定軍山の戦い
219年
夏侯淵が劉備と対峙して年を越えた。
夏侯淵は今まで戦で活躍してきて、しばしば勝ってきたが、魏王・曹操は常に戒めてこう言った。
「将となったら臆病な時があるべきで、勇に恃むだけではならない。将とは勇をもって本とするが、行動においては智計をもってするものだ。ただ勇に任せることを知っているだけなら、一匹夫と同等だ」
夏侯淵は勇敢であるが慎重さに欠けるということである。曹操としては彼を一将としてではなく、大軍を率いる総司令官としての実力をつけて欲しいと思っていた。
この漢中での争奪戦での起用はその表れであっただろう。
ここまで夏侯淵はその起用に見事、答えていたと言えるだろう。
劉備は陽平から南に向かって沔水を渡り、山に沿って少し前進し、定軍山に営を構えた。
夏侯淵はそこに兵を率いて劉備を攻めた。
「これで夏侯淵を撃てます」
法正と進言した。これは夏侯淵を誘うための策であったのだ。
「しかしながら魏延将軍はよくやっております」
現在、魏延が夏侯淵軍と直接戦っている。彼の気性に合わないような攻めすぎず、守りすぎない戦を展開している。
「あのような戦い方ができるとは思っていませんでした。出陣前に魏延将軍に何かおっしゃられておりましたが、どのようにおっしゃられたのですか?」
「ただ水のように戦えと言っただけだよ」
劉備がそう言うと黄権を見た。黄権は頷く。
「先ほど伝令が来まして、広石にいる張郃への奇襲に成功せりとのこと」
趙雲が一軍を率いて広石の守りを任されている張郃へ奇襲を仕掛けていた。
この報告は夏侯淵の元にも至っていた。
「張郃が危ない」
夏侯淵は兵の一部を割いて、張郃への救援へ向かわせた。
「魏延将軍にもこれを知らせに」
「いや、大丈夫」
法正が策が上手くいっていることを伝えようとするのを劉備が止めた。なぜなら既に魏延が行動に移しているからである。
「これで九分九厘勝ったね」
劉備はそう呟く。
「あとは黄忠次第だ」
夏侯淵は張郃の元に救援の兵を送ってから、先ほどまで大したことの無い攻撃をしていた劉備軍が一気に猛攻をかけてきた。
(先鋒の将らしき者が前線に出張ってきている)
張郃へこちらが兵を割いた上での猛攻であることは夏侯淵はすぐさま理解した。
(ふん、私も甘く見られたものだ)
慌てて兵を送ったと思われているのだろう。だが、夏侯淵はしっかりと予備の兵力を残している。
「残っている兵を前線へ送り、守りを固まらせろ」
夏侯淵は前線へ兵を情強させ、劉備軍の先鋒の猛攻を凌がせた。
(よし先鋒の将が退いた)
これにより先ほどまで猛攻を仕掛けていた劉備軍の先鋒の勢いが鈍くなり、引き始めた。
(ここが勝機)
夏侯淵は全軍に大攻勢をかけるように指示を出し、自らも打って出ようとした。
兵たちが命令を受けて、前線へ向かい始めた。その瞬間、夏侯淵の耳に、
「敵襲っ」
叫び声が木霊した。
黄忠は夏侯淵の本陣に奇襲を仕掛けるため、険しい高所を昇り準備を行っていた。
(流石は名将・夏侯淵)
当初の策通り、張郃への救援に夏侯淵は兵を割いたが予想以上に割いた兵の量が少なく、本陣の守りが堅い。
(これでは奇襲が……)
すると魏延が猛攻を仕掛けたのが見えた。
(上手い……だが……)
魏延が猛攻を仕掛け、夏侯淵が前線の兵を増強させたがそれでも奇襲を成功させるほど本陣が薄くなったとは言えないと黄忠は思った。
(もう少し、もう少し兵を少なくしたい。もしくは注意を逸らしたい)
黄忠がそう考えている中、猛攻を仕掛けていた魏延が突然、引き始めた。それを見て好機と見たのか夏侯淵軍の動きが大攻勢の動きに変わった。
(奇襲するは今よ)
黄忠は戦鼓を敲いて喚声を上げながら一気に夏侯淵軍本陣へ高所から奇襲を仕掛けた。
夏侯淵軍の兵は精兵であり、経験豊かな者ばかりである。故に前線へ向かっていた兵はこの黄忠の奇襲に気付くと本陣へと戻り、夏侯淵を助けようと方向転換しようとした。
その瞬間、引き気味であった魏延が再び猛攻を仕掛けた。しかも先ほどよりも更に激しい攻撃であった。それにより夏侯淵軍の前線は大混乱に陥った。
前線からの救援が難しい中、夏侯淵の本陣はまともに黄忠による奇襲に晒されることになった。
対応しようとする夏侯淵にはそれを成し遂げるための兵が足りなかった。
「その首、もらったあ」
黄忠はそう叫ぶと夏侯淵の首を斬った。前線の曹操が任命した益州刺史・趙顒らは魏延によって斬られた。
夏侯淵の子・夏侯栄は七歳にして文書を書き、幼少時の曹叡と友人になった人物である。父に従い、従軍していたが戦いの中、父の死を知った。周りの者が退却を勧められたが彼は、、
「父や兄弟達が戦っているにも関わらず、どうして自分だけ逃げるのか」
と言い劉備軍に突撃し、戦死した。
夏侯淵の敗因は一言で言えば、劉備軍の打ち出す手に対応しすぎて、予備兵力を失ってしまったため本陣の守りまで賄えきれなかったためであると言えるだろう。
張郃は広石で攻撃を受け、守りきれないと判断するや陽平へ退却していた。劉備軍の攻撃を受けながらもしっかりと退却してみせた。
当時、元帥であった夏侯淵を失ったばかりだったため、軍中は混乱していた。
そこで督軍・杜襲と夏侯淵の司馬である郭淮が散卒(四散した兵士)を招集し、諸軍に号令した。
「帰還された張将軍(張郃)は国家の名将で、劉備に懼れられている。今日の事は逼迫しており、張将軍でなければ安んじることができないだろう」
二人は臨時に張郃を推して軍主にした。
張郃が出て来て、兵を整えて陣を巡視すると、諸将は皆、張郃の指示を受け入れ、衆心がやっと安定した。
郭淮は字を伯済といい、建安年間に孝廉で推挙され、平原の丞となり曹丕が五官将になると、郭淮は召し出され門下賊曹に加えられたが、間もなく曹操へ付き漢中征伐に随行した。漢中制圧後は夏侯淵の司馬としてその地に残り、ともに劉備に備えたが、劉備軍侵攻の際は病気で参戦していなかった人物である。
翌日、劉備が漢水を渡って攻めて来ようとすると諸将は多勢に無勢であるため、川に依って陣を構え、劉備軍に対抗しようと考えた。
しかし郭淮はこう言った。
「それは弱(我が軍の弱勢)を示すことで、敵を挫くには足りませんので、良い計ではありません。川から遠く離れて陣を構えるべきです。敵を誘って到らせ、半分渡った後に撃てば、劉備を破ることができましょう」
郭淮の言に従って陣を構えると、劉備は疑って漢水を渡らなくなった。
そこで郭淮は陣の守りを堅くし、撤退の心がないことを示した。
郭淮がこの状況を曹操に報告すると、曹操は称賛して使者を派遣し、張郃に正式に節(軍を指揮する符節)を授け、改めて郭淮を張郃の司馬に任命した。
次回も劉備、曹操サイド