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三国志  作者: 大田牛二
序章 王朝はこうして衰退する

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登竜門

12時にも投降します。

 勃海の妖賊・蓋登がいとうらが「太上皇帝」を称した。玉印、珪(玉器)、璧、鉄券(皇帝が臣下に発布する証明書のようなもの。功臣を優待したり死罪を免除する等の約束や誓詞が書かれる)を所有し、官員を配置した。


 すぐさま朝廷によって全滅させられた。しかしながらついに皇帝を名乗る者まで出てきたのが段々とこの王朝に権威が無くなりつつあることがわかる。


 十一月、徳陽殿西閤(西閣)と黄門北寺で火災があり、広義門と神虎門に広がって焼死者が出た。


「黄門北寺」は「黄門北寺獄」といい、監獄である。


 当時は連月火災があり、諸宮寺(宮殿・官署)で一日に再三火が起きることもあった。


 また、夜に訛言(謡言、虚言)があり(人がいないのに声が聞こえたということ)、人々が互いに鼓を敲いて恐慌したこともあった。


 陳蕃ちんはんらが上書して、


「善政だけがこれ(異変)を止められます」


 と諫めたが、上書が提出されても桓帝かんていは取り合わなかった。


 因みに桓帝はこの頃、中常侍・管霸を苦県に送って老子を祀っている。


 以前にも老子を祀っていることから案外、桓帝は老子を慕っているのかもしれない。彼は宦官に大権を与え、自分はあまり政治への関心が薄いのは老子の道教思想の影響も少しはあるのかもしれない。


 事実、後漢王朝期はある種の儒教国家として儒教が権威を得ていると同時に後漢王朝への絶望もあったこともあって、道教が再び勢力を盛り返しつつあった。また、少しずつ仏教も入ってきており、道教は仏教と結び始めることになる。




 




 陳蕃はしばしば李膺りよう馮緄ふうこん劉祐りゅうゆうの冤罪を述べ、原宥(赦免)を加えて爵任(爵位官職)を上げるように請うた。


 進言が繰り返され、その言葉は懇切で涙を流すこともあったが、桓帝は聞き入れようとしなかった。


 そこで応奉おうほうが上書した。


「忠賢の武将は国の心膂(心と背骨。中核)です。私が窺い見ますに、左校の弛刑徒(刑具を外された囚人)・馮緄、劉祐、李膺らは邪臣を誅挙(誅殺・検挙)し、法に則って実施しました。ところが陛下は聴察(意見を聞いて調べること)しないばかりか、妄りに讒言を受け入れております。その結果、忠臣と元悪(大悪)を同愆(同罪)にさせ、春から冬まで降恕(寛恕)を蒙っていないため、遠近の者が見聞きするたびに歎息しています。政事を為す要とは、功を記録して過失を忘れることでございます。だからこそ景帝(本文では武帝と書かれているが景帝が正しい)は韓安国を徒中から赦しました」


 韓安国が梁の大夫になったが、罪を犯して刑罰を受けたことがあった。しかし後に梁の内史が足りなくなったため、景帝は刑徒の中から抜擢して二千石にした。


「宣帝は張敞を亡命の中から招きました。馮緄は以前、蛮荊を討ち、その功は吉甫と等しく(吉甫は周の宣王時代の賢臣で、玁狁を討伐した)、劉祐はしばしば督司に臨んで不吐不茹の節がありました」


「不吐不茹の節」とは本来は「硬い物を吐き捨てず、柔らかい物を食べない」という意味であるが、「強者を恐れず弱者を虐げないこと」の比喩として使われる。劉祐はかつて梁冀の弟・梁旻を弾劾し、司隸校尉になってからは権豪に畏れられた人物である。


「李膺は幽・并で威を明らかにし、度遼(北辺)に仁愛を残しました。今は三垂(三方の辺境)が蠢動し、王旅(王軍。朝廷の軍)がまだ振るわないため、李膺らを赦して不虞(不測の事態)に備えることを乞います」


 上書が提出されると、桓帝は三人の刑を免じた。


 久しくして李膺が司隸校尉に任命された。


 当時は小黄門・張讓の弟・張朔が野王令(県令)を勤めており、貪残無道であったが、李膺の威厳を畏れて京師に逃げ帰った。


 張朔は兄の家の合柱(数本の木で作った中が空洞の太い柱)の中に隠れた。


 しかしそれを知った李膺は吏卒を率いて柱を破壊し、張朔を捕えて洛陽獄にわたした。


 張朔は供述を終えるとすぐに処刑された。


 張讓が弟の冤罪を桓帝に訴えたため、桓帝は李膺を招き、先に許可を求めず勝手に誅殺を加えた意図を詰問した。李膺は毅然とした態度で答えた。


「昔、仲尼(孔子)は魯の司寇になり、七日で少正卯を誅しました。今、私が官に到って既に一旬(十日)が経ちましたので、稽留(停滞。ここでは奸臣に対して久しく刑罰を行わないこと)が愆(罪)になることを心中で懼れていましたが、計らずも速疾の罪(行動が速すぎるという罪)を獲ることになりました。誠に自ら釁責(罪責)を知り、死が目前にありますが、特に五日間留まることを乞います。元悪(大悪)を殲滅してから、退いて鼎鑊(釜茹での刑)に就くことが、始生の願いでございます」


 桓帝は言い返す言葉がなくなり、振り向いて張讓に、


「これは汝の弟の罪である。司隸に何の愆(罪)があろうか」


 と言って李膺を退出させた。


 この後、諸黄門、常侍は皆、慎重恭敬になり、休沐(休日)も宮省(宮中)から自由に外出しなくなった。


 桓帝が不思議に思ってその理由を尋ねると、皆、叩頭しながら泣いて、


「李校尉を畏れるのです」


 と言った。


 当時は朝廷が日々乱れており、綱紀が頽廃弛緩していたが、李膺だけは風裁(剛正で媚びない品格)を持ち、その名声を元に自分の行動を正した。


 李膺に認められて接見された士は、李膺に認められたことを、


「登龍門(龍門に登った)」


 と称した。


「龍門」は黄河の急流のことで、普通の魚では登ることができず、登りきった魚は龍になると言われている。つまり彼に認めてもらうことはまさに龍の如き名声を得るということである。


 朝廷が東海相・劉寛を朝廷に召して尚書令に任命した。


 劉寛は劉崎(順帝時代の司徒)の子で、梁冀に招聘されて司徒長史になり、後に東海相になり、朝廷に召されて尚書令になったあと、三郡の太守を歴任した。


 劉寛は温厚仁和で寛恕を多く行い、切迫した時でも早口になったり厳しい顔を見せることがなかった。


 吏民に過失があっても蒲鞭(蒲草の鞭)で罰して恥辱を示すだけで、苦痛を加えたことはなかった。


 父老に会う度に農里(郷里)の事を語って慰労し、少年(若者)に会ったら孝悌の訓(教え)によって励ましたため、人々が皆喜んで教化された。


 


 

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