魏諷
関羽が樊城包囲に呼応するように魏内部では混乱が起きていた。
沛国の人・魏諷は字を子京という人物がいる。彼は衆人を惑わす才があり、鄴都(魏の都)で敬慕されており、多くの高官が彼と好を結んでいた。そんな彼を魏の相国・鍾繇が招聘して西曹掾にした。
高い評価を得ている人物であるが、彼を批難している人物たちもいた。
滎陽の人・任覧は魏諷と友善な関係にあった。
しかし同郡の鄭袤がいつも任覧にこう言った。
「魏諷は姦雄だ。いずれ必ず乱を為すだろう」
因みに鄭袤は鄭泰の子で、任覧は任峻の子である。
傅巽や劉曄もいずれ乱を起こすと述べていた。
劉廙も彼は徒党を組むことばかりに熱中して内実が伴っていないと批難しており、弟の劉偉が魏諷と仲良くしていたため、たしなめていた。
劉廙は字を恭嗣といい、十歳のとき、学堂で遊んでいたところを司馬徽に可愛がられたことがある。彼の兄の劉望之は声望が高く、遠縁の荊州牧の劉表に招かれ従事を務めていたが、正論を吐いたため迫害を受けた。身の危険を感じる劉望之に対し、劉廙は今すぐ逃亡することを勧めたが、劉望之はこの言葉に従わなかったため殺害されてしまった。
劉廙は揚州に逃亡し、後に曹操に身を寄せた。
曹操は劉廙を丞相府の属官とし、後に曹丕の文学に転任させた。曹丕は劉廙を信任し、草書で手紙をしたためて良いとまで言った。劉廙は恐縮しつつもそれを受け入れたという。
曹操が漢中に遠征しようとした際、劉廙は上奏し、周の文王のような徳を積むべきだと述べて反対したが、曹操は劉廙の意見に同意できない旨の返答をしている。
九月、曹操が率いる大軍が帰還する前に、魏諷は秘かに徒党と結び、長楽衛尉・陳禕と共に鄴襲撃を謀った。
しかし約束の日が来る前に、陳禕が懼れて曹丕に告発した。
曹丕はすばやく魏諷を誅殺し、連坐して死んだ者が数千人に上った。
この処罰によって多くの名門の子息も処罰されてしまった。
宋忠の子や建安の七子の一人である王粲の二子、劉廙の弟・劉偉、張繍の子・張泉といった者たちである。
宋忠は元々劉表の配下で、劉琮の使者として劉備に曹操に降伏したことを伝えた者として今まで出てきたことがある。
元々彼は古典の学者・注釈家として、高名な人物であったと言われており、荊州では、綦毋闓と共に『五経章句』を編集し(『後定』と称する)、主に揚雄の『太玄経』の注釈者として多くの門人を抱えた。主な門人として王粛・尹黙・潘濬がいたという。
相国・鍾繇は魏諷を推薦した罪に坐して免官された。
楊俊は自ら叛乱を防げなかったとして処罰も求めて左遷されている。
彼は字を季才といい、若い頃は辺譲の元で学問を習っており、辺譲から高く評価された人物である。
戦乱が発生すると、楊俊は河内が交通の要所であると考え、京県・密県の人々を連れて山へ逃げたが、老若を問わず、財産の有無に拘らず通じあったという。また、親族旧知で誘拐された者を家の財産を傾けて救済した。
河内においては司馬朗の名声が高かったが、楊俊はその弟でまだ若年であった司馬懿の才能をいち早く評価し、司馬一族の中でも無名であった司馬芝の才能を認め、これを評価したことがある。さらに、戦乱で孤児となり低い身分の中にあった王象も見出すなど人物眼に優れた人物である。
左遷された後に曹丕が即位すると復職することになったが曹丕と曹植との家督争いにおいて曹植を支持したことにより曹丕の恨みを買って後に理由をつけて自殺に追い込まれている。
その際、司馬懿や王象は、楊俊の助命を頭から血が流れるほど、床に叩き付け嘆願したが容れられなかった。楊俊は、
「私は罪を弁えております」
と言い、自殺した。人々は冤罪として悲しみ悼んだと言われている。
張繍の子も処罰されたが、張繍も曹丕に何度か頼み事に赴いた際、曹丕から、
「お前は私の兄を殺したのに、どうして平気な顔をして会えるのか」
と言われたために、これに不安を感じ自殺しているように曹丕は恨みを忘れない人である。
王粲の子も処罰されたことを曹操が後に知ると、彼は、
「私であれば、処罰しなかっただろう」
と、述べている。
劉廙の弟が魏諷の反乱に加担したため、劉廙も連座するところであった。よくよく考えると彼は兄弟に足を引っ張られていることの多い人である。
しかし曹操は彼を許し、丞相倉曹属への配置替えに留まった。この計らいに劉廙は上奏して曹操に礼を述べた。
文欽も魏諷と同じような言動を取っていたという理由で処罰されそうになっていたが、彼の父が曹操の元で功績を立てていたという理由で処罰されなかった。
魏諷の叛乱はあっさりと食い止められた割には多くの者が処罰された叛乱であったと言えるだろう。
この年、曹操は楊脩が前後して言教(告諭、訓戒)を漏洩し、曹植と交わって関係をもっているという理由で、ついに逮捕して殺した。
楊脩は以前から曹操に反感を持たれていたことも大きな要因である。
曹植と曹丕の後継者争いにおいて、楊脩は曹植を助けていたため、曹丕はこれを患い、車に廃簏(古くなった竹の箱)を乗せ、朝歌長・呉質を中に入れて府邸に運び、共に謀ろうとしたことがあった。
それを知った楊脩がそのことを曹操に報告した。
曹操が調査する前に、曹丕が懼れて呉質に告げると、呉質は、
「害はありません。私の言うとおりにしてください」
と言った。
翌日、再び箱に絹を載せて曹丕の府邸に入れた。楊脩がまた曹操に報告した。
しかし推験しても中に人がいなかったため、曹操は楊脩を疑うようになった。
曹植は車に乗って馳道の中央を走り、勝手に司馬門を開いて外出したため、既に罪を得ていたが実はこの年、更に曹操の怒りを買うことを曹植はしている。
曹仁が関羽に包囲された時、実は曹操は曹植を派遣して曹仁を助けさようとしていた。しかしその時、曹植は酒に酔って命を受けることができなかったのである。
関羽に対して曹植を派遣するというのは流石に関羽を舐めすぎではと思うが、もしかすれば、曹植を派遣しようとして急遽、于禁を大将にしたため于禁の準備が間に合わず、雨の中、なんも関羽に敗北したのもあったのではないか。だとすると于禁の敗戦の責任は曹操にもあるということになる。
曹操から疎まれている曹植であるが、楊脩との連綴(連結。関係をもつこと)を止めなかった。楊脩は敢えて自ら関係を絶つことができなかった。この辺り、彼には甘さがある。
楊脩は曹植の所に行くたびに、曹植の行動に欠点があることを憂慮した。そこで、曹操の意を忖度(推察)して、あらかじめ曹操の訓戒に対する十余條の回答を作り、曹植の門下にこう命じた。
「魏王の訓戒が出たら、問われた内容に応じてそれに答えよ」
楊脩のおかげで曹操の訓戒が出されても、すぐに答えを返すことができた。
しかし曹操は回答が速すぎることを怪しみ、そこで推問(追究、審問)したところ、ついに真相が暴露された。
これらのことにより、楊脩は処刑された。
彼にとって曹植は疫病神であったと言えなくはないかもしれない。
曹操は漢中からの撤退する中で、杜襲を留府長史に任命して劉備の備えとして関中に駐留させた。
関中の営帥・許攸(営師は武装勢力の長。この許攸は、かつて袁紹に仕えて後に曹操に帰順した許攸とは同姓同名の別人である)が部曲を擁して帰順せず、傲慢で放縦な言葉があったため、曹操は激怒して討伐しようした。
群臣の多くが諫めて、
「許攸を招懐して共に強敵を討つべきです」
と言っても、曹操は刀を膝の上に横にして、厳しい表情のまま諫言を聴かなかった。どんな言葉を吐かれたのか興味を覚えるほどの激怒であった。
杜襲が入って諫めようとすると、曹操が迎え入れて言った。
「我が計は既に定まった。汝はもう何も言うな」
すると杜襲がこう返した。
「もし殿下の計が正しいことであるなら、私は殿下がそれを成すのを助けます。しかしもし殿下の計が非であるならば、たとえ計が成っていても、それを改めさせなければなりません。殿下は私を迎え入れて何も言うなと命じました。なぜ下の者を待遇する様がこのように開明ではないのでしょうか?」
曹操が言った。
「許攸は私を侮った。どうして捨てておけるか」
杜襲が問うた。
「殿下は許攸がどのような人だと思いますか?」
曹操は、
「凡人だ」
と答えた。そこで杜襲はこういった。
「賢人だけが賢人を知り、聖人だけが聖人を知るものです。凡人がどうして非凡な人を知ることができましょうか。今は豺狼(劉備)が路に当たっているのに、狐狸(許攸)を優先してしまえば、人は殿下が強を避けて弱を攻めたと思うようになります。許攸を攻めて進んでも勇にはならず、退いても仁にはなりません。私が聞くに、千鈞の弩(重い弩。三十斤で一鈞)は鼷鼠(小さい鼠)のために機(弩を射る装置)を発することなく、万石の鍾は草の茎で打っても音を立てることがありません。今、区区(小さい様子)とした許攸が、どうして神武を労すに足りましょうか」
曹操はやっと納得して許攸を厚く慰撫した。その結果、許攸はすぐに帰服した。
次回は孫権サイド