陳蕃
太白(金星)が房の上将を侵して太微に入った。
房四星(房宿)は明堂を象徴し、天子が布政する宮でまた四輔にも当たる。下の第一星が上将で、次は次将、次は次相、上の星は上相である。太微は天子の庭を指す。
侍中・劉瑜はかねてから天官(天文)を得意としたため、この現象を嫌って皇太后に上書した。
「『占書』を元に考察すると、宮門が閉じられて、将相が不利になり、姦人が主の傍にいることになります。急いでこれを防ぐように願います」
劉瑜は竇武と陳蕃にも書を送り、星辰の錯繆(錯乱)は大臣にとって不利なので、速く大計を決断するべきだと伝えた。
これを受けて竇武と陳蕃は朱㝢(しゅぐう)を司隸校尉に、劉祐を河南尹に、虞祁を雒陽令に任命した。
更に竇武は竇太后に上奏してから黄門令・魏彪を罷免し、自分と親しい小黄門・山冰と交代させた。
その後、山冰に長楽尚書・鄭颯を逮捕するように上奏させ、鄭颯を北寺獄に送った。
陳蕃が竇武に言った。
「このような者(鄭颯を指す)は逮捕したらすぐに殺すべきです。なぜ審問する必要があるのですか」
しかし竇武はこれに従わなかった。
(物事には順序がある)
彼はそう考えていた。彼は山冰と尹勳、侍御史・祝瑨に命じて共に鄭颯を審問させた。その結果、鄭颯の供述の中に曹節や王甫の悪事が出てきた。
尹勳と山冰は曹節の逮捕を求める上奏文を書き、劉瑜を送って内奏(宮内の皇帝や皇太后に上奏すること)させた。
竇武が宿(宮中の宿舎、竇武は通常、禁中に住んでいる)を出て府邸(家)に帰った。これでもはや宦官は全滅させることができると思ったのだろう。
しかしながらここからの宦官の反撃の速さは彼の予想を超えることになる。
尹勳等の上奏文が竇太后に提出される前に、中書(宮中の文書)を管理する者がまず長楽五官史・朱瑀に報告した。朱瑀は尹勳らの上奏文を盗み見て、怒ってこう言った。
「宦官で放縦な者は当然、誅されるべきだ。しかし我々に何の罪があってことごとく族滅に遭わなければならないのか」
宦官の中にも誠実な者がいる。宦官だからという理由だけで全員が殺されるのは納得がいかなかった朱瑀は逆に大声を上げて、
「陳蕃と竇武は廃帝について太后に上奏し、大逆を為そうとしている」
と叫んだ。
その夜、朱瑀はかねてから親しくしている壮健な者や長楽従官史・共普、張亮ら十七人を招き、血をすすって盟を結んだ。竇武らの誅殺について謀議が行われた。こういう時の宦官の団結力は凄まじいものがあり、行動力がある。
この状況から察した曹節は霊帝にこう言った。
「外の状況が切迫しています。徳陽前殿への出御を請います」
曹節は霊帝に剣を抜いて跳躍させた(発奮、奮起の姿)。また、乳母の趙嬈らに霊帝の左右で護衛させ、棨信(「棨信」は宮門を通る時に使う通行証)を取って、諸禁門を閉じることで外部の者が入れなくし、尚書の官属を招いてから白刃で脅かして詔板(詔書)を作らせ、王甫を黄門令に任命した。王甫に符節を渡して北寺獄に派遣し、尹勳と山冰を逮捕させた。
しかし山冰が疑って詔を拒否したため、王甫は山冰を格殺(撃殺)し、併せて尹勳も殺した。鄭颯が釈放された。
王甫は兵を率いて宮中に還り、竇太后を脅迫して璽綬を奪った。中謁者に南宮を守らせ、門を閉じて複道(上下二層の通路)を遮断した。
更に鄭颯らに符節を持たせ、侍御史、謁者と共に竇武らを逮捕させに向かわせた。
「宦官どもめ」
しかし竇武は詔を受け入れず、歩兵営に駆け入り、兄の子である歩兵校尉・竇紹と共に使者を射殺した。
北軍五校士の数千人が集められて都亭に駐屯した。
竇武が軍士に号令して言った。
「黄門と常侍が反した。尽力した者は封侯して重賞を与えん」
この難(異変)を聞いた陳蕃が官属・諸生八十余人を従え、刃(剣)を抜いて承明門に突入して尚書門に至り、承明門に到ったが、使者(従僕。または宮中の命を受けた者)が中に入れず、
「あなたは詔召を被っていません。なぜ兵を率いて入宮できるのですか」
と問うた。
陳蕃は言った。
「趙鞅は勝手に兵を率いて宮に向かい、君側の悪を逐った(春秋時代、晋の故事)。『春秋』はこれを義としたではないか」
ある使者が外に出て門を開いたため、陳蕃は尚書門に到り、腕を振って叫んだ。
「大将軍の忠は国を守るものである。黄門(宦官)が反逆したのに、なぜ竇氏が不道だと言うのか」
この時、王甫が外に出て陳蕃に遭遇し、ちょうどこの言葉を聞いたため、陳蕃を譴責した。
「先帝が崩御して山陵もまだ完成していないにも関わらず、竇武は何の功があって兄弟父子ともに三侯に封じられたというのか。また、音楽を設けて宴を開き、多く掖庭の宮人を取り、十日の間で貲財(資産。財産)が巨万になった。大臣がこのようであることこそ不道というのだ。陳蕃は宰輔でありながら、軽率に徒党を組んだ。どこに賊を求めるのか。竇武と陳蕃こそが賊ではないか」
王甫は剣士に命じて陳蕃を逮捕させた。
陳蕃は剣を抜いて王甫を叱咤した。その表情の凄まじさに王甫の兵は近づくことができなかった。
「老賊相手になぜ怯えているのか」
王甫は兵を増やして数十に包囲した。なんとか抵抗しようとした陳蕃は捕えられて、黄門北寺獄に送られた。
黄門従官騶(宦官に従う騎士。「騶」は騎士)が陳蕃を蹋踧(踏んだり蹴ること)して言った。
「死老魅(死にぞこないの化け物)。これでもまだ我々の員数を減らし、我々の稟假(俸禄と貸借。収入)を損なうことができようか」
陳蕃は即日殺された。
彼ほど熱く情熱をもって王朝のために宦官と戦った男はいなかっただろう。しかし彼の闘志は王朝の闇の中で燃え尽きた。
「あとは竇武だ。しかしやつは軍を握っている……」
「ならば、あの男を使おうではないか」
当時、護匈奴中郎将・張奐が招かれて京師に還っていた。
曹節らは張奐が京師に到着したばかりで本謀(主謀。謀略の真相)を知らないと判断した。そこで、矯制(偽造した皇帝の命令)によって少府・周靖を行車騎将軍(車騎将軍代行)に任命し、符節を与え、張奐と共に五営士を指揮して竇武を討たせる命令を出した。
張奐は命令を受けるや否や歴戦の名将らしく素早く軍を発した。
夜漏(夜の時間)が尽きる時(空が明るくなり始めた時)、王甫も虎賁・羽林ら合計千余人を指揮し、朱雀掖門を出て駐屯した。
王甫が張奐らと合流した。暫くして全軍が闕下に集結し、竇武の陣と対峙した。王甫の兵力がしだいに拡大していく。
そこで王甫は軍士を使って竇武の軍に大声でこう呼びかけさせた。
「竇武が反した。汝らは皆、禁兵であり、宮省で宿衛するべき者たちである。それにも関わらず、なぜ反した者に従うのか。先に降った者には賞があるぞ」
(逆賊とは竇武大将軍のことなのか……)
張奐はそう思ったが彼は直接、竇武と関わったことが無いことから彼の人柄をあまり知らない。
営府の兵はかねてから宦官に畏服していたため、竇武軍の兵が徐々に王甫に帰順していった。更に彼の名将・張奐が相手にいるのである。勝てないと思う兵は多かった。この辺りは竇武は軍を率いて戦った経験がなかったということも痛かった。
日が出てから食時(朝食の時間。午前七時から九時)までに、兵のほとんどが投降していった。
竇武と竇紹は逃走したが、諸軍が追撃して包囲したため、二人とも自殺した。
二人の首は雒陽の都亭に晒され(梟首)、宗親・賓客・姻属も逮捕されて全て誅殺された。
侍中・劉瑜、屯騎校尉・馮述も族滅に遭った。
宦官は更に虎賁中郎将・劉淑や元尚書・魏朗も竇武らと通謀したとして誣告した。劉淑と魏朗も自殺した。
皇太后・竇氏は南宮に遷され、竇武の家に仕えていた者たちは追放された。
公卿以下で以前、陳蕃や竇武に推挙された者およびその門生や故吏は皆、免官のうえ禁錮に処された。
議郎・巴粛はかつて竇武らと共謀していたが、曹節らがそれを知らなかったため、禁錮に処されただけであった。しかし後に曹節らが巴粛の共謀を知り、逮捕しようとした。
巴粛は自ら車に乗って県の官署を訪れた。
県令は巴粛に会うと閤(門。または「閣(後閣)」と同じ意味で奥の部屋)に入れ、県令の印綬を解いて共に去ろうとした。
しかし巴粛はこう言った。
「人の臣となった者は、謀があれば、隠してはならず、罪があれば、刑から逃げてはならないものです。既にその謀を隠していないのに、その刑から逃げられるでしょうか」
巴粛は誅殺された。
曹節は長楽衛尉に遷り、育陽侯に封じられた。
王甫は中常侍になったが、黄門令の官はそのままとされた。
朱瑀、共普、張亮らの六人が皆、列侯になり、その他にも十一人が関内侯になった。
陳蕃の友人である陳留の人・朱震が晒されている陳蕃の死体を収めて埋葬し、陳蕃の子・陳逸を匿ったが、事が発覚して獄に繋がれ、家族も逮捕された。
しかし朱震が拷問を受けても誓って発言しなかったため、陳逸は禍から逃れることができた。
竇武の府掾で桂陽の人・胡騰が竇武の死体を殯斂(死者を棺に納めること)して葬儀を行ったため、禁錮に処された。
この時、竇武の孫・竇輔はわずか二歳であった。胡騰は竇輔を自分の子と偽って令史・張敞と共に零陵界中で隠して育てた。そのおかげで竇輔も禍から逃れられることができた。
張奐は大司農に遷され、功績によって封侯された。しかし張奐は曹節らに利用されたことを深く憎んだため、堅く辞退して受け入れなかった。
「私は王朝の剣であっても宦官の剣ではない」
そう言いながらも彼は自らの剣が宦官によって用いられたことに誰よりも悔いた。