王必
218年
法正が劉備に言った。
「曹操は一挙して張魯を降し、漢中を定めましたが、その勢いに乗じて巴・蜀を図らず、夏侯淵、張郃を留めて屯守させ、その身は急いで北に還りました。これはその智が及ばなかったのではなく、力が足りなかったのであり、必ず内に憂患があるからです。今、夏侯淵と張郃の才略を測るに、蜀の将帥に勝らないため、衆を挙げて討ちに行けば必ず克つことができます。これに克った日に、農事を広げて穀物を積み、相手の弱点を観察して隙を伺えば、最もうまくいけば寇敵を転覆して王室を尊奨(尊重・輔佐)でき、最上ではなくても雍・涼に蚕食(徐々に勢力を拡大すること)して境土を拡大でき、少なくとも要塞を固守して持久の計を為すことができます。これは恐らく天が我々に与えたのであり、機会を失ってはなりません」
劉備はこの策を称賛し、諸将を率いて漢中に兵を進め、張飛、馬超、呉蘭、雷銅らを派遣して下辨に駐屯させた。
曹操は都護将軍・曹洪を送って拒ませた。
そんな中、曹操は丞相長史・王必に兵を管理させ、許中の事を監督させていた。王必は曹操の挙兵時から従っている古参の人である。
王必を長史に任命した時の令に、王必に対する曹操の評価が書かれているためここに載せる。
「領長史・王必は、私が困難な時の吏だ。その忠は職務に尽力することができ、心は鉄石のように固く、国の良吏である。今まで王必を招聘する機会がなかったが、駿馬を捨ててそれに乗らず、遑遑(慌ただしい様子)として改めて人材を求めることがあるだろうか。よってこれを招聘させ、相応しい場所に配置した。以前と同じように、領長史として政事を統べさせる」
自分に対して誠実な人である彼をやっと用いる機会ができたという嬉しさが伝わるような文章である。
劉備の漢中侵攻に合わせるように荊州の関羽も北上の気配を示していた。
京兆の人・金禕は代々漢臣で、祖先の金日磾が馬何羅を討ってから、忠誠が顕著で名節が代を重ねていると思っていた。漢を魏が乗っ取ろうとしているのを見て、中興するべきだと考え、長嘆発憤した。
彼は少府・耿紀、司直・韋晃、太医令・吉本、吉本の子・吉邈、吉邈の弟・吉穆らを誘い、魏を打ち倒す謀を巡らし始めた。
耿紀は字を季行といい、若い頃から美名があった人物である。丞相掾になってから、曹操が甚だ敬重し、侍中に遷して少府を守らせていた人物である。
皆、金禕が慷慨(感慨、憤慨)として金日磾の気風があり、また王必と関係が良いため、それによって隙を伺い、王必を殺して天子を制御下に置いて魏を攻撃し、南の関羽を招こうと考えてた。
吉邈らが雑人(恐らく雑用を担当する身分が低い者)および奴僕千余人を率い、夜、門を焼いて王必を攻めた。
金禕が人を送って内応させ、王必に矢を射て肩に命中させた。
王必は攻撃した者が誰か分からず、かねてから金禕と仲が良かったため、走って金禕に投じた。夜、
「徳禕っ」
と叫ぶと金禕の家の者はそれが王必だと知らず、吉邈らが来たと思い、誤って、
「王長史はもう死んだのですか。あなた方の事は成功しましたか?」
と応えた。
王必は今回の黒幕であると見抜くと路を変えて奔った。
ちょうど天が明るくなり、王必は典農中郎将の厳匡とともに討伐軍を起こし、吉邈らの軍勢を蹴散らして反乱を鎮圧した。
しかしその十余日後に王必は傷が元で死んでしまった。
耿紀、韋晃らは逮捕され、斬られようとした時、耿紀は曹操の名を呼んでこう言った。
「恨むのは、私が自ら謀ったのではなく、群児の言うことを聞いて失敗してしまったことだ」
韋晃は頓首して顔を打ち、死に至った。
王必が死んだと聞いた曹操は激怒し、漢の百官を召して鄴に至らせた。消火に協力した者は左に、消火しなかった右は行かせた。
衆人は消火した者が必ず無罪になると思い、皆、左に寄った。しかし曹操は、
「消火しなかった者が乱を助けたのではない。消火した者こそが本当の賊だ」
と言って全て殺してしまった。消火した者は現場に居たのだから、反乱に参加したはずだということである。
この混乱の中、派遣された曹洪は呉蘭を撃とうとしていた。
しかし張飛が固山に駐屯し、
「曹洪軍の後ろを断とうと欲している」
と公言したため、曹洪や諸将は衆議において躊躇した。
騎都尉・曹休が言った。
「賊が実際に道を断つのならば、伏兵を潜行させるはずです。今、先に大言を張ったのは、それができないからであることは明らかです。まだ集結する前に、急いで呉蘭を撃つべきです。呉蘭が破れれば、張飛は自ずから走りましょう」
曹洪はこれに従って進軍し、呉蘭と雷銅を撃破して二人を斬った。
三月、張飛と馬超は撤退した。
次回も曹操、劉備サイド