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三国志  作者: 大田牛二
第五章 三国鼎立
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曹彰

 四月、代郡と上谷の烏桓・無臣氐らが反した。


 以前、魏王・曹操が代郡太守・裴潜はいせんを召して丞相理曹掾に任命し、裴潜が代を治めた功績を賛美した。この時、裴潜はこう述べた。


「私は百姓に対しては寛大でしたが、諸胡に対しては厳格でした。今、私を継ぐ者は必ず私の治め方が厳しすぎたと考えて政事に寛恵を加えることでしょう。しかしながら彼らは元から驕恣(驕慢放縦)ですので、寛大が過ぎれば、必ず弛緩してしまい、既に弛緩してから法を用いて治めようとすれば、それが怨叛を生む原因になります。形勢によってこれを料るに、代は必ずまた叛します」


 曹操は裴潜を還らせるのが速かったことを深く悔いた。


 数十日後、果たして三単于が叛したという報せが届いた。


 曹操は子の鄢陵侯・曹彰そうしょうに驍騎将軍を代行させて討伐を命じた。


 曹彰は若い頃から射御が得意で、膂力(筋力・腕力)が卓越しており、猛獣と殴り会えるほどであった。そのため気性が苛烈なところが難点な人物である。


 曹操は曹彰の気性を戒めるために学問を課したが、曹彰は側近に衛青・霍去病を目標としており博士になりたいのではないと洩らした。曹操が子供たちに目標を訪ねた時、曹彰は将軍として先陣を切り信賞必罰を旨とすると述べたため、曹操は大笑いした。

 

 そんな彼に曹操は出兵前にこう戒めた。


「家にいたら父子の関係だが、命を受けたら君臣になる。行動する時は、王法によって事を行うように。汝はこれを戒めとせよ」


 更に曹操は彼に田豫でんよをつけた。


 曹彰は代郡の烏桓との戦いにおいて、田豫は、


「いいですか。自分の手に慎重って書いてください。慎重っていいですね」


 そう言って彼の猪突猛進ぶりを止めようとしたが、いざ戦いとなれば、曹彰は自ら戦闘に加わり、鎧に数本の矢が命中しながらも、前進を止めるどころか更に激しく相手を攻撃し続けた。


 田豫は頭を抱えながらも常に左右後方の警戒を行ったため、曹彰は勝利を重ねた。


 勝ちに乗じて敗北した烏桓を逐って易水の北に宿泊していたところで敵兵の伏兵に遭遇したが、用心に用心を重ねていた田豫が策略を巡らし、車で円陣を作って弓や弩で敵を防ぎ、敵が撤退すると追撃して大勝した。


 更に追撃を続けて桑乾の北に至って大破した。斬首・捕虜は千人を数えたという。


 当時、鮮卑の大人・軻比能あさひのうは数万騎を率いて強弱を傍観していた。軻比能は小種鮮卑(鮮卑の小族)であったが、勇健で財物を貪らず、法を執行したら公正だったため、衆人が惟して大人になった人物である。


 彼は曹彰が力戦して向かう所が全て破れるのを見て、帰服を請うた。


 こうして北方が全て平定された。


 その後、曹彰は劉備と戦いに行こうとしていた長安の曹操に呼び寄せられた。


 鄴を通った時に曹丕そうひに会い、彼から功績を挙げたことを自慢せず控えめに受け答えするよう助言を受けた。曹彰が曹丕の助言通りに振舞うと、曹操は曹彰の鬚を手に取って「黄鬚」(虎髭を生やしたような勇者の称号)と呼び、その成長を喜んだという。









 劉備りゅうびが陽平関に駐軍し、夏侯淵かこうえん張郃ちょうこう徐晃じょこうらと対峙した。


 劉備はその将・陳式ちんしきらを派遣して馬鳴閣の道を絶たせたが、それをすぐさま察知した徐晃がこれを撃破した。


 張郃が広石に駐屯していた。


 劉備はこれを攻めていたが、勝利を得ることができなかった。


「ここはどうしても取らねばなりません」


 法正ほうせい黄権こうけんがそう進言していたため、劉備は急いで成都に書を送り、益州の兵を動員させた。


 諸葛亮しょかつりょうはこの書を受け取ると従事・楊洪ようこうに意見を求めた。彼は字は季休といい、若い頃から学問には打ち込んでこなかった人であるが、誠実さと人を見抜く目をもった人物である。


 最初は劉璋りゅうしょうに仕えていたが、劉備が益州を平定した際、犍為太守・李厳りげんが楊洪を招聘して功曹として用いられてその後。従事になった人である。


 楊洪はこう言った。


「漢中は益州の咽喉であり、存亡の機会(要点。要所)です。もし漢中が無くなってしまえば、蜀も無くなってしまいます。これは家門の禍いです。出兵の何を躊躇するのですか?」


 国家の存亡に関わる戦に関わらず、諸葛亮が兵の派遣を渋ったところから諸葛亮の戦における感覚に鈍さがあることがわかる。


 当時、蜀郡太守・法正が劉備に従って北行していたため、諸葛亮は上表して楊洪に蜀郡太守の職務を兼任させることにした。楊洪は諸政務を全てこなしたため、正式に蜀郡太守に任命した。


 楊洪は門下書佐・何祗かしに才策があるとして推挙したことがある。楊洪が蜀郡太守を勤めている間に、諸葛亮は何祗を広漢太守にした。


 楊洪は李厳の官吏、何祗は楊洪の官吏であったが、諸葛亮は短い期間に楊洪と何祗を抜擢して太守にした。人々は優秀な人材を用いて抜擢する諸葛亮に感服したという。


 内政における人事においては諸葛亮の右に出る者はいない。


 漢中を巡る戦いが行われる中、盗賊・馬秦ばしん高勝こうしょうらが郪で挙兵した。衆人を集めて数万人の集団を編成し、資中県に到った。


 当時、劉備は漢中にいるため、犍為太守・李厳は改めて兵を徴発することなく、郡士五千人だけを率いて討伐し、馬秦、高勝らの首を斬った。枝党は星散し、全て民籍に戻った。


 また、越嶲夷の長・高定こうていが軍を送って新道県を囲んだが、李厳が馳せて救援に赴いた。賊は全て敗走した。


 七月、魏王・曹操は劉備を撃つために自ら兵を率いて西征し、九月、長安に至った。


 南陽一帯の吏民は樊城に駐屯している曹仁そうじん軍への供給に苦しんでいた。


 十月、宛の守将・侯音こうおんらが反して吏民を脅迫し、宛城で守りを固めた。彼は荊州の関羽かんうに書簡を送り、関羽に通じた。


 南陽太守・東里袞とうりこんと功曹・応余おうよが逃走して脱出したが、侯音が騎兵を派遣して追撃させた。矢が飛び交う中、応余が身をもって東里袞をかばい、七つの傷を負って死んだ。


 侯音の騎兵が東里袞を捕えて帰った。


 魏王・曹操は曹仁に命じ、侯音を討つために宛に還って包囲させた。


 南陽功曹・宗子卿そうしけいが侯音に会いに行き、説得して言った。


「足下は民心に順じて大事を挙げました。遠近で敬慕しない者はおりません。しかし郡将を捕えたのは、人望に背くことであって無益です。何故去らせないのですか。私はあなたと共に尽力します。曹公の軍が来る時には、関羽の兵も到着するでしょう」


 侯音はこれに従い、太守を放って去らせた。


 宗子卿も夜に乗じて城壁を越え、脱出逃亡した。その後、太守に従って余民を集め、侯音を包囲した。


 ちょうど曹仁の軍が到着したため、共に侯音を攻めた。


 侯音は斬られた。

次回も劉備と曹操サイド。

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