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三国志  作者: 大田牛二
第七章 三国闘争
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石亭の戦い

 蜀の丞相・諸葛亮しょかつりょうによる北伐軍が撤退した後、防衛における指揮官であった曹真そうしんは蜀になびいた安定ら三郡を討って全て平定した。


 彼は魏の明帝・曹叡そうえいに書簡を送り、こう述べた。


「油断をしておりました」


 蜀への備えを怠ったことを謝罪したのである。すると明帝からはこう返信がきた。


「私も油断していたのだから、将軍の責任ではない。あなたに蜀への防衛構築の再編を命じる。その内容については将軍の自由にして良い」


 明帝という人は気遣いのできる人だと曹真は思った。


 人格者と言っていい彼とて先帝である文帝に悪口を言いたくはないが、文帝はこういう気遣いがない人であった。何より指示は間違ってはいないが、内容は細かく自由を奪う指示が多かった。その点、明帝は軍人への指示が的確なだけでなく、ある程度の自由を与えてくれる。


(先帝が亡くなられ、若い陛下が即位された時はどうなるかと思ったが……)


 明帝は良い君主だと曹真は思った。その後、彼は対蜀防衛のために、


「諸葛亮は祁山の失敗で懲りたため、今後は必ず陳倉から出る」


 と考え、将軍・郝昭かくしょうらに陳倉を守らせて城を修築するように命じた。


 明帝からしても曹真はとても優秀な指揮官だと思った。


 指揮の的確さもそうだが、人格的に優れているのも良い。上から下までどの層からも慕われているという彼は本当に貴重であった。


 そんな彼ならば大丈夫だと思った明帝は長安から洛陽に還った。


 当時、こういう噂があった。


「帝が既に崩じ、従駕の群臣(皇帝に従う群臣)は雍丘王・植(曹植そうしょくを迎えて擁立した」


 京師では卞太后から群公に至るまで、皆が懼れた。そんな事実がないにも関わらず、そんな噂が飛び交っているためである。


 明帝が帰還すると、皆、秘かに彼の顔色を窺った。


 卞太后は悲喜が交わり、始めに訛言を語った者を捜し出そうとした。しかし明帝はこう言った。


「天下の皆が言っていたのです。どうやって探すのでしょうか?」


 意味のわからない噂にいちいち反応していては面倒である。


 洛陽に戻った明帝は徐邈じょばくを涼州刺史に任命した。因みに前任者は諸葛亮の親友の一人であった孟建もうけんである。人事の任命の意図がよくわかるものである。


 しかしながらそれだけで彼を任命したわけではない。


 徐邈は字を景山という。曹操が河北を平定した際に見出され、丞相軍謀掾となった人物で、その後は奉高県令、東曹議令史となっていき、魏が藩国として建国されると、尚書郎になった。


 順調に出世していった彼はここで問題を起こす。


 曹操が禁酒令を出したことがあった。それにも関わらず、それに背いて酒を飲み酔いつぶれたのである。そして酔った状態で職務上の質問に対して、


「聖人に当たった」


 と応答した。これにより曹操の怒りを買い、徐邈は処刑されそうになった。すると鮮于輔せんうほが、


「普段の徐邈の性格は慎み深く、今回は酒の上での仕方ない行動であります」


 と、弁護したため、免職で済んだ。


 その後、隴西太守・南安太守となり、文帝の即位後は、譙県令・平陽太守・安平太守・典農中郎将を歴任し、関内侯の爵位を得た。曹丕はかつての徐邈の発言を引いてからかったが、徐邈が機智に富んだ受け答えをしたため、彼を評価し、撫軍大将軍軍師に任命した。


 さて、涼州刺史となった徐邈は農業に務めて穀物を蓄え、学校を建てて訓導を明らかにし、賢善な人材を進めて姦悪な者を除き、羌・胡と共に事を行い、小さな過失を問うことはなかった。もしも大罪を犯した者がいたら、先に部帥(少数民族の部衆の長)に告げて、死刑に値することを周知させてから斬首して見せしめにした。


 そのため、人々は徐邈の威信に服し、州界は清平になった。











 呉王・孫権そんけんは蜀の北伐を受けて、負けじと魏と戦うことを考えた。


 そのため鄱陽太守・周魴しゅうぼうを派遣し、山中の旧族名帥(「山越の宗帥」)で北方において名が知られている者を秘かに求めさせようとした。彼らを使って魏の揚州牧・曹休そうきゅうを誘い出すためである。


 周魴が孫権に言った。


「民帥小醜(「民帥」は山民の指導者、「小醜」は賎しい者)は信任するに足りず、事がもし漏洩したら、曹休を到らすことができません。私の親人を派遣し、書信を持たせて曹休を誘い、こう伝えることを乞います。『周魴が譴責を被って誅を懼れており、郡を挙げて北に降ろうと欲しているので、曹休様が兵を出して周魴を迎え入れることを求める』」


 孫権はこれに同意した。


 更にこれに孫権は頻繁に呉王の詰問として尚書郎が周魴を訪ねて諸事を詰問させ、叱責をさせた。


 そこで周魴は鄱陽郡の門下に至り、髪を切って謝罪した。この孫権の詰問も周魴の謝罪も全て曹休を欺くためである。


 これを聞いた曹休は周魴の書簡を信じ、歩騎十万を率いて皖に向かい、周魴に応じようとした。


 曹休は明帝を動かし、司馬懿しばいを江陵に向かわせ、賈逵かきを東関に向かわせ、三道から共に進ませるという大攻勢を行った。


 八月、孫権は相手が策に乗ったと知って皖に至ると陸遜りくそんを大都督に任命し、黄鉞を授け、自ら鞭を持って引見した。孫権のこの行動は古の王者が将を派遣する時、跪いて将軍の車を推したのと同じで、将軍を送り出す時の儀式を行ったのである。


 そして、朱桓しゅかん全琮ぜんそうを左右督に任命し、陸遜を含め、それぞれ三万人を監督して曹休を撃たせた。


「おのれ、騙されたか」


 曹休は呉のこの動きによって欺かれたことを理解したが、既に大軍を率いているためこのまま呉と戦っても勝てると考えた。


 朱桓が孫権に言った。


「曹休は元々皇族という立場によって任せられたのであって、智勇の名将ではありません。今、戦えば必ず敗れ、敗れたら必ず走り、走ったら夾石・挂車を経由することでしょう。この両道はどちらも狭隘なので、一万の兵を用いて柴で路を塞げば、彼の軍を全滅させて曹休を生け捕りにできます。私は自分の部隊を率いてこれを断つことを請います。もしも天威を蒙り、曹休を倒すことによって国に貢献できれば、すぐ勝ちに乗じて長駆し、進んで寿春を取り、淮南に割拠して許・洛を計ることができましょう。これは万世一時の好機なので、失ってはなりません」


 孫権は陸遜に意見を求めると、陸遜はそうするべきではないと答えた。


 朱桓の考えは危険すぎるためで、失敗の可能性が高かった。陸遜は夢想家ではなく慎重な人物である。必要以上の行動を行うことを好まなかった。


 そのため、朱桓の計は中止された。


 一方、魏では尚書・蒋済しょうせいが明帝に上書した。


「曹休は虜地に深入りして孫権の精兵と対しており、しかも朱然しゅぜんらが上流にいて曹休の後ろに乗じているので、私には有利な点がわかりません」


 前将軍・満寵まんちょうも上書した。


「曹休は聡明果断とはいえ、兵を用いたことが少なく、今、道にして通っているところは、湖を背にして江に近付き、進みやすいものの退き難いので、これは兵の絓地(険阻狭隘な地。進退ができない地)というものです。もし無彊口(地名)に入るならば、深く備えを為すべきです」


 満寵の上表に対する回答が来る前に、曹休は陸遜と石亭で戦った。


 陸遜が自ら中部になり、朱桓と全琮を左右翼にして三道から並進した。それに対し、曹休は事前に伏兵をおいていたが、慎重かつ抜け目のない陸遜は一瞬で看破し、一軍をもって曹休の伏兵に突撃させて打ち破った。


 曹休軍はそのまま敗北し、呉軍は敗走する魏の兵を追撃して、直接、夾石に至った。斬獲(斬首・捕虜)は万余、奪った牛・馬・騾・驢・車乗は万輌に上り、軍資器械も奪い尽くした。


 以前、曹休が明帝に上表して、深く進入して周魴に応じる許可を求めた時、明帝は賈逵に命じて、兵を率いて東に向かい、曹休と合流するよう命じた。


 賈逵は豫州から兵を進め、西陽を取ってから東関に向かうことになっていた。賈逵は、


「呉は東関ではなく皖で兵力を集結させているはずなので、東関に到着する前に皖周辺で敗れることになる」


 と言い、諸将を配置して水陸から並進した。


 賈逵が二百里行軍した時、呉人を獲た。呉人は、


「曹が戦って敗れ、呉が兵を送って夾石を断った」


 と、告げた。


 魏の諸将は如何するべきか分からず、ある者は後軍を待とうと欲した。


 しかし賈逵はこう言った。


「曹休将軍の兵が外で敗れ、路が後方で絶たれた。進んでも戦うことができず、退いても帰ることができず、安危の機運は今日中に決してしまう。今日中に安危を分ける決断をしなければならない。賊は曹休軍に後続がないと思っているから、退路となる夾石に兵を送ったのだ。今、迅速に進軍して敵の不意を突けば、これこそいわゆる『人に先んじてその心を奪う』というものである。賊が我が兵を見たら必ず走る。もしも後軍を待っていたら、賊が既に険路を断ってしまうので、たとえ兵が多くても何の益があろうか」


 賈逵は兼道(二倍の速度で急行すること)して軍を進め、多くの旗鼓を設けて疑兵とした。


 呉人は遠くから賈逵の軍を眺め見て、夾石を断った軍は退却していった。


 こうして曹休は還ることができた。


 賈逵はそのまま夾石を占拠して兵糧(食糧。または兵と食糧)を曹休に供給したため、曹休軍はやっと士気を取り戻した。


 元々賈逵と曹休は関係が善くなかった。ある日、文帝が賈逵に符節を授けようとした際、曹休が、


「賈逵は性格が剛直で、以前から諸将を侮蔑しているので、督にするべきではありません」


 と、言ったため、文帝が中止したことがある。


 しかしながら曹休はその嫌っていた賈逵のおかげで難から免れることができた。それにも関わらず、曹休は賈逵を叱責した。


「貴様の救援が遅かったがためにこのような敗戦を喫してしまった」


 あまりにも理不尽な言動である。されど賈逵は黙った彼に哀れみに近い目を向け、


「私は国から豫洲の刺史に任命されておりますが、その職務に戦場で遺棄した武器を拾うことは含まれておりませぬ」


 と言い、そのまま軍を退き上げた。


 その後、曹休は上書して敗戦の謝罪をしたものの、その後も繰り返し上表を行い、賈逵を批判した。


 明帝は曹休に此度の敗戦の責任があると考え、その上表を取り上げなかった。しかしながら曹休に対しては彼が宗室という理由で敗戦の責任を不問とした。


 それでも曹休は曹休への憎しみと敗戦故の憤懣のため背に腫瘍ができ、そのまま世を去った。


 勝利した孫権は凱旋した陸遜を歓待し、皇帝並の待遇を与えた。また、この戦いを勝利に導いた周魴を裨将軍に任命した。


 そんな孫権に呉の大司馬・呂範りょはんが大司馬に任命して、印綬が届く前に死んでしまったことが伝えられた。


 かつて孫策は呂範に財計を管理させていた。当時、年少だった孫権が個人的に財物を求めたが、呂範は必ず報告し、敢えて独断で同意することはなかった。そのため、孫権に怨まれるようになった。


 孫権が陽羨長を代行した時、個人的に財物を使うことがあった。時には孫策が審査したが、功曹の周谷しゅうこくがいつも都合に合わせて帳簿を書き換え、譴責されないようにしたため、孫権は当時それを悦んでいた。


 しかし後に孫権が政務を統領するようになると、呂範を忠誠とみなして厚く信任を示したが、周谷は偽って簿書を改めることができるとみなして用いなくなったという。


 信頼していた呂範の死という悲報に孫権は悲しんだ。だが、彼にとっての悲報は別であった。


 曹休の後任として満寵が揚州を任されることになったのである。かつての張遼の如く、呉に恐怖を植え付けることになる人物である。



次回は魏、蜀サイド

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[気になる点] 「曹休は曹休への憎しみと敗戦故の憤懣のため背に腫瘍ができ」(玉著) 「休、還、疽發背、死」(http://www.seisaku.bz/sangokushi/58_rikuson.ht…
[一言] 曹叡が曹休を不問にしたのは不味かったですな。 戦敗の責任については「勝敗は兵家の常」で情報戦で相手が一枚上手だったということで無罪ですが、「賈逵と東與で合流して進撃せよ。」と勅命を受けたのに…
[一言] 「 曹休は呉のこの動きによって欺かれたことを理解したが、既に大軍を率いているためこのまま呉と戦っても勝てると考えた。」 確かに正史にも「休、既覺知、恥見欺誘、自恃兵馬精多、遂交戰。」(htt…
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