寿春
258年
正月、寿春で籠城している文欽が諸葛誕に言った。
「蒋班と焦彝は我々が出撃できないと判断したので走り、全端と全懌もまた兵を率いて敵に投降した。それによって今、敵には油断があり、備えがない。故に戦うことができる」
諸葛誕および唐咨らは皆、その通りだと思い、武器を作り、昼夜五、六日にわたって南の包囲を攻撃し、突破して脱出しようとした。
しかし包囲網の営壁上にいる諸軍が高所に臨んで石車(投石車)や火箭(火矢)を発し、逆に諸葛誕軍の攻具を焼いて破壊した。更に矢石を雨のように降らせた。
諸葛誕の軍は死傷者が地を覆い、血が流れて濠を満たしたため、再び城に還った。この敗戦と城内の食糧がますます少なくなっていたことから、城を出て投降する者が数万口になるようになった。
この状況において、文欽は北方の人を全て城から出して食糧を節約し、呉人と堅守することを望んだ。これは食料の節約と共に呉軍の援軍を引き出すための考えでもあった。
しかし諸葛誕は同意しなかった。彼の配下は北方の者が多いのである。彼らを追い出す真似などできなかった。
(文欽は私から兵を奪い、指揮権を奪う気なのではないか……)
諸葛誕は文欽への不信感を覚え、彼と対立するようになった。
元々、文欽と諸葛誕との間には対立があり、計(司馬氏を倒すという考え)によって結んでいただけだったため、事が急を告げると、ますます互いに疑うようになっていった。
その結果、文欽が諸葛誕に会って事を計った際、諸葛誕は文欽を殺してしまった。
当時、文欽の子・文鴦と文虎は兵を率いて小城にいた。
「父上が諸葛誕に殺された……」
「兄上、どうなさいますか?」
「父上を殺した者と協力はできない」
文鴦の思考は父への孝が中心である。そのため父を殺した諸葛誕と協力などできない。
「しかし諸葛誕に従わないということは……」
「司馬昭殿のご慈愛に縋るのみだ」
二人は兵をまとめて司馬昭の元へ赴こうとしたが、兵達が従わなかった。呉の兵が多かったのと、司馬昭が許してくれるとは思わなかった。
「兵が従わない以上、我々だけで行くしかあるまい」
二人とも単身で逃走し、城壁を越えて外に出て、自ら司馬昭に帰順した。
魏の軍吏たちは文鴦らを誅殺するように請うたが、司馬昭はこう言った。
「文欽の罪は誅殺しても赦されるものではなく、その子も本来なら処刑されて当然である。しかし文鴦と文虎は窮して帰順してきた。しかも城をまだ抜いていないのにこれを殺してしまえば、敵の心を堅めさせることになる」
司馬昭は文鴦と文虎を赦し、数百騎を率いて城外を巡らせ、こう叫ばせた。
「文欽の子でもなお殺されなかったのだ。他の者は何を懼れるというのか」
また、司馬昭は上表して文鴦と文虎を将軍に任命し、爵を下賜して関内侯にした
これを聞いた城内の者は皆喜んだ。司馬昭は城攻めにおいて心を攻めるということが最も重要であることを知っていたと言える。
「城を守るのは城壁ではなく、人だ」
ある時、司馬昭が自ら包囲陣に臨んだ際、城壁の上で弓を持った者は矢を射ようとしなかった。それを見た司馬昭は、
「攻撃できる」
と言い、四面から兵を進めた。同時に鼓譟(戦鼓を叩いて喚声を上げること)して城壁を登らせた。
二月、寿春は陥落した。
困窮した諸葛誕は単馬で部下を指揮し、小城門を突破して脱出しようとした。しかし司馬・胡奮が兵を指揮し、諸葛誕を撃って斬った。諸葛誕の三族も皆殺しにされた。
諸葛誕の部下・数百人は皆、捕らえられたが、拱手(胸の前で手を組む姿勢)して列を作り、投降しなかった。一人斬るたびに投降を誘うたが、彼らは最後まで心を変えることなく、全て殺された。
このことから当時の人々は諸葛誕のことを田横を引き合いにして評価している。しかしながら諸葛誕の志は田横の志に及んだと言えるかについては疑問が残る。
呉将・于詮は、
「大丈夫がその主から命を受け、兵を率いて人を救おうとしたのに、敗北したうえに投降するというようなことは、私にはできない」
と言うと、冑を脱いで敵陣を冒し、戦死した。
唐咨、王祚らは皆、投降した。魏に降った呉兵は一万人に上り、武器が山積みになったという。
議者がこう主張した。
「淮南は頻繁に叛逆しており、投降した呉兵の室家は江南にあるので、放つべきではありません。全て生埋めにするべきです」
しかし司馬昭はこう言った。
「古の用兵とは、国を全うすることを上としたので、その元凶を殺戮しただけだった。もし呉兵が逃亡して帰還できるようならば、正に中国の大度を示すことができる」
司馬昭は一人も殺さず、三河近郡(首都がある河南郡と首都に近い河東郡、河内郡)に分布して安居させた。
そして、降伏した唐咨を安遠将軍に任命し、その他の裨将にも全て位号を授けた。人々は皆、悦服した。
淮南の将士・吏民で諸葛誕に脅略された者(脅迫を受けて味方に入れられた者)は全て赦した。また、文鴦兄弟が父の死体を収容することを許し、車牛を与え、旧墓(祖先の墓)に送って埋葬させた。
司馬昭が王基に書を送った。
「最初、議者があれこれと言い、陣を北山に移すように求める者が甚だ多かった。あの時はまだ自ら実地を調査していなかったので、私もその通りだと思ったものだ」
前年、曹髦が詔を発して王基に陣を移すように命じた時のことを言っている。
「しかし将軍は深く利害を計算し、独り固い意志を持って、上は詔命に違え、下は衆議を拒んだ。その結果、最後は敵を制して賊を虜にするに至った。古人が記録した功績でも、あなたを越えることはない」
司馬昭は諸軍の軽兵を派遣して呉に深入りさせ、唐咨らの子弟を招いて迎え入れ、間隙に乗じて呉を滅ぼす形勢を作ろうとした。
しかし王基が諫めた。
「昔、呉の諸葛恪が東関の勝ちに乗じ、江南の兵を出し尽くして新城を囲みましたが、城は陥落せず、そのうえ死者が大半に上りました。蜀の姜維は洮西の利に乗じて軽兵で深入りしましたが、食糧が続かず、軍が上邽で覆滅しました。大勝の後とは、上下が敵を軽んじるものであり、敵を軽んじたら思慮が深くなくなります。今、賊は外で敗れたばかりで、内患もまだ止んでいません」
「内患」とは呉の孫亮と孫綝による君臣間の猜疑を指す。
「これは備えを修めて慮を設けている時です。しかも我々の兵は出征して年を越えており、人々に帰心があります。今、十万を俘馘(捕虜にしたり殺して耳を斬ること)し、罪人(諸葛誕)を得ることができました。歴代の征伐において、兵を保全して一方的に克ち、その様子が今回のように盛大だった者はいません。武皇帝(曹操)が官渡で袁紹に克った時も、獲たものが既に多いと考えて、再び追撃することはありませんでした。威が挫かれることを懼れたからです」
司馬昭は出兵を中止し、王基を征東将軍・都督揚州諸軍事に任命して東武侯に進封した。
司馬昭が寿春に勝利した時、鍾会の謀画(計謀・策謀)が多数を占めたため、司馬昭は日に日に親近して優待するようになり、腹心の任を委ねた。
当時の人々は鐘会を張良に匹敵するとみなした。
「張良か……」
それを黄色い服の男はそれを聞くと仮面の男に言った。
「張良のようだと言われて、碌な運命を辿った者は少ないが、彼はどうだろうな?」




