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三国志  作者: 大田牛二
第七章 三国闘争

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陳倉の戦い

『カクヨム』様で『春秋遥かに』の投降を始めました。

 魏の護烏桓校尉・田豫でんよが鮮卑の鬱築鞬うつちくけんを撃った。


 田豫が通訳の夏舎かしゃ軻比能かひどうの娘婿である鬱築鞬の部族のもとに行かせた。その夏舎を鬱築鞬に殺されたため討伐を行ったのである。


 これに怒ったのは軻比能である。彼は三万騎を率いて馬城で田豫を包囲した。


 田豫は慌てず、上谷太守・閻志えんしに使者を送った。閻志は閻柔の弟で、兄と同じく鮮卑に信用されている人物である。


 閻志が軻比能を説諭しに行き、田豫の包囲は解かれた。








 蜀の諸葛亮しょかつりょうは、孫権そんけんが曹休を敗り、魏兵が東下して関中が虚弱になっていると聞くと兵を出して魏を撃とう欲した。


 しかし群臣の多くが出征に躊躇した。第一次北伐からそれほど日が経っていないのである。当然であった。


 そこで諸葛亮が後主・劉禅りゅうぜんに上言した。これを『後出師の表』という。文章の内容は載せないがそれにより劉禅は許可を出した。


 基本的に諸葛亮のやることを止めないのが劉禅の良いところであり、悪いところである。そのことは諸葛亮もわかっている。それでも魏との対決はやらなければならないというのが諸葛亮の考えであった。


 十二月、諸葛亮が兵を率いて散関を出た。陳倉を包囲した。


 しかしこれ以前に魏の曹真そうしんが将軍・郝昭かくしょうに命じて陳倉城を修築させていたため、陳倉には既に備えがあった。


 郝昭は字を伯道という。性格は雄壮で、若い頃に軍へ入ってから部曲督になり、しばしば戦功を挙げて雑号将軍を経て、河西を十余年にわたって鎮守し、漢人や少数民族に畏服されてきた人である。


 先ず、諸葛亮は郝昭の郷人・靳詳きんしょうを派遣し、城外で遠くから郝昭に説得させることにした。


 郝昭は楼上で応えてこう言った。


「魏の法律は汝も熟知していることだ。私の為人は汝が知っていることだ。私が受けた国恩は多く、門戸(家の地位)も重い。汝は何も言うな。ただ必ず死があるだけだ。汝は還って諸葛亮に謝意を伝えよ。自由に攻めに来ればいい」


 靳詳が郝昭の言葉を諸葛亮に告げると、諸葛亮はまた靳詳を派遣し、重ねて郝昭を説得させてこう伝えた。


「衆寡の差が明らかなので兵が敵うはずがない。虚しく自ら破滅するだけだ」


(諸葛亮は馬鹿なのか?)


 さっき断ったにも関わらず、また使者を送ってきたしかも使者は先ほどと同じ靳詳である。告げてきた内容も兵力差がわからないのかという脅し文句でしかない。


(それほど兵を失いたくはないということか?)


 それにしても工夫が足りない。呆れる郝昭は靳詳に言った。


「前言は変わらない。私は汝を知っているが、矢は汝を知らんぞ」


 彼はそのまま矢を放つと靳詳は城下から去っていった。


 諸葛亮は自分が数万の兵を擁しているのに対して郝昭の兵は千余人しかおらず、また、東方からの援軍もすぐには到着しないと予測し、兵を進めて郝昭を攻めた。


 雲梯や衝車を動員して城に臨む蜀軍に対し、郝昭は逆に火矢を雲梯に射て、雲梯を燃やし梯上の者たちを焼死させた。更に郝昭はまた縄に石磨(すり石。石臼)をつけて上から落として衝車を潰し、破壊した。


 諸葛亮は方法を変えて百尺もある井闌(攻城用の櫓)を造り、城中に矢を放った。また、土の塊で堀を埋めて直接、城壁をよじ登ろうとした。


 しかし郝昭は城内に二重の壁を築かせ、これを防いだ。


 次に諸葛亮が地下道を造って城内に突入しようとすると、郝昭は城内で横向きに地を掘って蜀軍の地下道を阻んだ。


 こうして昼夜攻守しあい、二十余日が過ぎていった。


 その間に曹真が将軍・費耀ひようらを派遣して郝昭を救いに行かせた。


 魏の明帝・曹叡そうえいも兵を率いて呉を討伐のため方城に駐屯していた張郃ちょうこうを方城から召して諸葛亮を撃たせた。


 明帝が自ら河南城を行幸し、酒席を設けて張郃を送り出した。


 明帝が張郃に問うた。


「将軍が至るまでに、諸葛亮は既に陳倉を得ているだろうか?」


 張郃は諸葛亮が深入りして食糧がないことを知っていたため、指を折って計算し、こう言った。


「私が至るまでに、諸葛亮は走っていることでしょう」


 張郃が朝から夜まで道を進んで陳倉に向かったが、到着する前に、諸葛亮は食糧が尽き、計もなくなったため引き上げた。


 将軍・王双おうそうが騎兵を率いて諸葛亮を追撃した。しかしながら殿を努めていた魏延ぎえんによって王双は斬られた。


「全く、こんな戦の何の意味があったのか」


 魏延は副将の馬岱ばたいにそう言った。王双を討ち取っても魏延には何らの喜びはなく、それどころか諸葛亮への不満が大きくなるだけであった。


 ともかく諸葛亮は漢中に帰還した。


 明帝は詔を発して郝昭が善守したことを嘉し、関内侯の爵位を与えた。


 郝昭が帰還すると、明帝が引見して慰労し、振り返って中書令・孫資そんしにこう言った。


「汝の郷里には汝と同じような爽快な人がおり、将としてこのように輝いている。私はまた何を憂いる必要があろうか」


 明帝は郝昭を大いに用いようとしたが、その前に郝昭は病のため死んでしまった。


 郝昭は遺令によってその子・郝凱かくがいをこう戒めた。


「私は将になったが、将とは為るものではないと知った。私はしばしば墓を発掘してその木を取り、攻戦の道具にしてきた。故に厚葬が死者に対して無益であることも知っている。汝は必ず時服(通常の服)を使って私の死体を棺に納めよ。しかも、人とは生きている時に居場所があるのだ。死んでから、またどこにいるというのか。今、先祖の墓を去って遠くにいるが、東西南北、どこに埋葬するかは汝の自由にせよ」


 将軍として長年、生きてきた人だからこその遺言である。










 以前、遼東の公孫康こうそんこうが死んだ時、子の公孫晃こうそんこう公孫淵こうそんえいらが皆、幼なかったため、官属は公孫康の弟・公孫恭こうそんきょうを立てた。


 しかしながら遼東は異民族の領域と接しているため治めることの難しい修羅の場所である。公孫恭は劣弱であったためそんな国を治めることができなかった。


 そこで公孫淵が成長すると、公孫恭の位を武威によって奪い、魏の朝廷に上書して状況を報告した


 魏の侍中・劉曄りゅうようが明帝に言った。


「公孫氏は漢の時に用いられ、その後、代々その官位を継承してきました。水路は海によって隔てられ、陸路は山に阻まれ、外は胡夷と連なり、絶遠の地で制御が難しく、しかも権勢を世襲して日が久しくなっております。今もし誅さなければ、後に必ず患を生むでしょう。もし彼らが二心を抱いて兵力に頼り、そうなった後に誅をもたらそうとしても、事を行うのは困難です。公孫淵が立ったばかりで党(公孫淵の党)も仇(公孫恭の党)もいる状況に乗じて、その不意に先んじ、兵をもって臨み、賞募(懸賞・招募)を開いて設けるべきです。そうすれば軍を労すことなく平定できましょう」


 明帝はこの意見に従わず、公孫淵を揚烈将軍・遼東太守に任命した。蜀、呉という敵を抱えている中、ことを構えたくないというのが明帝の考え方であった。



次回は蜀、呉サイド

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