表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
三国志  作者: 大田牛二
序章 王朝はこうして衰退する
3/372

やりたい放題

 150年


 順帝の死後から政務を行っていた梁太后は政務を自ら取ることを止めて、桓帝かんていに戻した。度重なる問題の処理に疲れたのであろう。彼女はそのまま世を去った。


 しかしながら政治の実権は未だ大将軍・梁冀りょうきに握られており、桓帝には何の実権もなかった。


 桓帝は大将軍・梁冀に一万戸を増封した。以前の食邑と併せて三万戸になった。


 また、梁冀の妻・孫寿そんじゅを襄城君に封じ、陽翟の租も収入に加えさせた。孫寿の一年の収入は五千万になった。桓帝は孫寿に赤紱を加えて長公主と同等にした。


 漢制では、公主は公侯と同格で紫紱を持ち、長公主は諸王と同格で赤紱を持った。


 孫寿は妖態によって梁冀を蠱惑(誘惑。惑わすこと)するのが得意な人であった。梁冀は非常に孫寿を寵憚(寵愛しながら懼れること)した。


 孫寿の容姿についてこう記述されている。


「愁眉・啼粧(「愁眉」は憂いを抱いた時のような細くて曲がった眉、「啼粧」は泣いた後のように目の下の白粉を薄くする化粧の方法)」


「墮馬髻(束ねた髪を左右のどちらかに垂らす髪型)」


「折腰歩(腰を振って歩くこと)」


「齲歯笑(歯が痛い時のような笑い方。はにかんだ笑い)」


 これらは梁冀の家で為したところから始まり、京師が一斉に真似するようになったという。


 梁冀は監奴・秦宮しんきゅうを寵愛し、官を太倉令に至らせた。太倉令は大司農に属す秩六百石の官で、郡国から運ばれた穀物の受け入れを管理している。ある意味、流通を管理する仕事であると思われる。


 秦宮は孫寿の住居に出入りできたため、威権を大いに振るわせた。刺史や二千石が任地に赴く時は皆、秦宮を謁見して別れの挨拶をするようになった。


 梁冀と孫寿は街道を挟んで邸宅を建てた。建築の技巧を極めて互いに競い合い、金玉・珍怪(珍宝)が藏室を満たすほどであった。


 また、広大な園圃を開き、土を集めて山を築き、十里の間に九阪(九つの坂、山)が造られた。深林や絶澗(絶谷)は自然にできた景観のようで、その中を奇禽(珍しい鳥)や馴獣(飼育された獣)が飛走した。


 梁冀と孫寿は共に輦車(人が牽く車)に乗って邸宅内を遊観した。多数の倡伎が後ろに従い、道中で歌を歌い、連日連夜、ほしいままに遊楽した。


 客が梁冀の門を訪ねても通されないため、皆、門者(門番)に賄賂を贈って謁見を請うた。門者の財は千金を数えるようになった


 梁冀は更に多数の林苑を開き、近隣の県を覆った。


 また、河南城西に兔苑を築いた。長く連なった兔苑は数十里に及んだ。梁冀は兎が好きという可愛らしい趣味があった。彼は兔苑が造られた地に檄(文書)を送って生きた兔を徴発させ、兔の毛を一部切って目印にした。禁令を犯す者がいたら(兔を捕まえる者がいたら)罪が死刑に至った。


 ある時、西域の賈胡(少数民族の商人)が禁忌を知らずに誤って一兔を殺してしまい、その事件が発覚して関係者が互いに告発したため、罪に坐して死んだ者は十余人を数えたという。


 梁冀は城西にも別宅を築いて姦亡(法を守らない姦民や亡命者)を収容した。


 しかも良人(平民)を奪って全て奴婢に落とし、その数は数千口に及んだ。梁冀はこれを「自売人(自らを売った人)」と名づけた。


 梁冀は孫寿の言を用いて多くの梁氏から官位を奪い、排斥した。そうすることで外に対して謙譲を示したつもりであったが、実際は孫氏の地位を高くさせるのが孫寿の目的であった。空位になった官職に孫氏の者を入れたのである。


 孫氏の宗親で能力がないのに侍中、卿、校、郡守、長吏になった者は十余人もおり、皆、貪饕(貪婪)・凶淫(凶悪放縦)であった。それぞれ私客を使って属県の富人を記録し、他罪を被せ、獄に入れて拷問しました。金銭を出して贖罪させ、貲物(家財)が少ない者は死に至ることもあった。


 扶風の人・士孫奮しそんふんは富裕であったが性格が吝嗇であった。


 梁冀が馬乗(四頭の馬。馬車を牽く馬)を贈り、代わりに銭五千万を借りようとした。しかし士孫奮は三千万しか与えなかったため、梁冀は激怒して士孫奮が住む郡県で、


「士孫奮の母はかつて梁冀の守藏婢(財物を管理する婢女)になり、白珠十斛と紫金千斤を盗んで逃走した」


 と告発した。


 その結果、士孫奮兄弟は逮捕されて拷問を受け、獄中で死んだ。士孫奮の貲財(財産)一億七千余万は全て没収された。


 梁冀は賓客を派遣して四方に周流(周遊)させた。遠い者は塞外に至って広く異物(珍宝)を求めた。


 派遣された者達も権勢に乗じて横暴に振るまい、婦女を奪ったり吏卒を殴打したため、彼らが至った場所で怨毒(怨恨・悲痛)を生んだ。








 やりたい放題と言って良い梁冀を止めようとした者たちは当然いた。


 侍御史・朱穆しゅぼくは梁冀の故吏(かつての官吏。部下)だったため、梁冀に文書を送って諫めた。


「明将軍は地(地位)に申伯(申国の伯。西周宣王の元舅(母の兄))の尊があり、位は群公の首となっていますので、(梁冀は朝廷で三公と離れて単独で座っており、特別な待遇を受けている)一日でも善を行えば、天下が将軍の仁を思って帰心することでしょう。しかし逆に終朝(朝。または一日)に悪を為せば、四海が傾覆(転覆)することになります。最近、官民が共に匱(欠乏)し、加えて水蟲(洪水や害虫)が害を為しているのに、京師諸官の費用は増加しており、詔書による発調(徴発)があるいは平時の十倍にも及んでいます。しかも各々(各官吏、各官署)が官には現有の財がないと言って全て民から出させ、搒掠(殴打、鞭打ち)・割剝(搾取)し、強令によって数を満たしております。公賦が既に重いにも関わらず、私斂(官員の個人的な取り立て)もまた深く、牧守・長吏の多くが徳によって選ばれたのではないため、貪婪な搾取に厭きることなく、民に遇えば、虜(盗賊。仇敵)のようにみなしています。そのため民のある者は箠楚(棍棒。刑具)の下で絶命し、ある者は迫切の求(切迫した要求)によって自賊(自殺)しているのです。しかも百姓に対する掠奪(強奪)は全て大将軍の名義で行われているので、将軍に天下の怨みを結ばせ、吏民が酸毒(痛恨。苦痛)して道路で歎嗟(嘆息)しております」


「昔、永和(順帝時代)の末に綱紀が少し弛んだため、頗る人望を失い、わずか四、五年で財が尽きて戸口が流散し、下が離心を抱き、馬勉の徒が敝(隙。衰退)に乗じて起ち上がり、荊・揚の間で大患が生まれるところでした。幸い順烈皇后(梁太后)が政治を始めたばかりで清静だったおかげで、内外が同力(協力)して、やっと討定(討伐・平定)できたのです」


「今は百姓が戚戚(畏れる様子。動揺する様子)として永和より困窮しております。内では仁愛の心が無く、民に対して寛容で無く、外は国を守る計が無ければ、久しく安定させることはできないでしょう。将相・大臣とは元首(国君)と一体で、共に輿に乗って駆け、同じ舟で渡るものですので、輿が傾いて舟が転覆すれば、実に患を共にすることになります。どうして明から去って昧(暗)に就き、危険を招きながら自分を平安にさせ、主が孤立して時局が困難なのに救済しないでいられましょうか。宰守(地方官)でその人ではない者(相応しくない者)はすぐに交代させ、第宅(邸宅)園池の費を減省(削減)し、郡国が奉送する全ての物を拒絶なさるべきです。こうして内は自身を高明にし、外は人惑(民衆の疑い)を解き、挾姦の吏(姦悪を抱いている官吏)が依託するところを無くさせ、司察の臣が耳目を尽くせるようにするのです。憲度(法度)が既に張られれば、遠近が清平になり、その後、将軍は身が尊く事(業績)が顕かで、徳燿(徳の光。明徳)が無窮になることでしょう」


 梁冀は採用しなかった。


 梁冀は朝政を専断して縦横跋扈していましたが、桓帝の左右に仕える宦官とも交流しており、その子弟や賓客を州郡の要職に任命していた。桓帝の自分に対する恩寵を固めるためである。


 朱穆が文書を送ってまた極諫したが、梁冀は受け入れず、返書を送って、


「そのようにしたら私は一つも取るべきところがないではないか」


 と伝えた。


 梁冀はかねてから朱穆を尊重していたため、繰り返し極諫した朱穆を処罰することはなかった。


 だが、その他の者はそうはいかない。


 梁冀が楽安太守・陳蕃ちんはんに書を送って私事を請託したことがあったが、使者は陳蕃に会えなかった。


 そこで使者は他の客の名を偽って陳蕃に謁見を求めた。


 陳蕃は怒って使者を笞殺(鞭殺)した。


 この事件が原因で陳蕃は罪に坐して脩武令(県令)に左遷された。


 当時、皇子が病を患ったため、桓帝が郡県に令を下して珍薬を購入させた。


 梁冀はこれを機に客に書を持たせて京兆に送り、梁冀のために珍薬と一緒に牛黄(牛の胆嚢にできた結石。貴重な薬の一種)を購入するよう要求した。


 京兆尹・南陽の人・延篤えんしつは梁冀の書を開くと客を逮捕し、


「大将軍は椒房(皇后)の外家であり、しかも皇子に疾(病)があるため、必ずや医方を進呈するはずだ。どうして客を使って千里に利を求めるはずがあるか」


 と言って殺した。


 梁冀は慚愧して何も言えなかったが、彼に媚びる有司(官員)が梁冀の意に迎合して客を殺した件を追求するように求めたため、延篤は病を理由に罷免された。


 

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ