名声ある者たち
149年
この年、元朗陵侯相(朗陵侯国の相)・荀淑が死んだ。
荀淑は若い頃から博学で高行(高尚な品行)があり、当世の名賢・李固や李膺が師として尊んだ人物である。
朗陵では政務を処理して公明だったため、神君とまで称された。
荀倹、荀緄、荀靖、荀燾、荀汪、荀爽、荀粛、荀旉という八人の子がおり、そろって名声があったため、当時の人々は「八龍」と称した。
また、荀淑が住んでいた里は旧名を西豪と言ったが、かつて高陽氏(顓頊)にも八人の才子がいたため、潁陰令・渤海の人である苑康が「高陽里」に改名した。
この八竜のうち次男の荀緄の子を荀彧がおり、荀淑の兄の曾孫に荀攸がいる。
荀淑を尊敬した李膺もこの時代において屈指の名声を有しており、性格は簡亢(清高)で、人と交流することがなく、荀淑だけを師とし、同郡の陳寔だけを友にした。
荀爽がかつて李膺を謁したことがあり、その機会に李庸のために車を御した。
荀爽は帰ってから喜んで、
「今日、李君(の車)を御すことができた」
と言うほどであった。
その李膺が友にした陳寔は単微(微賎)の出身で、潁川郡の西門亭長になった。
同郡の鍾皓は篤行で名が知られており、前後九回も公府から招聘されていた。年齢も輩分(上下、長幼の秩序)も遠く陳寔の前にいたが、鍾皓は陳寔を招いて友にした。
鍾皓は郡功曹を勤めた後、司徒府に招聘された。郡を去る時、太守が問うた。
「誰が卿(汝)と代わることができるだろうか?」
すると鍾皓はこう答えた。
「明府が必ずその人(適切な人材)を得たいと欲するならば、西門亭長・陳寔が相応しいでしょう」
陳寔はこれを聞いて、
「鍾君は人を推挙できないようだ。なぜ私しか知らないのだろうか」
と苦笑した。
太守は陳寔を功曹に任命した。
当時、中常侍・侯覧が縁故の者を出仕させるため、太守・高倫に官吏として用いるように求めた。高倫は命令書(檄)に署名して文学掾に任命した。
しかし陳寔はこの者に能力がないことを知っていたため、檄を懐に入れて高倫に謁見を求めた。
「檄」とは板書のことである。高倫の命令は「檄」に書かれていた。懐に入れたのは、事が漏れるのを恐れたためである。
陳寔は言った。
「この人は用いるべきではありません。しかし侯中常侍には違えることができないため、私が外から署名することを乞います。そうすれば、太守の明徳を汚すことにはならないでしょう」
彼の役職の功曹は官吏の業績を考察して人選を行う官である。陳寔は太守の代わりに命令書に署名することを願い出たのである。
高倫はこれに従った。
郷論(郷里の世論)は陳寔が相応しくない人材を挙げたことを不可解に思って議論した。しかし陳寔は最後まで何も言うことはなかった。
後に高倫は朝廷に招かれて尚書になった。郡中の士大夫が綸氏(県名)まで送った。
この時、高倫が衆人に言った。
「私は以前、侯常侍のために吏を用いたが、陳君は秘かに教(命令書)を持って返却し、外で自ら署名した。議者がこの事によって陳寔を軽視していると何回も聞いたが、この咎(罪)は故人(高倫を指す。漢人は門生や故吏の前では自分を「故人」と称した)が強禦(強権)を畏憚したことにある。陳君は『善があったら主君の功績と称し、過ちがあれば、自分の責任と称す(『礼記』の言葉)』という者であると言えよう」
陳寔はその後も自分の過失であると主張したため、これを聞いた者は嘆息(感嘆)するようになり、天下がその徳に服した。
後に陳寔は太丘長になった。
徳を修めて清静だったため、百姓が安寧になった。
鄰県の民で帰附した者がいても、陳寔はいつも訓導・譬解(説明)して元の県に還らせた。
司官(主管の官員。ここでは県を監督する官)が視察した時、官吏は民の中に訴える者がいることを憂慮し、陳寔に訴訟を禁じるように進言した。
しかし陳寔はこう述べた。
「訟(訴訟)とは直を求めるものである。これを禁じてしまえば、彼らは自分の理をどうやって述べるのか。制限してはならない(または「逮捕してはならない)」
これを聞いた司官は嘆息し、
「陳君の言がこのようであるならば、どうして人に冤(怨み。冤罪)があるだろうか」
と言った。
果たして司官に訴える者はいなかった。
後に沛相が賦斂(税の徴収)において法に違えたため、陳寔は印綬を解いて去った。太丘県は沛国に属す。
去った後の太丘県の吏民は陳寔を懐かしんで思念した。
陳寔の孫を陳羣といい、九品官人法を作ることになる人物である。
陳寔の友である鍾皓はかねてから荀淑と名声を等しくしていた。
李膺はいつも嘆息して言った。
「荀君の清識(清高と見識)は学ぶのが難しい。鍾君の至徳は師(模範)とするべきである」
鍾皓の兄の子を鍾瑾といい、その母は李膺の姑(父の姉妹)であった。
鍾瑾は好学で古を慕い、退譲(謙譲)の気風があったため、同年の李膺と共に名声があった。
李膺の祖父に当たる李脩は常にこう言った。
「鍾瑾は我が家の性(性格。性質)に似ている。『国に道(道理)があれば廃されず、国に道がなくても刑戮を免れられる(『論語』言葉です)』というものである」
以前。李膺が鍾瑾に言った。
「孟子は『人に是非の心がなければ、人ではない』と考えた。汝はこれにおいてどうして白黒(是非)を全くわきまえないのか」
人となりが柔らかであることは良いが自己主張をもう少し強くしても良いのではないかという意味である。
鍾瑾が李膺の言葉を鍾皓に話すと、鍾皓はこう言った。
「元礼(李膺の字)の祖父と父は位におり、諸宗が共に盛んなのでそうできたのだ。昔、斉の大夫・国佐は人の過ちを暴くことを好み(白黒をはっきりさせることを好み)、そのため怨悪を招いた。今はどうしてその時(白黒をわきまえると時)だろうか。必ず身を保って家を全うしたいと欲するならば、汝の道が貴い(高明である)」
この鍾皓の孫が鍾繇といい、曹操を支えることになる重臣となる。