漢中王
七月、劉備が自ら漢中王を称した。
秋群臣が劉備を漢中王に推し、献帝に上表した。
「平西将軍・都亭侯・臣・馬超、左将軍長史・領鎮軍将軍・臣・許靖、営司馬・臣・龐羲、議曹・従事中郎・軍議中郎将・臣・射援、軍師将軍・臣・諸葛亮、盪寇将軍・漢寿亭侯・臣・関羽、征虜将軍・新亭侯・臣・張飛、征西将軍・臣・黄忠、鎮遠将軍・臣・賴恭、揚武将軍・臣・法正、興業将軍・臣・李厳ら一百二十人が上表します」
ここで初めて見る名前がある。射援である。彼は字は文雄といい、扶風の人である。先祖の本姓は謝といい、北地の諸謝(謝氏諸族)と同族である。始祖の謝服が将軍になって出征した時、当時の天子が「謝服(謝罪して服す)」は令名(美名)ではないと考え、「射服」に改めさせたため、子孫がそれを氏にしたという。
兄の射堅は字を文固といい、若い頃から美名があったため、公府に招聘されて黄門侍郎になった。しかし献帝の初期に三輔が飢乱したため、射堅は官を去り、弟の射援と共に南の蜀に入って劉璋を頼った。劉璋は射堅を長史にした。劉備が劉璋に代わると、射堅を広漢や蜀郡の太守にした。射援も若い頃から名行(名声・品行)があり、太尉・皇甫嵩がその才を賢と認めて娘を嫁がせたほどであった。その後、蜀の丞相・諸葛亮が射援を祭酒にし、更に後に従事中郎にした。官に就いたまま死んだという。
「昔、堯は至聖でしたが四凶が朝廷におり、周の成王は仁賢でしたが四国が反乱を起こし、呂太后が称制して諸呂が権勢を盗み、昭帝が幼少で上官が叛逆を謀りました。皆、世寵を利用し、国権を借りて行使し、凶悪を尽くして乱を極め、社稷を危うくするところでした。舜、周公、朱虚(劉章)、博陸(霍光)がいなければ、流放(追放放逐)・禽討(捕縛誅滅)して、安危定傾(危機・転覆から救って安定させること)することはできなかったことでしょう。伏して思うに、陛下は誕姿(立派な姿)・聖徳によって全国を統治していますが、国が衰退する危難に遭っています。董卓が始めに難を為して京畿を転覆動乱させ、曹操が禍を招いて天子の権威を盗み行使し、皇后・太子が鴆毒によって殺害され、曹操が天下を騒乱させて民や物を破滅破壊し、久しく陛下を流浪と困苦をもたらせ、虚邑(人がいない貧しい村。恐らく許都を指す)に幽閉しています。人民と祭祀に主がなくなり、曹操が王命を遏絶(阻止隔絶)し、皇権を制御して覆い隠し、神器(皇権の象徴)を盗もうと欲しています」
いかなる聖人、名君であっても災いを受けることがある。献帝は今、曹操という災いに苦しんでいる。
「左将軍・領司隷校尉・豫荊益三州牧・宜城亭侯・備(劉備)は朝廷の爵秩を受け、思いは尽力によって国難に殉じることにあります。その機兆(先兆。曹操による簒奪の兆し)を見て、憤怒して憤発しましたので、車騎将軍・董承と共に曹操誅殺を共謀し、国家を安んじて洛陽を安定させようとしました。しかしたまたま董承の機密が漏れてしまったため、曹操の游魂が長期の悪事を遂げられるようにさせ、海内を破壊しています。私らはいつも王室において、大は閻楽の禍があり、小は定安の変があることを懼れており、朝から夜まで惴惴(不安な様子)とし、戦慄して息をひそめて参りました」
閻楽の禍とは秦末、趙高が閻楽を送って二世皇帝を殺したことをいう。定安の変とは前漢末、王莽が孺子を廃して定安公にしたことである。
「昔は『虞書』に『九族を厚く遇して序列を決める』とあり、周は二代(夏・商)に鑑みて同姓を封建し、『詩(詩経)』がその義(意義・道理)を著して長久に年を重ねてきました。漢興の初めは、領土を割裂し、子弟を尊んで王に立てました。それによってついに諸呂の難を挫折させ、太宗の基(文帝の功業の基礎)を成すことができたのです。我らが思うに、劉備は肺腑の枝葉(皇室の一族)、宗子の藩翰(皇族の子弟で王室を守る重臣)であり、心には国家があり、念は乱を静めることにあります。曹操を漢中で破ってから、海内の英雄が名声を聞いて蟻が集まるように帰附しているのに、爵号が高くなく、九錫がまだ加えられていないのは、社稷を守護して万世に功績を光昭(発揚・高揚)することにはなりません」
劉備は皇族の一員であるが、曹操に対抗するためにも王位という形が必要であるという主張である。
「劉備は詔を奉じて外におり、礼命(皇帝の命)が断絶しています。昔、河西太守・梁統らはちょうど漢の中興の時に当たりましたが、山河に阻まれており、官位が同じで権力が等しかったため、互いに統率することができませんでした。そこで皆が竇融を推して元帥とし、最後は功績を立てて隗囂を打ち破りました。今の社稷の難は隴・蜀より急です。曹操が外で天下を併呑し、内で群臣を害し、朝廷には内乱の危機があるにも関わらず、天子が侵略を防ぐ者を設けないのは、心を寒くさせます。そこで我々は旧典に則り、劉備を漢中王に封じ、大司馬に任命し、六軍を統率させ、同盟を糾合して凶逆を掃滅することにしました。漢中・巴・蜀・広漢・犍為をもって国とし、署置(任官・配置)は漢初の諸侯王の旧典に則ります。権宜の制(臨機応変な制度、方法)とは、とりあえず社稷を利すのなら、専断も許されるものです。その後、功が成って事が立ったら、我々は退いて矯罪(勝手に天子の詔を作った罪)に伏します。たとえ死んでも恨みはありません」
こうして沔陽に壇場が設けられた。兵を並べて陣を布き、群臣が同席し、上奏文を読み終えてから、劉備に王冠を進めた。
劉備が上書して献帝に言った。
「私は具臣の才(臣下の列に加わるだけの凡庸な才)によって上将の任を負い、三軍を総督し、外において詔を奉じていますが、寇難を掃除して皇室を安んじて正すことができず、久しく陛下の聖教を衰退させ、六合(上下と四方。天下)の内が混乱したままで泰平にできないため、これを憂いて眠りにつけず、頭痛を病んだようにうなされております」
「以前、董卓が乱階(乱の発端)を造り、その後、群凶が縦横して海内を残剥(破壊・搾取)しましたが、陛下の聖徳・威霊のおかげで人と神が共に応じ、あるいは忠義の士が奮討し、あるいは上天が罰を降したので、暴虐が並んで倒れて徐々に氷が融けるように消滅しました。しかし曹操だけは久しく誅滅されず、国権を侵犯・専断し、心を恣にして乱を極めています。私は昔、車騎将軍・董承と曹操討滅を図りましたが、機事が密ではなかったため、董承は殺害され、私は流亡して拠点を失い、忠義を果たせませんでした。その結果、ついに曹操に凶を尽くして逆を極めさせることになり、皇后が殺戮され、皇子が鴆毒によって殺害されました。たとえ同盟を糾合し、力を奮いたいと思っていても、軟弱で勇武がないため、年を経ても成果がなく、常に死亡(漢帝よりも先に自分が死ぬこと)して国恩に裏切ることを恐れ、寝ても覚めても長嘆し、朝から夜まで危難に臨んだ時のように心を引き締めて参りました」
「今、臣の群寮はこう考えています。昔、『虞書』に『九族を厚く遇して序列を決め、衆明(多数の賢明な士)を輔翼とせん』とあり、五帝はそれぞれ前の時代の制度を修正してきましたが、この道(『虞書』の道理)は廃しませんでした。周は二代(夏・商)に鑑み、諸姫氏を並べて封建しました。そのおかげで実に晋・鄭による補佐の福に頼ることができたのです。高祖は龍興(帝王が興隆すること)してから子弟を尊んで王とし、大いに九国を開き、その結果、最後は諸呂を斬って大宗を安んじました。今、曹操は直を嫌って正を憎み、実に多くの徒を集め、悪を為す心を隠し持ち、簒盗の意志が顕かになっています。既に宗室が微弱になり、官位に就いている皇族もいないので、私の群寮は古の方法を考慮し、暫時、権宜に則って、私を大司馬・漢中王に推しました。私は伏して自ら三省し、国の厚恩を受けて一方の任を負いながら、力を出しても成果がなく、獲ているもの(地位・官職)が既に度を過ぎているため、また高位を忝く能力がないのに高位に就いて罪謗(罪や批判)を重ねるべきではないと考えました。しかし群寮が義によって私に逼迫しました。私が退いて思うに、寇賊が誅されず、国難がまだ止まず、宗廟が転覆の危機にあり、社稷が消滅しようとしており、これらの状況が私の憂責碎首の負(憂慮・自責して命を懸けるべき負担、責任)と成っています。もし権に応じて臨機応変に適切な対処をすることにより、聖朝を安寧にできるというのであれば、たとえ水火に赴くとしても、辞すことではなく、後悔しないために敢えて通常の道義を考慮せず、臨時の手段として王位に即くつもりです。よって、衆議に順じて印璽を拝受し、そうすることで国威を崇めます。仰いでこの爵号を思うに、位が高く寵が厚く、伏して報效(恩に報いて尽力すること)を思うに、憂いが深く責任が重いため、驚き怖れて息をひそめ、深谷に臨んだ時のようです。力を尽くして忠誠を捧げ、六軍を奨励し、諸義士を統率し、天に応じて時に順じ、凶逆を討伐することで、社稷を安寧にし、国恩の万分の一だけにでも報いるつもりです。謹んで拝章し(「拝章」は上奏文を献上すること)、(拝章に使う)駅(駅馬、駅車)によって授かっていた左将軍・宜城亭侯の印綬を返上致します」
劉備は子の劉禅を王太子にした。
更に牙門将軍・魏延を抜擢して鎮遠将軍に任命し、漢中太守を兼任させ、漢川を鎮守させた。
劉備は還って成都を漢中王国の都とした。
劉備は許靖を太傅に、法正を尚書令に、関羽を前将軍に、張飛を右将軍に、馬超を左将軍に、黄忠を後将軍に任命し、その他の者もそれぞれの状況に応じて位を進めた。
劉備が益州前部司馬・費詩を荊州に派遣し、現地で関羽に前将軍の印綬を授けた。
費詩は字は公挙といい、劉璋に仕えて綿竹県令を務めていたが、劉備が攻めて来ると率先して降伏し、その家臣となった人物である。劉備が益州を平定すると、督軍従事に任じられ、その後、牂牁太守となり、さらに成都へ戻って益州前部司馬に任命された。
彼から印綬をもらった際、関羽は黄忠の位が自分と並んでいると聞き、怒ってこう言った。
「大丈夫とは間違っても老兵と同列にはならないものだ」
そう言って関羽が任命を受けようとしないため、費詩が言った。
「王業を立てる者が用いるのは単一の人材ではございません。昔、蕭何と曹参は高祖と年少時からの旧友で、陳平と韓信は楚からの亡命者で蕭何・曹参よりも後に至りましたが、序列を論じれば、韓信は王になりましたが、蕭何と曹参は侯でした。しかし二人がこれによって怨んだとは聞いたことがありません。今、漢中王は一時の功によって漢升(黄忠の字)を重用しましたが、心中の軽重がどうしてあなたと等しいでしょうか。そもそも王と君侯は一体と同じで、美を同じくして憂いを等しくし、禍福を共にしています。愚見によるならば、あなたは官号の高低や爵禄の多少を計って意とするべきではありません。私は一介の使、銜命の人(命を受けた人)に過ぎないので、あなたが任命を受けないのなら、これで還ります。ただこの挙動を惜しいと思うだけであり、恐らくあなたは後悔することになさることでしょう」
関羽は大いに感悟し、すぐに任命を受け入れた。
そんな関羽は軍を率いて北上した。中原を揺り動かし、三国の勢力図を、数多の者の運命を大きく変えることになる戦が始まる。
次回、関羽北上