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三国志  作者: 大田牛二
第七章 三国闘争
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馬謖

 街亭での大失態を犯した馬謖ばしょくは敗走途中、向朗しょうろうの元に逃げ込んだ。向朗は字を巨達といい、甥に向寵しょうちょうがいる人物である。


 幼いころに父を失い、二人の兄に扶養、教育されて育った。若い頃、司馬徽に師事した経緯や、生まれが荊州であったことから、徐庶・龐統・韓嵩らと親交があった。


 学門の道よりも政治の道を選び、刺史の劉表に仕官して臨沮県長となった。劉表死後は劉備に仕え、行政能力に優れ、荊州南部四郡を得た際には秭帰・夷道・巫・夷陵の四県を任された。入蜀後は巴西太守・牂牁太守・房陵太守など、郡太守を歴任していった。


 劉禅りゅうぜんが即位し、諸葛亮しょかつりょうが丞相になると歩兵校尉となり、王連おうれんの没後は彼に代わりその長史(幕僚の長)となり、南征の際に留守を守るなど諸葛亮の信頼を得ていた人である。


 北伐が開始されると、諸葛亮と共に漢中へ赴いた。そんな向朗は平素より馬謖と親しかった。かつて廖立りょうりつは、


「向朗は昔から馬良兄弟を奉じて聖人と言っており、長史にするのは道理に合わない」


 と、批判するほどであったという。


 街亭の戦いで敗戦した後、馬謖が戦場から自分の下に逃亡してきた。向朗は彼への責任追及がされると思い、なんとか助けたいと考えた。そのため彼を一旦、保護し諸葛亮に彼の処罰を少しでも軽くしようとした。


 しかし、彼の元に馬謖が逃げ込んだことは諸葛亮にすぐに知られてしまった。諸葛亮は激怒し、彼は向朗を免職にした。しかしながら数年後、光禄勲として復職を許され、諸葛亮の死後は左将軍・行丞相事に昇進していくことになり、更に功績が評価され顕明亭侯に封ぜられた。位も特進(三公に匹敵する待遇)に昇進していった。


 若い頃から学問を好んでいたため、長史を辞めて公務から解放された後は、古典の研究に勤しむようになり、八十歳を過ぎても自ら書物を校訂してやまなかった。多くの客と接し広く弟子たちを受け入れたが、古典の語義のみを話題とし、世相については関わろうとしなかったため、賞賛された。


 彼が亡くなる際、息子の向条しょうじょうへの遺言として『春秋左氏伝』を引用し禄利による堕落を戒め、貧乏を憂慮せず、和をもって貴しとなせとの言葉を残した。向条も博学多識で知られ、蜀では景耀年間に御史中丞を努め、後に西晋に仕えて江陽太守、南中軍司馬となることになる。






 馬謖は逮捕され、獄に下された。諸葛亮は彼を処刑して衆人に謝罪することにした。それに対して蒋琬しょうえんが諸葛亮に言った。


「昔、楚が子玉を殺した際、晋の文公は喜色を表しました。天下がまだ定まっていないのに、智計の士を殺戮してしまうのは、惜しい事ではないでしょうか?」


 胡三省は、


「これを観ると、蒋琬もまた馬謖を重んじていたのである」


 と、書いている。


 蒋琬の言葉に諸葛亮は涙を流して言った。


「孫武が天下において勝ちを得ることができたのは、法を用いる態度が明確だったからだ。だからこそ揚干が法を乱したら、魏絳がその僕を殺戮した。四海が分裂し、交戦が始まったばかりなのに、もしまた法を廃してしまったら、何によって賊を討つというのか」


 馬謖は処刑される前、諸葛亮に書簡を贈った。


「明公は私めを我が子のように思ってくださり、私も明公のことを父のように思って参りました。舜が鯀を誅しその子の禹を採り立てたように私の遺族を遇し、生前の交遊を大切にしてくださるならば、私は死しても恨みはいたしません」


 これを読んだ諸葛亮は涙を流しながらも彼を処刑した。その後、自ら祭(追悼の儀式)に臨み、彼の孤児を慰撫して今までと同じように恩遇した。


 これをもって後世では、『泣いて馬謖を斬る』という故事となった。


 諸葛亮は馬謖の他、彼の下にいた将軍・李盛りせいを誅殺し、将軍・黄襲こうしゅうらの兵を奪うなどの処罰を行っていたが、副将として付けられていたが、馬謖に諫言を続け、敗残兵を助けた王平おうへいは特別に尊重され、抜擢されて参軍を拝命し、五部の兵を統率して漢中の営屯の事も担当することになり、位が討寇将軍に進んで亭侯に封じた。


 また、敗戦の責任をとって諸葛亮は上書して自ら三等を落とすことを請うた。以下、上書の内容である。


「私は弱才によって居るべきではない位に就き、自ら旄鉞(軍権を象徴する旗と鉞)をもって三軍を激励しましたが、法規を教えて軍法を明らかにすることができず、事に臨んで何らの功績を立てれず、街亭では違命の闕(馬謖が命に違えるという失敗)があり、箕谷では不戒の失(警戒しなかったために招いた過失。趙雲ちょううんらの敗戦を指すが後々に述べる)があるという状況に至らせてしまいました。罪は皆、私が任を授けるに当たって方法が正しくなかったことにあります。私には人を知る英明さがなく、問題を考慮することにおいても多くが暗く、『春秋』の義で将帥を責めるものであり、私の職がそれに当たるので、自ら三等を落としてこの罪を責めることを請います」


 劉禅は諸葛亮を右将軍とし、丞相の政務を代行させることにした。総統(統領・統括)の職務は以前のままとした。


 街亭での敗戦を受けて箕谷にいた趙雲と鄧芝とうしは撤退することになった。趙雲は兵を集めて殿を努めたため、損傷は大きくなかったが、敗戦の罪に坐して位を落とされ、鎮軍将軍になることになった。


 諸葛亮が鄧芝に問うた。


「街亭の軍が退く時は、兵将を収拾できなかったのに、箕谷の軍が退く時は兵将が初めから失われなかった

 。これはなぜだろうか?」


 鄧芝はこう答えた。


「趙雲将軍が身をもって自ら後を断ったため、軍資器物で棄てられた物はなく、兵将も失う理由がなかったのです」


 諸葛亮はそれを受けて、残った軍資器物を分けて将士に下賜しようとしたが、趙雲はこう言った。


「軍事に利がなかったのに、なぜ賞賜があるのでしょうか。これらの物は全て赤岸庫に入れ、十月になるのを待って冬の賞賜とすることを請います」


 諸葛亮は大いに称賛し、賛同した。頼りになる将軍であると諸葛亮は思ったが、趙雲はこの翌年世を去ることになる。後世に一騎当千と称えられた趙雲は静かな最後であった。


 









 ある人が諸葛亮に改めて兵を徴発するように勧めた。すると諸葛亮はこう言った。


「大軍が祁山・箕谷にいた時、どちらも賊(魏軍)より多かったのに、賊を破ることができず、賊に破られることになったのは、すなわち、兵の多寡が問題ではなく、将軍の能力が問題だったのだ。今は兵を減らして将を省き、罪を明らかにして過ちを反省し、将来における変通の道を考察しようと欲する。もしこのようにできなければ、たとえ兵が多くても、何の益があるだろうか。今から後は、国に対して忠誠に基く思慮、計策を抱いている全ての者が、ただ勤めて私の欠点を攻めさえすれば、大事を定ることができ、賊を倒すことができ、功績は蹻足して待つことができるだろう」


 戦において将軍の力量というものは重要なのだと諸葛亮は改めて思ったがゆえの言葉であった。


 この後、諸葛亮はわずかな功労も考察して壮烈の士を査定した。


 咎は自分のものとしてその身を譴責し、過失を境内に布告し、更に兵を鍛えて武を習わせ、将来の準備をした。


 戦士が精練され、民は街亭の敗戦を忘れるようになったという。


 さて、この第一次北伐で諸葛亮はある人材を手に入れていた。魏の天水参軍・姜維きょういである。彼は字を伯約という。元々姜氏は代々「天水の四姓」と呼ばれる豪族であった。幼少時に、郡の功曹だった父が異民族の反乱鎮圧に従軍し戦死したため、母の手で育てられた。郡に出仕して上計掾となった後、召されて雍州刺史の従事となり、その後、かつての父の功績が取り上げられて、中郎の官を贈られ、天水郡の軍事に参与することになった人物である。


 諸葛亮が祁山へ侵攻した際、多くの諸県が蜀に呼応した。このとき天水太守だった馬遵ばじゅんは偶然巡察の途中だったが、住民が蜀に呼応することを恐れて郡の役所がある冀県に戻らず、上邽に逃亡した。


 この時、随行していた属官の(功曹)・梁緒りょうしょ、主簿・尹賞いんしょう、主記・梁虔りょうりょ、姜維らを馬遵は置き去りにし、姜維らが追いかけてきても城門を閉ざし受け入れなかった。そのため姜維らは冀県に出向いたが、ここでも拒絶された。進退に窮した姜維らは止むなく蜀に降伏したのである。


 諸葛亮は姜維の才覚を大いに称賛し、姜維を招聘して倉曹掾に任命し、軍事を担当させることにした。降伏した自分にこれほどの評価をしてもらえると思っていなかった姜維は感動し、諸葛亮に心服した。


 姜維が諸葛亮に降伏したことで、母と別れてしまうことになった。母は姜維に帰るように要求した。


 しかし姜維はこう返した。


「良田が百頃もあったら一畝にこだわることはない。遠志がありさえすれば、帰るかどうかにこだわることはない」


『資治通鑑』はこの記述を採用しておらず、胡三省は、


「姜維が学術(儒学の教え)を大まかにでも理解していたことを考えると、恐らくこのようにすることはないだろう」


 と、述べている。遠志のために母を棄てるのは姜維らしくないという意味であろうが、後に姜維の行動を見るとあり得るのではないかと思われるがどうだろうか。



次回は魏、呉サイド

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