉・李咸りいはこの時、病を患っていたが、なんとか起ちあがり、椒(毒の一種)を砕いて携帯し、妻子にこう言った。


「もしも皇太后が桓帝と共に祀られないのならば、私は生きて還らないだろう」


 討議が始まった。坐っている者は数百人いたが、互いに久しく眺めあうだけで、誰も先に発言しようとしなかった。


 趙忠が急がせた。


「討議は速く決定するべきです」


 すると廷尉・陳球ちんきゅうが言った。


「皇太后は徳が盛んで良家だったため、母として天下に臨みました。先帝に配すべきであり、疑うことはありません」


 これに趙忠が笑って言った。


「陳廷尉は今すぐにここで見解を書き記すべきです」


 陳球はすぐに自分の意見を書いてこう言った。


「皇太后は元から椒房(皇后の部屋)におり、聡明母儀の徳(聡明な母として模範になる徳行)がありました。不孝な時に遭遇したら(桓帝が崩御したら)、陛下を援立して宗廟を承継させました。その功烈(功績)は至重です。しかしながら先帝が崩御なされてから大獄に遇ったため、空宮に遷り住み、不幸にも早世しました。確かに家(家族)は罪を獲ましたが、太后の事ではありません。今もし別葬されれば、誠に天下を失望させることでしょう。また、馮貴人の冢はかつて発掘(盗掘)されており、骸骨が暴露しています。賊に侵された尸を桓帝と並べれば、魂霊も汚染されます。そもそも国に対して功がないのに、なぜ上は皇帝と配すべきなのでしょうか」


 段熲が河南尹だった時、馮貴人の墓が盗掘されたと言われており、段熲はこのために諫議大夫へ左遷されている。しかしながら段熲が建寧三年(170年)に侍中になり、執金吾を経て河南尹になっており、盗賊が馮貴人の墓を盗掘したため、諫議大夫に左遷されて、本年に司隸校尉になっている。


 本年は霊帝熹平元年(172年)であるため馮貴人の墓はこの一、二年の間に盗掘されたようであるため最近のことである。


 趙忠は陳球の意見を読むと顔色を変えたが、すぐに嘲笑してこう言った。


「陳廷尉がこの議(意見)を建てたのはとても立派な意見である」


 続けて陳球は言った。


「陳・竇が既に冤罪を被り、皇太后が理由なく幽閉されたため、私は常に心を痛め、天下も憤歎(憤慨嘆息)して参りました。今日これを語り、退いて罪を受けたとしても、かねてからの願いでございます」


 更に李咸もこう言った。


「私も元からそうするべきだと思っていました。誠に同じ意見です」


 李咸の発言によって公卿以下の群臣が皆、陳球の意見に従った。


 しかし曹節と王甫はまだ反対した。


「梁后は家が悪逆を犯したため懿陵に別葬されました(梁后は桓帝の皇后で、桓帝より先に死に、懿陵に埋葬された。梁冀が誅殺されてから陵が廃されて貴人の冢(墓)にされ、桓帝は死後、宣陵に埋葬された)。武帝は衛后を黜廃して李夫人を配食しました(戾太子の乱が起きたため、武帝が太子の母・衛后を廃し、衛后は自殺した。武帝の死後、霍光は李夫人を武帝に配食させた)。今、竇氏の罪は深いにも関わらず、どうして先帝と合葬できましょうか」


 李咸が上書した。


「私が伏して思うに、章徳竇后(章帝の皇后・竇氏)は恭懐(梁貴人。和帝の母)を虐害し、安思閻后(安帝の皇后・閻氏)は家が悪逆を犯しましたが、和帝には異葬の議がなく、順朝(順帝の朝廷)にも貶降の文はございませんでした。衛后に至っては、武帝が生前に自ら皇后を廃しましたので、比べるべきではありません。今、長楽太后(竇太后)は太后の地位を廃されておらず、かつては自ら称制しました。しかも陛下を援立して皇位を光隆させたのです。太后が陛下をわが子としたのに、陛下はどうして太后を母とせずにいられましょうか。子は母を廃すことがなく、臣は君を貶めることがないものです。宣陵に合葬して全て旧制の通りにするべきです」


 上奏文を読んだ霊帝は李咸と陳球の意見に従った。


 七月、桓思皇后(竇太后)は宣陵に埋葬された。



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