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三国志  作者: 大田牛二
序章 王朝はこうして衰退する

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袁氏

 以前、中常侍・張讓ちょうじょうの父が死に、潁川に帰って埋葬した時、一郡の人がほとんど全て集まったが、名士では陳寔ちんしょく以外に参加した者がなく、張讓はこれを非常に恥とした。


 後に党人が誅殺されることになったが、張讓は陳寔との事があったため、多くの人を寛恕した。


 陳寔の優しさが多くの人を救ったのである。


 かつて范滂はんぼうらが朝政を批難した時、公卿以下、皆がへりくだった態度をとり、太学生も争ってその気風を慕い、文学が興隆して庶士がまた任用されるようになると考えた。


 しかし申屠蟠しんとはんだけは嘆いた。


「昔、戦国の世では庶士が横議(自由に議論すること)し、列国の王には擁篲先駆(箒を持って道を清め、賓客を案内すること)する者までいたが、最後は坑儒焼書(焚書坑儒)の禍があったのだ。まさに今のことである」


 申屠蟠は梁・碭の間で姿を隠し、樹木で家を建てて傭人と同じように生活した。


 その二年後に范滂らが党錮の禍を被ったが、申屠蟠だけは超然として評論(批評、議論)から免れることができた。








 南陽の人・何顒かぎょうはかねてから陳蕃、李膺と仲が良かったため、逮捕の対象になった。


 彼は若くして洛陽に遊学し、若年にも拘らず時の名士である郭泰かくたい賈彪かひょうと誼を通じて、太学に名を顕した。


 友人の虞偉高ぐいこうが父の仇に報いずして病に倒れた時、何顒はその義に感じ入って代わりに報復してやり、その首を墓前に捧げた人でもある。


 彼は姓名を変えて南陽と汝南の間に隠れ、袁紹えんしょうを頼った。


 袁紹を始めとする袁氏について少し説明がいる。


 桓帝時代の太尉・袁湯えんとうには三人の子がいた。袁成えんせい袁逢えんほう袁隗えんかいという。


 袁成は袁紹を生み、袁逢は袁術えんじゅつを生んだ。


 袁逢と袁隗はどちらも名声があり、若い頃から顕官(顕要な官。高官)を経歴した。


 当時、中常侍・袁赦えんしゃは袁逢と袁隗が宰相の家系で、しかも自分と同姓だったため、二人を推崇(推薦・尊重)して外援(宮外の友好的な勢力)にした。そのおかげで袁氏は当世の貴寵を得て甚だ富奢になり、他の三公の家族と差が生まれるようになった。


 袁紹は壮健で威容があり、士を愛して名声を得た。賓客が四方から集まって袁紹に帰心し、輜輧・柴轂(「輜」は屋根がついた車、「輧」は車体が囲まれた車で、どちらも裕福な者が乗る車。「柴轂」は「柴車」ともいい、貧しい者が乗る車)が街陌(街道)を埋めた。


 袁術も侠気によって名が知られていた。


 しかしながら二人は前々から仲が悪いことで有名であった。


 また、袁氏の者でこういう人物がいる。袁逢の従兄の子・袁閎えんこうという人は若い頃から操行(節操・品行)があり、耕学(農耕と学問)を業としていた。


 袁逢や袁隗がしばしば食糧等を送ったが、受け取ったことはなかった。


 袁閎は世の中が険乱になっているのに家門が富盛な様子を見て、常に兄弟に対して嘆いた。


「我が先公の福禄を後世は徳によって守ることができず、逆に競って驕奢を為し、乱世と権を争っている。これでは晋の三郤と同じではないか」


 ここで言う「先公」とは袁安を指す。後漢の名臣であり、袁氏の始祖というべき人である。


「三郤」は春秋時代の晋の大夫・郤錡、郤犨、郤至のことである。郤氏は代々晋の卿になったが、三人が驕奢に振る舞って専横したため、厲公に殺された。


 党事(党錮事件)が起きると、袁閎は深林に逃げようとしたが、母が老齢だったため、遠くに逃げるべきではないと考えた。そこで四周を囲んだだけで戸がついていない土室を庭に築いた。


 飲食は窓から受け取り、母が袁閎を想った時は窓まで会いに行ったが、母が去れば、自分で窓を閉めて兄弟も妻子も会えなくした。


 身を隠して十八年が経ち、土室の中で死んだ。五十七歳であった。


 名声があり、挟もあるため何顒は袁紹を頼ったのである。


 彼は袁紹と奔走の友(互いに奔走して助け合える友)になった


 何顒はしばしば秘かに雒陽に入り、袁紹に従って計議した。諸名士で党事(党人の獄)に遭った者のために救援を求め、権計(謀計)を設けて逃隠(逃げ隠れ)できるようにした。そのおかげで禍から逃れて身を守った者が大勢いた。


 何顒は荀爽じゅんそう荀攸じゅんゆうと仲がよく、荀爽が党錮から逃れるため南方に逃れるのを助けた時、彼は荀爽の甥である荀彧じゅんいくと出会った。


 彼は荀彧と語り合い、彼の才能を認めてこう評価した。「王佐の才」と。


 それを荀攸が知ると彼は何顒にこう言った。


「あまりかけ離れた評価を下されましたなあ」


 荀攸のが荀彧よりも年上であるが、血縁上は荀彧の甥である。基本的には叔父を尊重する立場でありながらも荀彧の評価に対して苦言を示した。


「汝の叔父上は「王佐の才」と評価するべき才覚を有している」


 本来であれば喜ぶべきではある。なにせ何顒に褒められているのであるからである。


 しかしながら荀攸は首を振った。


「「王佐の才」とは才覚のみで有していると言えるものではございません。叔父上にはあまりにもその評価は……」


 そこまで言って荀攸は口を噤み、立ち去った。





 

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