街亭の戦い
蜀の丞相・諸葛亮は魏を攻めようとした時、群下とこの事について謀った。
丞相司馬・魏延が立ち上がり、答えた。
「聞くところによると、長安に駐屯している夏侯楙は魏主の壻であり、臆病なうえ謀がありません。今、私に精兵五千を授けていただければ、五千人分の食料を背負い、直接、褒中から出て、秦嶺を巡って東に向かい、子午に至って北に向かい、十日も経たずに長安に到着できます。私が突然至ったと夏侯楙が聞いたら、必ずや城を棄てて逃走することでしょう。長安の中には御史と京兆太守がいるだけです。横門邸閣と散民の食糧があれば、食糧をやりくりするに足ります。敵が東方で集結するまで、尚二十余日が必要であり、公が斜谷から来れば、長安に達するにも充分です。このようにすれば、一挙して咸陽以西を定めることができます」
会議の場はざわめいた。危険な策であるが、実行可能な策ではあり、非凡な策に聞こえたためである。
魏延は今回の戦いへの思いは強い。
劉備が呉を攻めた時、漢中を守っていた。劉備が関羽の仇討ちを行うために出陣したと聞いた時、感動した。いつの時代に臣下の仇討ちをする皇帝がいたことか、そんな皇帝に仕えることができたことに感謝したぐらいであった。
それだけに劉備が破れ、白帝城で亡くなったことを聞いた時、魏延は涙を流し殉死することさえ考えた。
しかし、それでも劉備の志を果たさなければならないと思い直し、殉死しなかった。
(あの方から受けた恩義を果たせずに死ぬわけにはいかない)
魏延はそのため諸葛亮が北伐を行うと聞いた時、誰よりも喜んだ。
(ああ、やっと劉備様の志を果たすことができる)
そのため魏延は危険であるが、効果の大きな策を提示したのである。相手の虚を突くという効果と、漢王朝の復興を目指していることをかつての漢の都であった長安を陥落させることで示すことができる。
確かにその点において魏延の策は見事であった。しかしながら諸葛亮はこれを危険な計とみなした。平坦な道を進む安全な計を採るべきであり、そうすれば平穏に隴右を取ることができるため、万全必勝で危惧することもないと考え、魏延の計を却下した。
この会議の前に馬謖と共に戦略を練っていたというのもあった。
胡三省はこう件に関してこう述べている。
「今から観ると、皆、諸葛亮が魏延の計を用いなかったことを臆病とみなしている。しかし、兵を動かす時とは、敵の主を知り、敵の将を知るものである。諸葛亮が魏延の計を用いなかったのは、魏主の明略を知り、しかも司馬懿の類を軽視できなかったからである。諸葛亮は平穏に隴右を取ろうとしたが、それすら志を獲られなかった。どうして幸運に乗じて咸陽以西を全て定めようと欲することができようか」
諸葛亮の判断を擁護していると言え、この判断に至った経緯に司馬懿の孟達討伐の速さも関係していると指摘している。
しかし魏延にとっては不満であった。
(孟達の時といい、丞相は慎重すぎる)
魏よりも蜀は弱いのである。危険な橋を渡らなければ、力負けしてしまう。
(そのことがなぜお分かりにならないのか)
魏延はなおも長安奇襲を主張したが、諸葛亮は受け入れなかった。
諸葛亮は斜谷道から進んで郿を取ると宣言した。
鎮東将軍・趙雲、揚武将軍・鄧芝を疑兵とし、箕谷を占拠させた。
この事態に魏の明帝・曹叡は曹真を派遣し、関右諸軍を都督して郿に駐軍させることにした。
諸葛亮は自ら大軍を率いて祁山を攻めた。軍陣が整然としており、賞罰が厳粛で号令も明確であった。
魏は蜀の人材は劉備しかいないと思っており、その劉備が既に死に、数年間、動きがなく静かだったため、防備が全くなかった。
今回、突然、諸葛亮の出兵を聞いて、朝野(朝廷と民間)が恐懼した。隴右と祁山が最も甚だしく、天水、南安、安定三郡の吏民が全て魏に叛して同時に諸葛亮に応じた。
こんな状況の中、隴西の太守・游楚だけは蜀に従わず、抵抗していた。
彼は字を仲允といい、父の游殷は当時、幼かった張既を長官の器と認め、游楚のことを張既に頼んだ人物である。
游楚は激しい気性の持ち主で、生来体つきは小さく声は大きかく、学問をせず、遊戯・音楽を好んだ。歌手を召し抱えて楽器を演奏し、いつも外出に連れて歩いた。行く先々で博打や遊戯をしては楽しんだ。
こうやってみると悪童に見えるが蒲坂の令に任命され、曹操が関中を平定した際には張既の推挙で欠員の漢興郡の太守に就任し、後に隴西の太守に転任していったが、それぞれの任地で恩徳によって統治し、刑罰・殺害を好まなかった。
さて、蜀軍が隴右侵攻してくると官民ともに動揺して天水と南安の太守は逃亡してしまい、両郡の民は諸葛亮に呼応した。この時、游楚だけが隴西に留まって守備し抵抗した。
游楚は領民・部下に、
「援軍を待って死守すれば恩賞を貰えよう。援軍が来る前に危うくなったら私の首をとって降伏せよ」
と、言って励ました。これによって官民一丸となって城を守った。南安の領民が蜀軍を連れてやって来ると、游楚は長史の馬顒を城門の前で迎撃させた。自らは城門の上から蜀将に、
「あなたが東からの援軍を絶って隴を孤立させるならば、一ヶ月もすれば自然に隴西の官吏は降伏するだろう、だがそれができないならば、無駄に軍を疲弊させるだけだ」
と、言い聞かせてから、馬顒に命じて太鼓を鳴らし攻撃をしかけると、蜀軍は立ち去らせた。
十日余り後に魏の諸軍が隴地方に向かうと諸葛亮は敗走すると天水・南安は賊に呼応したかどで懲罰を受け、両郡の太守も重罰を受けた。一方、隴西の官吏はみな褒賞や官位を得、游楚は列侯に取り立てられた。
明帝はこの結果に喜び、詔勅を下して游楚に参内を許可して宮殿に登らせた。しかしながら游楚は生まれてから参内の経験がなく礼儀を知らなかった。そのため生来の大声で間違った受け答えをした。
だが、明帝は微笑んで、游楚をねぎらい励ました。ある意味、彼のような人物が新鮮に写ったのであろう。退出したのちに游楚は帝のそばで警備をしたいと上奏して、駙馬都尉に任ぜられた。
数年後、再び北地太守に任命され、七十歳余りで死去したという。
游楚以外は諸葛亮の進撃によって関中が震撼させていた。そのため朝臣は動揺するばかりであったが、明帝はこう言った。
「諸葛亮は山に頼って守りを固めていたのに、今回、自ら出て来た。正に兵書による『致人の術(敵を誘う術)』(『兵法』に「戦を善くする者は人を誘い出す」とある。明帝はこの言葉によって朝野の心を安定させようとした)と合致しており、しかも諸葛亮は三郡を貪って、進むことは知っていても退くことは知らない。今、この時に乗じれば、諸葛亮を破るのは必定である」
こうして明帝は兵馬を整え、歩騎五万を準備し、右将軍・張郃を送ってこれを監督させ、西に向かって諸葛亮を拒ませるため派遣した。
その後、明帝も行幸して西に向かい長安に入って鎮守した。
諸葛亮の戦略を絵を書く上で馬謖の意見を大いに参考にしていた。劉備から寵愛するなと言われながらも諸葛亮は彼への寵愛をやめなかった。
胡三省はこう述べている。
「孔明(諸葛亮)の明略(高明な才略)をもってして、このように馬謖を遇したことからも、馬謖が軍計を善く論じたことを見て取るに足りる。孔明が南征した時、馬謖が『攻心の論(敵の心を攻めるという論)』を述べたことを観ると、悠々と坐して弁舌するだけの者が及ぶことではない」
寵愛したことはそれほど可笑しく無いということである。
諸葛亮が祁山に軍を出すと、旧将である魏延や呉懿らを用いて先鋒にすることなく、馬謖に諸軍を監督させ前に進ませ、街亭で張郃と戦わせることにした。
「危険です」
諸将は諸葛亮のこの判断に反対し、魏延や呉懿ら経験豊かな将にするべきと主張した。それでも諸葛亮は今回の戦略において重要な地であることの認識を誰よりももっているのは馬謖であると考えたため結局馬謖が起用された。
それでも諸将の反対が多かったため王平が副将として付けられることになった。
ところが、馬謖は諸葛亮の指示に違え、措置・行動が混乱し、川を放棄して山に登り、山下の城を拠点にしなかった。
王平は馬謖の判断に反対したが、馬謖は彼が文字が読めないといった部分で見下しており、彼の言葉に耳を貸さなかった。
「ならば、私の軍は山下にいることを許可していただきたい」
王平は考えを変えることは無理であると判断し、そう許可を求めると馬謖はそれを受け入れた。
張郃は蜀軍の急所である街亭に到着した。
「ほう、とんだ無能に守らせているな」
彼はそうあざ笑うと汲道(水を汲むための道)を絶ってから馬謖を撃った。馬謖はこの状況下で碌な指示を出せなかったため、蜀軍は大混乱に陥り、大破された。馬謖の士卒が離散していく中、王平は千人の兵だけを率いながらも軍鼓を打ち鳴らし整然と踏みとどまった。
これを見た張郃は伏兵を警戒して追撃を断念した。
列柳に布陣していた高翔も、雍州刺史の郭淮に敗北しながらも王平と合流し、馬謖の敗退した兵を確保しながら撤退した。
諸葛亮はこれらの街亭の敗戦を聞き進軍路の確保に失敗したことを知ると全軍を撤退させることを決定させた。この際、西県を制圧し、千余家を蜀に移住させた。
諸葛亮による第一次北伐戦はあまり良い結果を残すことなく終わった。
次回は蜀サイドが中心