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三国志  作者: 大田牛二
序章 王朝はこうして衰退する

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度尚

 荊州の兵・朱蓋しゅがいらが叛して桂陽賊・胡蘭こらんらと共にまた桂陽を攻撃した。


 桂陽太守・任胤じんいんは城を棄てて逃走した。


 勝利に湧く賊衆は数万人に上った。

 

 朱蓋らは桂陽の郡県を攻略してから転じて零陵を侵した。太守・陳球ちんきゅうが固守して朱蓋らを防いだ。


 零陵は地形が低くて湿度が高く、木を組んで城壁にしていた。


 郡中が惶恐し、掾史が陳球に家族を外に送って避難させるように勧めたが、陳球は怒ってこう言った。


「太守は国の虎符を分けて一邦(一郡)の任を受けているのだ。どうして妻子を顧みて国威を損なうことができるというのか。再び同じことを言う者は斬るぞ」


 陳球は大木に弦を張って弓を作り、矛に羽毛をつけて矢を作り、機械を引いて矛で作った矢を放った。多くの者が殺傷されていった。


 賊が激流を城に注いだ。しかし陳球はすぐに城内で地形を利用して逆に川を決壊させ、逆に賊を水没させた。水攻めをして逆に水攻めを食らうという珍しい光景がここにはある。


 陳球が十余日にわたって抵抗したため、賊は零陵を攻略できなかった。


 この頃、荊州刺史・度尚どしょうは荊州の乱を平定してから右郷侯に封じられて桂陽太守に遷されてから本年、京師に招かれていた。


 桓帝かんていは詔によって度尚を中郎将に任命し、歩騎二万余人を率いて陳球を助けさせた。


 度尚は諸郡の兵を動員して勢力を合わせ、賊を討撃して大破した。胡蘭らの首三千余級を斬った。


 陳球も同じ時に城から出撃し、朱蓋を斬ってみせた。


 朝廷は度尚を再び荊州刺史に任命した。


 これ以前に蒼梧太守・張敍が賊に捕えられていた。


 桂陽太守・任胤も恐れを抱いて敵に背を向けたため、張敍と共に京師に召還されて棄市に処された。


 胡蘭の余党が南の蒼梧に走ったが、交趾刺史・張磐が撃破した。賊は再び荊州界内に入った。


 それを知った度尚は自分が罪を負うことを懼れた。群賊を完全に滅ぼせなかった罪に問われると思ったのである。


 そこで彼は偽って蒼梧の賊が荊州界内に入ったと上書した。


 朝廷は張磐を召還して廷尉に下した。


 辞状(供述。証拠)が審理される前に大赦があったため張磐は罪を赦された。しかしながらこの大赦はいつのものであるかは不明である。


 張磐は大赦に遇ったが、獄から出ようとせず、逆に械節(刑具の接合部)を更に強く持った。


 獄吏が張磐に問うた。


「天恩が曠然(広大な様子)としているのにあなたは出ようとしない。それが相応しいことだろうか?」


 張磐はこう答えた。


「私は方伯(地方の長官。刺史)の位に備わったにも関わらず、度尚によって冤罪を着せられ、牢獄で罪を受けた。事には虚実があり、法には是非があるものだ。私は実に不辜(無罪)であり、大赦が私の罪を除いたのではない。もしもとりあえず刑から免れたことで冤罪を忍んでしまえば、永く侵辱(凌辱)の恥を受け、生きている間は悪吏となり、死んでからは敝鬼(悪鬼)になる。伝車で度尚を廷尉に至らすことを乞う。面前で曲直を問い比べれば真偽を明らかにするに足りる。度尚を召還しないなら、私は牢檻に骨を埋め、冤罪を被ったまま形式的に獄から出るつもりはない」


 廷尉がこの内容を桓帝に報告した。


 桓帝は詔を発して度尚を招き、廷尉に送った。


 度尚は辞に窮して罪を受けたが、先に功績を立てていたため赦された。


 その後、張磐は廬江太守になって終えることになる。


 度尚はこの後、遼東太守になった。


 数カ月後、鮮卑が兵を率いて度尚を攻めたが、彼は鮮卑と戦って破ったため、戎狄が畏れ憚った。翌年、度尚は五十歳で官に就いたまま世を去った。









 段熲だんけいが勒姐種(または「罕姐羌」)を撃って四百余級を斬首し、二千余人を降した。その後、進軍して湟中で当煎種(族)を撃ったが、抵抗にあい、敗れて三日間包囲された。


 段熲は隠士・樊志張はんしちょうの策を用いて夜の間に秘かに兵を出した。包囲の外に出た兵が戦鼓を敲きながら引き返して戦い、羌人を大破した。それによる首虜(首級。または首級と捕虜)は数千人に上った。


 その後、段熲は窮追して山谷の間を転々とし、春から秋まで戦わない日がなかった。


 虜(羌人)はついに飢困して敗散し、北に向かって武威一帯を侵した。


 段熲が西羌を破った戦いでは、合わせて二万三千級を斬首し、生口数万人、馬牛羊八百万頭を獲た。投降した者は一万余落に上った。


 朝廷は段熲を都郷侯に封じ、邑を五百戸にした








 七月、太中大夫・陳蕃ちんはんを太尉にした。


 陳蕃は太尉の位を太常・胡広ここう、議郎・王暢おうちょう、弛刑徒(刑具を外された囚人)・李膺りように譲ろうとしたが、桓帝が許さなかった。


 王暢は王龔の子で(王龔は安帝と順帝に仕えて三公になった)、かつて南陽太守を勤めた人物である。


 王暢は南陽に貴戚豪族が多いことを嫌い、着任して車から下りると威猛を奮わせた。大姓(豪族)が罪を犯せば、吏(官吏)を送って家屋を倒し、樹木を伐採し、井戸を塞ぎ、竈を壊して平らにしたこともあった。


 功曹・張敞ちょうしょうが文書を提出して諫めた。


「文翁、召父、卓茂の徒(文翁は前漢の官吏。召父は召信臣、同じく前漢の人)は皆、温厚によって政を行い、後世に名が伝えられました。発屋伐樹(家屋を倒して樹木を伐ること)は厳烈に近いため、懲悪を欲していたとしても遠くに聞かせるのは困難です。この郡は旧都となり、侯甸の国でもあり、園廟は章陵から出て、三后は新野から生まれ、中興以来、功臣将相が世を継いで興隆してきました。私の愚見によるならば、急いで刑を用いるよりも恩を行った方が良く、急いで姦悪を探すよりも賢人を礼遇する方が優っています。舜は皋陶を挙げたので不仁の者が遠ざかりました。化人(人の教化)は徳にあり、刑を用いることにはありません」


 王暢はこの言葉に深く納得し、寛大な政治を推進して教化を大いに行き届かせるようにした。





 竇融(建国の功臣)の玄孫に当たる郎中・竇武とうぶに娘がおり、貴人になった。竇妙とうみょうという。


 当時、桓帝は采女・田聖でんせいを寵愛しており、皇后に立てようとした。


 しかし司隸校尉・応奉おうほうが上書して諫めた。


「母后の重(重要性)は興廃の原因となります。漢は趙飛燕を立てて胤祀が泯絶(絶滅)しました。『関雎(『詩経』の第一首で、君子が淑女を想う詩)』が求めたことを思い、五禁が忌(禁忌)とすることを遠ざけるべきです」


 婦人には「五不娶(娶ってはならない五種類の婦人)」があり、これを「五禁」といった。


 一、母を失った長女(この「長女」は恐らく「ある程度、年をとった女」を意味する)は娶ってはならない。命(教育)を受けていないからである。


 二、家族親戚に悪疾(病)がある者は娶ってはならない。天に棄てられた者だからである。


 三、家族親戚に受刑者がいる者は娶ってはならない。人に棄てられた者だからである。


 四、乱家(倫理が乱れた家庭)の女(娘)は娶ってはならない。不正(正しくないこと。正当ではないこと)に属すからである。


 五、逆家(正道から外れた家)の女(娘)は娶ってはならない。人倫が廃れているからである。


 太尉・陳蕃も田氏が卑微(身分が低いこと)で竇氏の宗族が良家だったため、田氏を皇后に立てることに強く反対した。


 それにより桓帝はやむなく竇貴人を皇后に立てた。


 竇武を特進・城門校尉とし、槐里侯に封じた。


 竇武は後に宦官への対抗馬として活躍することになる。



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