弑逆後の後処理
魏の大将軍・司馬昭は今回の後処理を淡々と勧めた。
曹髦が死んだ後、魏の皇太后が令を下して高貴郷公・曹髦の罪状を述べ、廃して庶人とし、民の礼で埋葬させるとし、また、王経とその家属を逮捕して廷尉に送ることになった。
以下、皇太后の令である。
「私は不徳によって家の不幸に遭遇したため、昔、東海王の子・髦を擁立して明帝の嗣にしました。書信や文章を好むのを見て、成就できると期待しましたが、情性が暴虐非道で、日月を経てますます甚だしくなりました。私がしばしば叱責しましたが、更に忿恚(憤激・怨恨)するようになり、醜逆不道の言を造作して私を誣謗しました。こうして両宮が隔絶されたのです。彼が語ったことは聞くに堪えず、天地が寛容できるものではありません。そこで私はすぐに内密で大将軍(司馬昭)に令を語り、『帝は宗廟を奉じることができず、恐らく社稷を顛覆させることになるので、死んでから先帝に会わせる顔がない』と告げました。しかし大将軍は、彼がまだ幼いので、改心して善に為るはずだと言い、懇切に道理を述べて反対しました。ところがこの児は怨恨して行いがますますひどくなり、弩を挙げて遥か遠くから私の宮を射て、私の首に命中するように祈り、矢は私のすぐ前に落ちました。私は彼を廃さないわけにはいかないということを前後して数十回も大将軍に語りました。するとこの児はこれらの事を詳しく聞いて自分の罪が重いと知り、弑逆を為そうと図りました。私の左右の人に賄賂を贈り、私が薬を服用する時に乗じて秘かに酖毒を盛らせようとし、繰り返し計を設けたのです。この事が既に発覚すると、直ちに機会を利用して兵を挙げ、西宮に入って私を殺し、宮を出て大将軍を捕えようと欲しました。そこで侍中・王沈、散騎常侍・王業、尚書・王経を呼び、懐の中から黄素詔を出してそれを示し、『今日、すぐに実行するべきだ』と言いました。私の危機は卵を積み重ねた状態よりもひどくなったのです。私は老齢の寡婦です。どうしてまた余命を強く惜しむことでしょうか。ただ先帝の遺意が遂げられないことを悲傷し、社稷が顛覆することを痛みとするだけです。幸いにも宗廟の霊のおかげで王沈と王業がすぐに馳せて大将軍に語ったので、先に厳しい警備をすることができましたが、この児はすぐに左右の者を率いて雲龍門を出て、雷のように戦鼓を敲き、自ら刃を抜いて、左右の寄せ集めの衛士と共に軍陣の中に入り、その結果、前鋒によって害されました。この児は既に叛逆不道を行い、しかも自ら大禍に陥りました。重ねて私に心痛させ、その痛みは言い表せないほどです。昔、漢の昌邑王・劉賀は罪によって廃されて庶人になりました。この児もまた民の儀礼によって葬るのが相応しく、内外の全ての者にこの児が行ったことを知らせるべきです。また、尚書・王経は凶逆無状なので、王経および家族を逮捕して、皆、廷尉に送ります」
王経と家族が逮捕された時、王経が母に謝った。すると母は顔色を変えることなく、笑って応えた。
「人は誰が死なないのでしょう。ただ死に場所を得られないことを恐れるだけです。この事によって一緒に死ぬのなら、何を恨むことがありましょうか」
王経らが誅殺されると、故吏の向雄が哭泣し、悲哀が市中の人々の心を動かした。
王沈は功によって安平侯に封じられた。
太傅・司馬孚、大将軍・司馬昭、太尉・高柔、司徒・鄭沖が稽首して皇太后に進言した。
「伏して中令(宮中の令。皇太后の令)を見るに、故高貴郷公は悖逆不道で、自ら大禍に陥ったので、漢の昌邑王が罪によって廃された故事に則り、民礼を用いて埋葬せよとのことでした。我々は位に備わりながら、禍乱を匡正して姦逆を制止することができなかったので、令を奉じて震撼し、肝心が戦慄しています。『春秋』の義においては、王者は天下を家とするので、内と外の区別がありません。しかし『襄王が外に出て鄭に住んだ』と書かれたのは、母につかえることができず、そのために王の位にいながら王の資格を絶たれたからです。今、高貴郷公はほしいままに行動して道理に背き、社稷を危うくさせようとして、自ら顛覆を取って人からも神からも絶たれたので、民礼を用いるのは誠に旧典に符合しています。しかし我々が伏して思うに、皇太后殿下の仁慈は甚だしく盛んであり、たとえ大義が存在するとはいえ、なお憐憫の情を垂らしているので、我々の心には実に忍び難いものがあります。よって、恩を加えて王礼によってこれを葬るべきです」
皇太后はこの意見に従った。
司馬昭が公卿と議して、燕王・曹宇の子に当たる常道郷公・曹璜を帝に立てることにした。
朝廷は中護軍・司馬炎を派遣して北に向かわせ、曹璜を鄴で迎えて明帝の後嗣にした。この司馬炎こそ、司馬昭の息子である。
その間、司馬昭は成済兄弟の大逆不道を上奏した。
「故高貴郷公は従駕の人兵(皇帝の周りに仕える兵)を統率し、刃を抜いて金鼓を鳴らし、私が駐留している場所に向かって来ました。私は武器が互いに接することを懼れ、将士に傷害してはならないとすぐに命じ、令に違えたら軍法によって処理すると宣言しました。ところが騎督・成倅の弟・太子舍人・成済は勝手に軍陣に入って公を傷つけ、ついに公が命を落とすことになりました。そこですぐ成済を捕えて軍法を行いました。私が聞くに、人臣の節とは、死ぬことはあっても二心は抱かないものであり、皇帝に仕える義とは、難から逃げることがないものだといいます。先日、変故が突然至り、禍は機械を発するのと同じようでした(禍が突然至ったことを表す)。私は誠に身を捨てて命を懸け、ただ皇帝の命に従って判断しようと欲していましたが、この度においては本謀(曹髦の今回の陰謀)が、上は皇太后を危うくし、宗廟を顛覆させようとしているということを考慮しました。私は忝くも大任に当たっており、国を安んじることが道義なので、たとえこの身が死んでも、皇太后が害されて宗廟が転覆したら罪責がますます重くなるということを懼れました。そこで伊・周(伊尹・周公)の権(時に応じた手段)を遵守することで、社稷の難を安んじようと欲し、すぐに繰り返し諫言しようとしましたが、輦輿(皇帝の車)に接近することができず、その間に成済が急いで陣間に入り、大変事を招いてしまいました。悲哀と痛恨によって五臓が打ち砕かれるほどで、どこで死ねばいいのかも分かりません。法令においては、大逆無道は父母・妻子・兄弟が皆、斬られるものです。成済は凶悪で正道に背き、国を犯して綱紀を乱したので、その罪は誅殺を免れません。すぐ侍御史に命じて成済の家属を逮捕し、廷尉に送ってその罪を判決するべきです」
これを受け、皇太后は詔を発した。
「五刑の罪において、不孝より大きなものはありません。他人に不孝な子がいたとしても、なお、それを告発して治めるものです。不孝を行った曹髦は最大な罪を犯したので、人君とはいえません。私は婦人なので大義に達していませんが、曹髦は人君ではないので成済は大逆とみなすことができないと考えます。しかし大将軍の志意は懇切で、発言が悲傷な様子なので、上奏の通りにすることを許可します。遠近に宣布していきさつを知らせなさい」
こうして成済の家族が誅滅されることになった。
これが司馬昭の賈充を殺さずに天下に謝罪する術であったのだろう。
成済兄弟はすぐ罪に伏そうとはせず、上半身を裸にして屋根に上り、
「何をしても罪に問わないと言ったではないか」
醜言を述べたが、朝廷の兵が下から矢を射てやっと殺した。
「たかが一人を殺さなかったばかりに司馬昭は汚名を着ることになった」
陳泰はそう呟いた。この年、彼は世を去ることになる。此度のことによる心労が祟ったための病死であったと思われる。
彼の死は自害であったという説もある。それが本当であれば、その自害は司馬昭への非難の死であったのか。司馬昭の代わりに曹髦への謝罪のための死であったのか。後者だとすれば、彼の司馬昭への思いは本物であったと言えるだろう。
六月、皇太后が詔を発した。
「古においては、人君が名と字をつける時、犯しがたく避けやすいものを選びました」
当時、皇帝の名や字に使われている文字を臣民が使うことは禁じられていた。これを「避諱」という。そのため、帝王は民衆があまり使わない文字を選んで名や字に使った。
「今、常道郷公・璜の諱字は避けるのが甚だ難しいので、朝臣は広く改名について討議し、並べて上奏しなさい」
曹璜は名を奐に改められた。
常道郷公・曹奐が洛陽に入った。
この日、曹奐が皇帝の位に即きます。年は十五歳という若さである。
曹奐は諡号を元帝といい、魏王朝最後の皇帝になる。




