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三国志  作者: 大田牛二
第七章 三国闘争

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張温

 七月、魏の文帝・曹丕そうひが東巡して許昌宮に入った。


 文帝は軍を大いに興して呉を討伐しようと欲した。


 侍中・辛毗しんぴが諫めた。


「今は天下が定まったばかりで、土地は広くても民が少ないという状態です。それなのにこれを用いようと欲しておりますが、私には誠にその利が見えません。先帝(曹操)はしばしば軍を起こしましたが、江に臨んで引き還しました。今は六軍が以前よりも増えていないため、怨みに報いようとしても、容易ではありません。今日の計は、民を養って屯田し、十年経ってからそれを用いるのが最善の方法です。そうすれば、一度の出征で成功します」


 文帝が問うた。


「汝の意によるならば、更に敵を子孫に残すべきだというのか?」


 辛毗が答えた。


「昔、周の文王は紂王を武王に残しました。時機を知っていたからです」


 結局、文帝は諫言に従わなかった。そして、尚書僕射・司馬懿しばいを留めて許昌を鎮守させた。


 司馬懿が固く辞退したが、文帝はこう言った。


「私は諸事において夜も休む暇がなく、わずかな寧息もない。これは汝に栄誉を与えるためではなく、憂いを分けるためである」


 文帝が出発した後、司馬懿は渋い表情のまま政務を執り始めた。


「あらあら、ご機嫌斜めですわね」


 そんな彼を張春華ちょうしゅんかは笑う。


「黙れ」


「あらあら、八つ当たりですかあ?」


 張春華は司馬懿のことをからかい続けた。


「それによかったではありませんか。先帝様の時とは違い、軍を率いることができているのですから」


 彼女の言葉に司馬懿は眉をひそめたまま無言である。


「きっと楽しいことはこれからですわ。焦らないことです」


 張春華はそう言った。


 八月、文帝が水軍を編成し、自ら龍舟に乗って指揮した。蔡・潁(蔡河・潁水)を巡り、淮水を航行して寿春に入った。


 揚州界内の将吏士民で、五年の刑以下の罪を犯した者は、全て赦免した。


 九月、文帝が広陵に至った。


 青・徐二州で大赦し、守備の諸将を交替させた。


 そんな中、呉の安東将軍・徐盛じょせいが計を立て、植木に葦を被せて城壁や楼台に見せた。


 石頭から江乗に至るまで数百里にわたって延々と連ならせ、一夜の間にそれを完成させた。また、多数の舟艦を長江に配置して巡航させた。


 当時は江水が膨張していた。


 文帝は江に臨んでそれを眺め、嘆息した。


「魏には千群の武騎がいるが、用いるところがなく、まだ呉を図ることはできない」


 この時、文帝は龍舟に乗っていましたが、ちょうど暴風に遭って漂泊し、危うく顛覆しそうになった。


 文帝が群臣に、


孫権そんけんは自ら来るだろうか?」


 と、問うと、皆こう答えた。


「陛下が親征したので、孫権は恐怖し、必ず国を挙げて応じることでしょう。また、敢えて大衆を臣下に委ねることができないので、必ず自ら来ます」


 しかし劉曄りゅうようがこう言った。


「彼はこう考えているでしょう。『陛下は万乗の重(皇帝の重み)によって自分を制しようとしているので、江湖を越える任務は別将にある』孫権は必ず兵を整えて事の変化を待つので、自ら進退することはありません」


 文帝が停留して日を重ねたが、呉王・孫権が来ないため、文帝は軍を還した。


 この時、曹休そうきゅうが上表して投降者から得た言葉を報告した。その内容は「孫権は既に濡須口にいる」というものである。


 しかし中領軍・衛臻えいしんがこう言った。


「孫権は長江に頼っており、敢えて対抗しようとはしません。これは畏怖による偽辞に違いありません」


 投降した者を審問してみると、果たして呉の守将が作った偽りの情報であった。


 蜀への使者として出向いていた呉の張温ちょうおんは若い頃から俊才によって名声が盛んであった。


 顧雍こようは張温を評価して、


「当世に匹敵する者はいない」


 と、考え、諸葛亮しょかつりょうも張温を重んじていた。


 張温が同郡の人・曁豔きえんを推薦して選部尚書にした。


 曁豔は清議(政治や人物に対する評論)を好み、百僚を弾劾して三署(五官・左・右の三署郎)を審査上奏した。ほとんどの高官が地位を落として下になり、数等の位を降格され、元の地位を守った者は十分の一もいなかった。


 位にいながら貪婪卑劣で、志節が汙卑な者(汚れて卑しい者)がいたら、彼らを全て軍吏とし、営府を置いてそこに住ませた。


 更に曁豔は人々の闇昧の失(明らかになっていない過失)を多数揚げてその罪を明らにした。


 同郡の陸遜りくそんや陸遜の弟・陸瑁りくぼうおよび侍御史・朱據しゅきょが諫めて止めさせようとした。


 陸瑁が曁豔に書を送ってこう言った。


「聖人とは善を嘉して愚に同情し、過失は忘れて功績を記憶し、そうすることで美化を成しました。加えて今は王業が建てられたばかりであり、これから天下を統一して帝業を成就させるので、まさに漢の高祖が棄瑕録用した時(些細な欠陥は放置して広く人材を登用した時)と同じです。もし善悪をはっきり分けて、汝・潁における月旦の評(汝南の許劭らが行った人物評価)を貴ぶならば、誠に厲俗明教(世俗に善を奨励して教化を明らかにすること)ができますが、恐らく今はまだ容易ではありません。遠くは孔子の博愛を真似し、近くは郭泰の容済(人を許容して助けること)に則るべきです。そのようにすれば大道において益があるでしょう」


 朱據も曁豔にこう言った。


「天下はまだ定まっておらず、行いが正しい者を挙げることで正しくない者に善行を奨励するだけで、沮勧(悪行を止めさせて善行を奨励すること)するに足ります。もし一時に罷免してしまえば、後咎(後日の禍)があるのではないかと懼れます」


 しかし曁豔は諫言を全て聴かなかった。


 その結果、怨憤が路を満たし、人々が争って、


「曁豔および選曹郎・徐彪じょひょう(曁豔の部下)は専ら私情を用いており、憎愛による弾劾が公理に基いていない」


 と言うようになった。


 これにより曁豔と徐彪は罪に坐して自殺することになった。


 張温はかねてから曁豔、徐彪と意見が同じだったため、やはり罪に坐して排斥され、本郡(故郷の郡)に還って地位が低い官吏の職を与えられた。


 張温は後に家で死んだ。


 以前、張温が政務に携わって勢いが盛んだった頃、餘姚の人・虞俊ぐしゅんが嘆息して言った。


「張恵恕(恵恕は張温の字)は才が多いが智は少なく、見た目は華やかだが実が無い。怨みが集まるところとなり、覆家の禍(家を滅ぼす禍)があるだろう。私にはその兆が見える」


 それから間もなくして張温は失敗した。




 鮮卑の軻比能あさひのう歩度根ほどこんの兄・扶羅韓おぶかんを誘い出して殺した。


 そのため、歩度根が軻比能を怨み、互いに攻撃しあうようになった。


 歩度根は部衆がしだいに弱くなったため、その兵一万余戸を率い、太原、雁門に退いて守った。


 因みに歩度根は檀石槐(桓帝・霊帝時代の鮮卑の長)の孫である。


 本年、歩度根が魏の宮闕を訪ねて貢献した。


 一方の軻比能はその衆がますます強盛になり、東部大人・素利そりを撃った。


 しかし魏の護烏丸校尉・田豫でんよが虚に乗じて軻比能の後ろを牽制した。


 軻比能は別帥・瑣奴そどを送って田豫を防がせたが、田豫がこれを撃破した。


 この後、軻比能は二心を抱くようになり、しばしば辺境を侵犯したため、幽州と并州がこれを苦とすることになる。



次回は全サイド

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