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三国志  作者: 大田牛二
第五章 三国鼎立
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第二次合肥攻防戦

 八月、孫権そんけんが十万の衆を率いて合肥を包囲した。


 この時、張遼ちょうりょう李典りてん楽進がくしんが七千余人を率いて合肥に駐屯していた。


 曹操そうそう張魯ちょうろを征討する時、教(指示書)を作って合肥護軍・薛悌せつていに与えていた。薛悌は兗州での叛乱時に曹操に味方した三城の一つを守っていた人物である。


 彼が曹操からもらった教を函(書信、書簡)に入れてもってきており、それの端に、


「賊が至ったら開け」


 と書かれていた。孫権軍が来たためその教(指示書)を開くと、こう書かれていた。


「もし孫権が至ったら、張・李将軍が出て戦い、楽将軍が守れ。護軍は戦いに参加するな」


 諸将は兵力の差が大きすぎるため敵わないと思い、曹操の指示(敢えて出撃するという内容)を疑ったが、そんな中、張遼が言った。


「公は遠征して外にいる。救援がここに至るまでに孫権が我々を破るのは必至である。だからこそ敵が集結する前に乗じて迎撃するように指示したのだ。その盛勢を折ることで衆心を安定させれば、その後、守ることができるだろう」


 楽進らが何も言わないため、張遼が怒って言った。


「成敗の機はこの一戦にかかっている。諸君がもし疑うのならば、私は独りで勝敗を決するのみである」


 李典は以前から張遼と不和であったが、彼の言葉に憤激して言った。


「これは国家の大事だ。君の計が如何であるかを顧みるだけである。私が私憾(個人的な怨恨)によって公義を忘れることができようか。君に従って出撃することを請う」


 李典の言葉に張遼は強く頷く。


「では、参らん」


 張遼は夜の間に敢従の士(張遼に従う勇敢な士)を募り、八百人を得た。牛を殺して宴を開き、彼らを慰労した。


 翌早朝、張遼は黒い甲冑を着て戟を持ち、率先して敵陣に向かって出陣した。


 朝日が昇り始めている。陳武ちんぶはそれに目を細めて見る。


 彼は孫策が寿春にいた頃に拝謁し、その家臣となった人物である。その時、陳武は十八歳で身長が七尺七寸あったという。


 孫策の長江渡河時に従軍し、各地で戦功を挙げて別部司馬となった。孫策が劉勲を討つと、その投降者を選抜して軍団を組織し、陳武に指揮させた。その軍団は精鋭揃いで負け知らずだったという。


 孫権の代になると五校尉(首都防衛機動隊長官)の目付役に任命された。


 陳武は思いやりがあり、人に対する気前も良かった。そのため同郷の者や遠方からの避難民が多く身を寄せた。孫権からも特別の寵愛を受け、孫権が陳武の家を何度も訪れる程であった。陳武は功労を重ね、偏将軍にまで昇った。


 その彼の前に朝日と共に黒い影の集団が現れた。


「敵襲っ」


 陳武が叫んだ瞬間、黒い影の集団・張遼らが突撃していった。


「我が名は張文遠である」


 張遼は数十人を殺してみせた。


「ここは通さんぞ」


 陳武が挑み、矛を振るう。


 張遼は彼の矛を矛で受け止めるとまるで、絡め取るように矛を救い上げ、片手で剣を抜き、陳武の首を斬り飛ばした。


 後に孫権は陳武の死を大いに悲しみ、葬儀にも直接参加したという。『江表伝』によれば、孫権は彼の愛妾に殉死を命じ、賓客二百家の租税を免除したとあり、これに後の孫盛は批難の言葉を述べている。


 陳武ともう一人の将軍の首も斬り飛ばし、更に数十人の兵をも殺してみせた張遼は自分の名を大呼し、営塁に突入して孫権の麾下(将帥旗の下)に至った。


 徐盛じょせい宋謙そうけんがそれに防ぎにきたが、張遼たちの勢いに押され、破れた。徐盛自身は負傷し、更には牙旗まで失ってしまった。


 この状況に孫権は大いに驚いてどうするべきか分からず、走って高冢(本来、「冢」は墳墓の意味であるが、この「高冢」は「山頂」という意味であろうと思われる)に登り、長戟で自分を守った。


 張遼が孫権を叱咤し、下りて戦わせようとしたが、孫権は動くことができなかった。


 しかし孫権は遠くを眺めて張遼が率いる兵衆が少ないのを見た。そこで兵を集めて張遼を数重に包囲するように指示を出した。


 これに答えて動いた将は二人である。


「主が危機にあるぞ」


 そう叫ぶ男の鎧は朝日に照らされ、黄金に輝いていた。いや、実際に彼の鎧は黄金でできていた。


「いざ、主を救わん」


 賀斉がせいはそう言って、張遼と戦い始めた。


 また、張遼の奇襲に動揺して逃げ回っていた兵を二人斬り殺した男がいた。


「おい、ひっく。逃げるな。ひっく」


 潘璋はんしょうは酒を飲みながら兵を叱咤する。


 彼は十五歳の孫権が陽羨県長だったときに、目通りを求め仕えた男である。潘璋は粗暴気ままで酒を好む性格であり、若い頃は貧しかったが、平気でつけで酒を飲み、出世払いで返すと大言壮語していた。孫権にその性格を愛され、募兵の任務を担当し、集まった兵達の部将にそのまま採り立てられた。後に山越征伐で功績を挙げ、別部司馬となった。


 こういう人でありながら呉の中央市場の取締り役を任されたときは、市場で盗難や殺人がなくなったと言うほどの見事な治安を成し遂げてみせた。これにより評判を高め、豫章郡の西安県長となった。当時、荊州の劉表配下の者達が幾度か略奪を働いていたが、潘璋の着任後は侵攻が止み静まり返ったという。


 また、隣の建昌で反乱が起きると、任地を建昌に移され、武猛校尉を加えられた。1ヶ月で反乱を鎮圧し、散逸した民を集め、兵士を八百人ほど増やし建業に帰還してみせた。


 賀斉と潘璋の行動により、孫権周りの守備が立て直され、逆に張遼を包囲し始めた。


「これ以上は危険だ」


 李典の言葉に頷くと張遼は包囲網を急撃して切り開き、部下数十人を率いて出ることができた。しかし包囲の中に残された者達が、


「将軍は我々を棄てるのですか」


 と叫ぶと張遼はまた戻って包囲を突破し、彼らを脱出してみせた。


 孫権の人馬は皆、潰滅し、張遼に当たろうとする者がいなかった。


 戦いは早朝から正午におよび、孫権軍の士気は大崩となった。


 張遼は帰還して守備を修め、彼の活躍に合肥の兵たちは尊敬の念をもって一気団結して守りを固めた。


 それにより孫権が合肥を包囲して十余日が経ったが、攻略できなかった。


 もはや勝てないと判断した孫権は撤退することを決めた。


 全ての兵が帰路に就き、孫権が諸将と共に逍遙津北(合肥の東側)にいた時、張遼が眺望してそれを知った。


「ただでは逃がさん」


 そこで張遼はすぐに楽進、李典と共に歩騎を率いて出撃し、再び孫権軍に奇襲をかけた。


 これに甘寧かんねい呂蒙りょもう凌統りょうとうらが力戦して敵に抵抗し、命懸けで孫権を守った。


 特に凌統が親近の兵を率いて孫権を抱きかかえさせ、包囲から脱出させた。その後、凌統はまた戻って張遼と戦い、左右の者が全て死んで自身も傷を負ったが、孫権が危機を脱した頃を見計らってから、川に飛び込んで泳いで見事、生還した。


「見事なり」


 張遼は彼の奮戦を称えた。


 包囲を脱した孫権は駿馬に乗って逍遙津の橋に上った。ところが橋の南が撤去されており、一丈余にわたって板がなかった。


 親近監・谷利こくりが孫権の馬の後ろにいた。彼は元奴隷という特殊な経歴を持っている人である。谷利は孫権に馬の鞍をつかんで手綱を緩めさせ、馬が勢いをつけるのを助けるために後ろから鞭で打った。


 そのおかげで孫権の馬は飛び越えることができた。


 賀斉が三千人を率いて逍遙津の南で孫権を迎えたため、孫権は難から免れられた。


 なんとか生き残った孫権が大船に入って酒宴を開いた。


 すると賀斉が席から離れて涙を流し、こう言った。


「至尊な人主は常に慎重であるべきでございます。今日の事は危うく禍敗をもたらすところであり、群下は天地がなくなったように震怖しました。これを終生の教訓となされることを願います」


 孫権は自ら前に進んで賀斉の涙をぬぐい、


「大いに慚愧し、謹んで既に心に刻んだ。紳に書いただけではない」


 と言った。


「紳」は「帯」のことである。『論語』に子張が孔子の言葉を紳に書いて忘れないようにしたという故事があり、そこから「紳に書く(書紳)」は教えや教訓を心に留めるという意味になった。


 つまり孫権の言葉は「子張は孔子の言葉を紳に書いて忘れないようにしたが、私は今回の失敗を更に大切な教訓として深く心に刻んでいる」という意味で、賀斉に「紳に書いただけではない」と答えたのである。


 本当に教訓にできたかは後世の人の見方による。


 こうして第二次合肥攻防戦は終結した。

次回は曹操サイド

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